ミッドナイト・パラレル
カナは自分のことをロボットだと言った。見た目も手触りも人間そっくりだけど、実は機械人形なのだと。
僕の姿を見つけると、カナは弾けるような笑顔になった。もうすぐ十一月だというのに半袖のTシャツとミニスカート、素足にビーサン。寒さを感知する回路がないとかいう設定なんだろう、おそらく。
三年前に潰れて廃墟と化したスーパーの立体駐車場、ここが僕たちの待ち合わせ場所だ。
深夜0時。この街には今、僕たちしかいない。音もない。アブのようにうなるバイクの音も、酔っぱらいの叫び声も、救急車のサイレンも、何も聞こえない。すべて消えてしまったのだ。どういうわけかはわからない。車も建物も木々も道路も変わらずにそこにあるけど、誰もいないし、何も動かないのだ。
僕がこの、ぬけがらのような世界に迷い込んだのは二週間ほど前のことだ。
深夜だった。部屋で受験勉強をしていた僕は、冷たい空気が吸いたくなり、上着を羽織り、玄関のドアを開けた。その瞬間、なにかがおかしいと思った。音がないのだ。エレベーターも動かない。階段を使って下まで降り、マンションを出る。住宅街を通り抜け、国道に出てみると、信号は青だし渋滞しているわけでもないのに、車はすべて停止していた。腕時計を見ると午前0時ちょうどで針が止まっている。いくら待っても動かない。壊れたのかと、ポケットから携帯を取り出して時間を確認する。午前0時ちょうど。
空を見上げた。青白く光る月が綺麗だった。
以来、午前0時きっかりにマンションのドアを開けると、時間が止まる。人が消える。冗談みたいな話だけど、そうとしか思えない。僕は深く考えることはせず、毎晩深夜の散歩を楽しんだ。人間は誰もいない。眠っている気配すら感じられない。そのことに深い安らぎを感じていた。
歩き疲れた僕はいつも、廃墟になったスーパーの立駐で眠った。その間に時計の針は動き始めるらしく、目覚めると自分の部屋で、僕は学習机につっぷしていて、窓から射しこんだ光に照らされているのだ。だからこれはある種の夢なのかもしれない。幻覚かもしれない。だけどそんなことはどうでもよかった。
ある晩のことだ。いつものように人の消えた街を徘徊していると、突然背中をつつかれた。振り返ると、真夏の恰好をした女の子が、肩まである髪を揺らして、いたずらっぽくほほ笑んでいた。それがカナだった。
僕は毎晩カナと遊ぶようになった。リアルな時間の流れる昼間の世界では、彼女がどこに住んでどこの学校に行っているのか、僕は何も知らないまま。僕自身も彼女に自分の情報を与えなかった。ただ知ったのは、お互い十五で(製造されて15年という言い方を彼女はした)、同い年であることぐらい。カナという名前だって作り物かもしれない。
カナはいつも僕より先にこの世界へ来て、廃墟の立駐で僕を待っている。今夜だって。
国道沿いの歩道を歩く。途中、鍵の壊れた自転車を盗んで、カナを後ろにのせて走る。誰もいないゲーセンや繁華街なんかを冷やかして、廃墟の立体駐車場に戻って眠る。いつだって僕たちに眠りは訪れる。どんなに元の世界へ戻りたくなくても、なかば強制的に引き戻されてしまうんだ。そして朝は来る。
目が覚めた。カナはいない。カチコチと時計の秒針の音がする。自分の部屋だ。
顔を洗いに部屋を出ると、舞さんが作る味噌汁のにおいがする。深夜の散歩を始めてから、僕は学校には行っていない。不登校になってみれば、今までどうしてあんな場所に自分を騙しながら行っていたのかわからない。
学校では、僕のかわりに違う誰かがサンドバックになっていることだろう。ランダムに渡されるリレーのバトンだ。ある日突然、ターゲットが変わる。
朝のダイニングで。舞さんは僕にほほ笑んで、厚揚げと大根の味噌汁を差し出した。
「一日三度、ゆっくり噛んで、自然の恵みをいただくこと。だれかの手作りのものを食べること。それさえ続ければ、きっと大丈夫」
なんて言う。ちょっと頭湧いてんのかな。親父と結婚できて脳みそが花畑なんだろう。一体、何が大丈夫なのか意味がわからない。
大きなあくびをしながら、親父がダイニングにあらわれた。
「うまそうなにおい。幸せだな、目が覚めると味噌汁のにおいと包丁の音がする生活」
幸せだね、死んだ母さんのことをあっさり忘れて、十も年下の女を妻にできて。
「翔くん」
舞さんが、部屋に戻ろうとする僕のパーカの袖を引いた。そっと振り払う。
「翔。疲れたら休むのは悪いことじゃない。じゅうぶん充電したら、また行けばいい。父さんたちは、ずっと待ってるから」
耳ざわりのいいことばかり言うところはそっくりなふたりだ。僕が受験勉強のストレスで引きこもってると思っているらしい。
深夜0時。外に出て、マンションを見上げる。五階、僕の家の灯りはついている。三階。香川夏実の家の灯りもまだ、ついている。だけどそこには夏実本人も彼女の両親も、誰もいないはずだ。待ち合わせ場所の立駐までの道すがら、僕はずっと夏実のことを考えていた。小学校の時までは仲が良かった。中学に入ってからは、お互いを苗字で呼び合うようになった。夏実はどんどんあか抜けていった。
三年になって、同じクラスになった。
なぜ、同じクラスになどなってしまったんだろう。僕と夏実と、それからあいつ。
思わず歯噛みする。空には無数の電線が走り、星のひかえめな輝きが貼りついている。
思い出す。僕の髪を引っ張り上げてつばを吐きかけた城崎和樹の整った顔。小学校時代は同じサッカーチームで、塾も同じで、いい友人だった。三年になって同じクラスになって、つるむようになった。和樹は光で。クラスの中で一番輝きを放つ星で。和樹のそばにいると自分まで光になった気がした。だけど。夏休みが明けてから、いきなり和樹が豹変した。きっかけはわからない。覚えがない。とにかく、クラス中の人間が僕を見なくなったのだ。和樹の指示だった。
最初のうちは、何かの間違いだと思って耐えた。だけど、嫌がらせはどんどんエスカレートし、器物破損にとどまらず、直接的な暴力も受けるようになった。服に隠れて目立たないような所を殴られ、蹴られる。だけどまだ僕は、ぎりぎりのとこで踏ん張っていた。
夏実がいたから。彼女をこっそりと見つめることだけが僕の楽しみで。夏実も僕と口をきいてくれなくなったけど、時折、ねぎらうような視線を僕に送ってくれた。少なくとも、僕はそう感じていた。
だけど違った。事実は別のところにあった。
がらんどうの廃墟が視界に現れる。立体駐車場、今夜もカナは僕を待っていた。翔、と僕を呼ぶ声はいつも弾んでいて。それを聞いたら、駆け出さずにはいられない。
コンビニで食べ物を盗んで、ファミレスに忍び込み、テーブルの上に広げて食べる。店内は確かに無人なのに、気配の名残のようなものがあって、僕は少し居心地が悪い。いっぽうカナは、そんなことにはおかまいなしだ。
「どっちが本物なのかな」
クレープを食べながら彼女は言う。ロボットも人間と同じものを摂取するらしい。
「ここと、昼間の世界」
「さあね。でも気に入ってるのは断然こっち」
「あたしも。だって翔がいるもん」
カナは口のはしっこについた白いクリームを指ですくうと、桃色の舌を出して舐めた。
午前、0時。きっと、同時に存在するふたつの世界が重なり合っているんだろう。なぜかカナと翔だけが来ることができる。そんなことをカナは言った。だけど僕の頭の中は「だって翔がいるもん」という言葉でいっぱいだ。
「翔?」
カナはほおづえをついてまっすぐに僕を見る。
「眠いの?」
眠くない、と強がりを言う。寝たら、またあのくだらない世界に戻されちまう。だけどうらはらに、まぶたは重くなり、頭にはミルク色のもやがかかりはじめる。いつも唐突に、眠気に襲われる瞬間が訪れるのだ。
いまいましい朝日が僕の背中を照らす。顔を洗いに洗面所へ向かう。いつも通りだ。
舞さんが僕におはようを言う。少し顔色がよくないような気がする。やがて親父も起きてきて、三人そろって食卓につく。玄米は固いし、味噌汁は味が薄かった。舞さんこだわりの、無農薬野菜に無添加の味噌を使い、だしから丁寧にとった自慢の味噌汁。おいしい? と聞かれ、味しないと正直に答える。
「そう。ジャンクなものに舌が慣れ過ぎてるのかな? 今の子は小さいころから化学調味料漬けだから」
箸を置いた。無言で席を立つ。
「翔くん? もういいの? わたし、なにか気に障るようなこと言った?」
「僕は死んだ母さんのごはんのほうがいい。あんたにしてみりゃ、ジャンクで化学調味料まみれなんだろうけど」
「そんなつもりじゃ……」
今にも泣きそうな舞さんを親父がかばう。
「翔。お母さんに謝りなさい」
「僕のお母さんは、ひとりしかいない」
「翔」
僕をにらみつけながらも、親父の手は、泣き始めた舞さんの背中に置かれている。
「舞はこんなに頑張ってるのに。なのにお前は、いつまでも学校から、現実から逃げて」
それが本音か。親父なんてこんなもんだ。
「もっと大人になれ。おまえは、来年には、お兄ちゃんになるんだぞ」
「え?」
「きのう、病院に行ってきたの」
舞さんが鼻をすすりながら言う。
「赤ちゃんができたって」
ふうん、とだけ、そっけなく言ってのけた。脳みそのうらっかわがすうっと冷えていく。自分が自分から離れていくような。
「大事な時期だから、おまえも、気を使ってやってくれ」
親父はもはや僕の父親じゃない、ただの、女に入れあげてるしょうもないスケべおやじだ。僕のことはちっとも見えないし、見ようともしない。黙って自室に戻ろうとする僕を、親父はなおも引き止めた。
「きょうも学校は休むのか」
なにも答えずにいると親父はさらにたたみかける。
「こないだ、夏実ちゃんと和樹くんに会った。心配してたぞ。おまえに、早く学校に戻ってほしいって」
大人って簡単に騙されるんだな。和樹が僕をいじめる主犯で、夏実はその彼女だ。それを知ったら親父はどんな顔をするんだろう。
僕はそっと目を伏せる。
「……行くよ、学校」
ひさしぶりに制服を着た。マンションを出ると、向かいのパチンコ屋の駐車場の影で、和樹と夏実が手をつないでいるのが目に入った。慌てて建物の奥に隠れる。毎日、ここで待ち合わせて一緒に登校してるんだ。
「おまえ、夏実のことエロい目で見んのやめろよ」
和樹は言った。便器に何度も僕の顔を押し付けながら。
「夏実言ってた。きもいって」
「な、なんで、かず、きに」
「俺たちつき合ってんだよ。コクられてさ」
息が苦しくて頭が真っ白になった。窒息する寸前で引き上げられる。きったねー、とげらげら笑うあいつらの顔が、無邪気なケモノみたいな声が。アンモニアのにおいが。水の味が。蘇って吐きそうになる。
学校には行かない。僕は制服を着たまま、昼間の世界の、廃墟のスーパーへと向かった。
「夜の世界はぜんぜんちがうな」
つぶやいた。いつもの立駐。となりにはカナがいて、僕の上着の袖をつまんでいる。
「昼も来たの?」
うなずく。昼間の、明るい世界に忘れられた暗闇は、ひどく寂しくて、寒くてたまらなかった。深夜0時の町では違う。一瞬で人が消えた即席の廃墟の町にあって、本物の廃墟は妙に心落ち着く。
自転車の後ろにカナを乗せて、国道の真ん中を走って行く。カナは、ワンダーランドに行きたいと言った。鈴街ワンダーランド。市の中心にある、しょぼい遊園地。赤字続きらしく、閉園の噂が絶えない。
「いいじゃん。行こう」
大きくUターンする。落っこちちゃう、とカナが嬉しそうに悲鳴をあげた。
昼間だって華やかさのない鈴街ワンダーランドは、真夜中になるとさらにひっそりと静まり、まるで湖の底に沈んだ遺跡みたいだ。観覧車もコーヒーカップも回転木馬も、外灯にひかえめに照らされて、息を潜めている。
「たのしーい」
カナは動かない回転木馬に乗っている。
「冷たい。すべすべしてる」
馬に抱きつくようにしてたてがみを撫でる。ところどころ塗装の剥げた、さびしげな目をした馬。カナが僕に手招きする。彼女に引っ張り上げられるみたいにして、白い馬にまたがった。僕の前に座ったカナを後ろから包みこむようなかたちになる。黒いつややかな髪のにおいがして、一瞬、くらくらした。
「わーい。乗馬だ乗馬だ、セレブだー」
「よくこんなんではしゃげるよね」
わざと突き放すような言い方をする。そうでもしないと、そのままカナを抱きしめてしまいそうだったから。
と、カナが馬から降りた。
「こんどはあそこ行こうよ」
連れて行かれた先は、ジェット・コースター。動かないのに乗ってどうすんの? と聞くとカナは真顔になった。
「乗るなんて言ってない。線路を歩くのよ」
線路、としばし考え、そして思い当たる。
「まじで? あぶないって」
「怖いの?」
カナの目が光る。
「あたしは怖くない。落ちて壊れるのなんて怖くない」
乗り場にかかったチェーンを飛び越えると、コースターの「線路」を、カナは歩きはじめた。スピードもスリルもないとさんざんバカにしていたジェットコースターのコースは、くるりと一回転するでもなく一気に落下する箇所があるでもなく、緩やかなものだ。それでも空の高いところをうねうねと蛇行する道を行くのは恐ろしい。しがみつく手は赤くかじかんで、すぐにしびれて落ちそうになる。
「足の裏がすうすうする」
先を行くカナは平然とした顔で振り返り、やめとく? と言った。
「やめない」強がってみせる。
「もうすこしで、カナのパンツ見えそうだもん」
「やっぱやめる!」
怒ったカナがバランスをくずし、ふらりと倒れた。僕のところに転がってきて、そのまま抱き留めると、勢いでふたりいっぺんにごろごろと転がり落ちる。
「わー。人間コースターだっ」
「カナは人間じゃないんじゃなかったっけっ」
「人間とロボットの競演っ」
目が回る。なにがなんだかわからない状況で、なにがなんだかわからないことを叫び合う。やがてもとの乗り場に戻り、動かないコースターの車体にぶつかって止まった。
「あはっ」
僕に抱きついたまま、カナが笑う。
「あはははっ」
僕も笑った。可笑しくてたまらない。腹が痛くなるほど笑って、しまいには涙まで出てきて、カナの華奢な体をぎゅっと抱きしめながら、おかしなテンションのまま、僕はカナのくちびるに自分のくちびるを押し当てた。カナが目を閉じたのがわかったから、僕はいったん口を離すと、もう一度、今度はそっと触れるように口づけた。
くちびるを離す。目が合う。ひどく照れ臭い。
「翔のキスって」
カナが僕の胸に顔をうずめた。
「やさしいんだね。こんなにやさしいキスって、あたし」
泣いている。カナは、声を殺して泣いている。そのまま僕らは眠りに落ちた。そして朝が来る。
僕の、カナに対する気持ちはなんなのだろう。夏実にずっと抱いていた気持ちとは違うような気がする。わからない。ゆうべのキスを思い出すと、体が熱くなる。カナは今、どこで目を覚まして、なにをしているんだろう。僕のキスをやさしいと言った。まるでだれかと比べているみたいな物言いで、ちりちりと胸が焼けてどうしようもない。
ふと壁の時計を見やる。もうすぐ八時になろうとしていた。
くだらない世界のくだらないしきたりに従い、制服を着て、学校に行くふりをする。親父はとっくに出勤したみたいだ。話しかけてくる舞さんを無視し、ドアを開ける。日の光がまぶしい。
マンションを出ると一番会いたくない奴に出くわした。
「よう、もう不登校やめんの?」
和樹がにやにや笑いながらにじり寄ってくる。茶色がかった短髪も、ずらしたズボンも、マフラーの巻き方も、すべてが僕より数段上で、外側だけは一級品だ。サッカーの腕も、強気な態度も。この先どんなにクラスの力関係が変動したとしても、和樹だけは絶対に僕のいる位置まで転落することはないだろう。
「僕なんかに構わずに、夏実と一緒に行けば」
「ざんねーん」
和樹は僕の肩に腕をまわして、へらへらと笑う。
「体調不良でお休みなの。寂しいからさっき部屋まで行って顔見てきたし」
そうかよ。その汚い手、僕から離せよ。
「さ、一緒に行こうぜ。楽しい学校。翔まで休んだら俺さびしくて耐えらんねえ」
絡めとられて身動きができない。
教室で、びくびくしている僕に、
「見る? お前が休んでた分のノート」
サッカー部の野口が俺に自分のノートを渡した。訝しがりながらも受け取ろうとすると、
「やっぱいらねーか。成績優秀だもんな翔は。ちょっとくらい休んでも俺らより上っしょ」
ノートを取り上げて口の端を上げる。和樹もにやにや笑っている。嫌な予感がした。
給食の片づけがすんで、生徒たちがめいめいに運動場へ行ったり図書室へ行ったりしはじめた頃。
「さーて、と」
和樹が立ち上がって伸びをした。それが合図だった。
便所で囲まれる。人払いでもしたみたいに、誰も用を足しにこない。みんな察知しているのだ。これからここで祭りがはじまることを。
「会いたかったよ翔くーん」
野口が僕の腹をいきなり殴った。さっき食べた給食が上がりそうになる。それを皮切りに、かわるがわる蹴られ殴られ、僕はただアルマジロみたいに丸まって耐えるだけだ。
和樹はにやにや笑っているだけで手は出さない。うす気味悪くて背すじが冷える。
「こいつボコるのも飽きたわ、俺」
学生服のポケットから携帯を取り出す和樹。野口がにやりと笑い、僕を後ろから羽交い絞めにした。和樹が携帯片手に、僕のベルトに手をかけて外し始める。
「なっ、なにすん、」だ、まで言い終わらないうちに、ズボンとボクサーパンツを一気に引きずり下ろされた。頭が真っ白になる。
「足開けよ、おら」
和樹が僕のむき出しの下半身を写真に撮り始めた。
何なんだ。何で、こんな。白くなった頭に血がのぼって、足を無茶苦茶にばたつかせて抵抗する。見るな。見るな。
「これ、クラス中に回そうか。女子にも」
女子たちが、夏実が、和樹からの画像を見て顔をしかめている図が、脳裏によぎる。そんなことになったら、僕はもう、生きていけない。生きて、いけない。
和樹がにやりと口もとをゆがめた。
はじめて死にたいと思った。和樹もクズなら僕もクズだ。強請られて、スーパーで万引きをさせられた。従うしかなかった。
夜になって、非常階段からマンションの屋上へのぼる。屋上のへりには手すりも何もない。そっと足を踏み出した時、落ちて壊れるのなんか怖くない、というカナの声が耳の奥に響いた。カナ。カナの髪のにおい、笑い声。
足を引っ込めた。死ぬ前にもう一度、カナに会いたい。
午前0時、僕は街に出る。ゼリーのように固まった、僕とカナだけの街。いつもの立駐に彼女はいた。僕を見つけて、少しはにかんだようにほほ笑む。
カナ。胸がいっぱいになって、まっすぐに駆けよる。カナが僕の手を取る。すべすべで小さくて、凍りそうに冷たい女の子の手。
泣きそうになるのをこらえて、無理やりに笑顔をつくってみせた。カナはそんな僕のほおにそっと、つないでないほうの手をそえた。
「どうして我慢するの? 男の子だって泣きたいときは泣いていいんだよ」
「ごめん、カナ」
カナの細っこい体を、ぎゅっと抱きしめる。髪を撫でる。
「カナの心臓、どきどきしてる」
「機械の心臓だよ。性能がいいの」
「そっか、ロボットだったっけ?」
「忘れてた?」
「うん。僕もロボットだったらよかったのに」
人間なんて、もううんざりだ。ふふ、とカナはさびしげに笑った。僕たちは歩き出す。やっぱりカナに会いに来たのは失敗だったかもしれない。死ぬのを先延ばしにしたくなったから。だけど、和樹の要求はこれからもっとエスカレートしていくだろう。地獄だ。
「でもカナと別れたくない」
つぶやくと、カナがそっと僕の小指を握った。地獄から逃れる方法を考える。自分が死ぬか。それとも。
「この世界って、本来の、昼間の世界とどれくらい干渉し合っているんだろう」
「カンショウ?」
「うん。影響、っていうか。たとえば僕が今、あそこの家の窓ガラスを割ったら、もとの世界のあの家のガラスも割れるんだろうか」
カナは首をひねった。
「やってみなくちゃわかんない」
僕はうなずく。決めた。やってみる。
国道沿いのコンビニでライターを盗み、小学校そばの住宅街へと歩いていく。カナはなにも言わない。黙って僕の後ろをついてくる。
和樹の家に着いた。小さな庭のついた一軒家だ。小学校の頃はよく遊びに行った。一緒にサッカーして、一緒に宿題して。蘇る思い出を振り払う。感傷なんて邪魔なだけ、和樹はもう昔の和樹じゃない。庭にあった飾り用の石の置物で、一階の掃き出し窓を割る。カナを庭で待たせ、部屋にあったヒーターから灯油缶を抜き出し、階段を上る。あいつの部屋のドアを開け、灯油をばらまく。大きく息を吸い込み、ライターに火をつけ、投げた。
炎があがる。すげえ、燃えてる。一瞬惚けた僕の耳に、カナの声がかすかに届いた。
「翔っ。逃げて。翔まで燃えちゃう。早くっ」
我に返った。階段を駆け下りる僕の背中に猛烈な熱気が迫っていて、転がるように家を出て、庭で立ちすくんでいるカナの手をひき、一目散に駆ける。爆発音がして振り返ると、巨大な炎が和樹の家をまるごと飲みこみ、猛り狂っている。
住宅街を抜ける。小学校、僕の通っていた、和樹と夏実も通っていた学校に、逃げ込んだ。ガラスを割って校舎に入り、冷えた廊下にへたり込んで荒い息を吐く。体じゅうにねっとりと汗をかいている。カナは何も言わない。
まぶたの裏で、まだあのまがまがしい炎が燃え盛っている。僕はカナを引き寄せ、あらあらしく口づけた。舌をねじ込み、口の中をめちゃめちゃにかき回す。ひどく興奮して、そのままカナを押し倒す。Tシャツの中に手をすべりこませる直前で、名前を呼ばれた。
「……翔」
カナの声は、ひどく落ち着いていた。思わず、体を離してカナの顔を見つめる。能面のように表情がなかった。
「やめるの? いいよ、最後まで、しても」
「カナ?」
「ロボットにもできるんだよ。平気」
僕の中の炎がしゅるしゅると小さくなっていく。僕は、カナを。いま。
「そんな顔しないで、翔。機械人形はこんなことでは汚れないの。セックスなんて、全然たいしたことないんだから」
身を起こしたカナは、口の端をかすかに持ち上げた。こんな彼女、今まで見たことがない。まるで大人みたいじゃないか。
ごめんとだけ言って、今度はやさしく、そっとカナをかき抱いた。柔らかい髪を撫でる。確かめなきゃね、とカナは言った。
「翔を苦しめる人間が。向こうの世界で、どうなっているか」
抱き合ったまま眠った僕らはそれぞれの場所に帰った。昼間のカナはどこにいるのか。知りたいと思ったけど、同時に、カナ自身は知られたくないだろうとも思った。僕らは互いに、自分の話をするのを避けていたから。他人の家を焼き払った僕を平然と見ていたカナも、あるいは僕と似たような境遇にあるのかもしれない。
平常心、平常心と自分に言い聞かせながら朝食をとり、制服に着替えて登校する。テレビでもネットでも火事のニュースはなかった。舞さんも親父もそんな話はしなかった。
はたして和樹は何事もなく学校へ来た。あの世界で起こったことは、まぼろしだったのか。いつものようにいたぶられながら、僕は、ひたすら和樹を殺す方法を考えていた。
どこかで消防車のサイレンの音が鳴るのが聞こえる。救急車のサイレンも。音は響いて、曲がって、すぐに消えた。一瞬、和樹の家かと思い、すぐに幻聴だと首を振る。
夜が来て僕はカナに会いに行く。昼間の世界が偽物で、こっちの世界が本物だ。僕にはカナがいればいい。カナは、どうだろう。カナにとっての僕は。はっきりと言葉にしたわけでもないのに、廃墟の立駐で待ち合わせるのは僕らの約束事で。いつもカナは僕より先にここに来ていた。いつもだ。だけど今夜は僕が先みたいだ。駐車場をくまなく探して、それでもカナはいなくて。妙な胸騒ぎがした。
冷たいコンクリの柱にもたれかかり、白い息を吐く。カナはもう来ないんじゃないか。僕が、カナを乱暴に抱こうとしたから。流れ落ちる涙は熱かった。抱えた膝に顔をうずめる。カナを傷つけた。この世界にはじめて迷い込んだ時は、誰もいないことに安らぎを覚えていたのに、いつのまにか僕は彼女なしにはいられなくなってしまった。ひとりきりなんて耐えられない。カナのぬくもりが恋しい。
翔、と僕の名を呼ぶ声がする。顔をあげると、僕のまん前にカナがしゃがみこんでいて、子猫にするみたいに、僕の頭を撫でた。僕は顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「お願いがあって来たの」
しずかな声。
「あたし、ここに来るの、今夜で最後にするから」
「な、んで」
カナは何も答えない。かわりに、僕のほおを両手ではさみこみ、キスをした。
「涙の味」カナが自分のくちびるをなめる。桃色の舌、なまめかしい。
「翔、あたしと」
耳元で囁かれた秘密の言葉に、体がたぎる。カナを抱きしめ、小さな耳たぶにキスをする。
「ほんとに、いいの?」
「機械の体が不満じゃなければ」
「ほんとは機械なんかじゃないくせに」
僕が言うと、カナはむっつりとふくれた。
結果。僕たちは、最後までできなかった。情けなくて、ごめん、とつぶやく僕に、カナはうんと年上の女のひとみたいに、いいの、と笑ったのだ。胸が詰まりそうになって、アスファルトに転がったまま、カナをかき抱く。
「昼間の世界でも会えないの、僕ら」
「それは無理」
「だって僕はカナのことが」
「……リアルなあたしを知ったら、絶対に、引くよ」
そう言ってカナは服を直し、立ち上がった。
「翔にね、上書きしてもらおうと思ったの。でも、できなくて、ちょっとだけほっとしてる。怖かった。たとえ好きなひとでも」
さよなら、そう告げると、カナは駐車場を飛び出した。後を追う。カナは走る。どこへ行くんだ。何をする気だ。いやな予感しかしない。今夜のカナはいつもと違う。
上書きって、どういう意味だ?
国道を渡り、団地の敷地を抜け、古ぼけたビルへ。階段をのぼり、屋上へ出る。もう僕はカナが何をする気かわかっていた。僕も同じことをしようとしたから。
「カナ。二人で生きよう、昼間の世界でも」
「むり」
カナが屋上のへりに立って僕を見据えた。
「むり。だってあたし」
「じゃあ僕もカナと一緒に飛ぶ」
叫んでいた。
「カナのいない世界なんて生きる価値ない」
そのままカナのもとへ走る。手をつなぐ。ふたりで、せーの、で。ダイブした。冷たい空気を裂いて落ちながら僕の意識は消えた。
目を覚ますとそこはいつもの僕の部屋で。どうしようもない絶望感のなか、味噌汁のにおいのするダイニングへ。逃れられない。あそこの世界では僕は自分自身でさえも傷つけられない。今朝は珍しくテレビがついている。舞さんが顔をしかめて僕に話しかける。
「昨日火事があったでしょ? 団地の近くのアパートで。あれね」
レポーターが騒々しく喚いている。犯人は十五歳の女子中学生、父親を殺して火を放ち逃走していたところを逮捕。
カナ。……カナ。
舞さんの声が遠ざかっていく。僕は。僕だけがカナの本当の笑顔を知っている。何があっても僕は生き延びる。そして必ず、本当の彼女を、むかえにいく。