番外編 モトベ タツマのあまり平穏じゃなかった日々 その8
鉄熊がタツマに向けて歩み寄る。
食事の邪魔をした憎い相手を排除せんとする意思がありありと見える。
タツマと鉄熊の距離は約3歩。
鉄熊にとっては充分な攻撃射程範囲だ。
鉄熊は前足を振り上げ、タツマ目掛けて叩きつけた。
アルフとセシリーは見ていた。
再び立ち上がったタツマを。
しかし、その目前には既に鉄熊が立ち塞がっている。
鉄熊が前足を振り上げ、タツマに向け振り下ろす。
次の瞬間に起こるであろう惨劇から目を逸らそうと、二人はギュッと目を閉じた。
怒りにかられる鉄熊にもはや手加減はない。
叩き付けれた前足は容易にタツマを上半身をちぎり飛ばし、轟音と惨劇を森にもたらすことだろう。
振り上げられた前足は必殺の意思でもってタツマへと振り下ろされた。
しばしの静寂。
実際にはほんの一瞬だったのかもしれない。
しかし、予想に反し、あまりに静かな状況に疑問を持ったのはアルフだった。
彼は恐る恐る目を開ける。
そして彼は見たのだ。
鉄熊は驚愕する。
彼はこれまでの生涯で数え切れぬほどの獲物、ときには人間を葬ってきた。
小細工ばかり弄する目の前の獲物など、とうてい敵ではないはずだった。
しかし、予想に反して必殺の一撃は虚しく空を切る。
狙っていた筈の獲物は先程よりやや近い位置で静かに佇んでいた。
タツマは口元だけで薄く笑う。
鉄熊を笑ったわけではない。
先程までの自分が余りに滑稽だったからだ。
一体自分は何を恐れていたのだろうか。
それすらも今となっては理解ができない。
今のタツマにとって、それほどに鉄熊は与し易い相手だった。
『人は生身であれば猫にも勝つことができない』
これはとある高名な武道家が言ったとされる言葉だ。
そして真理でもある。
人間と動物にはそれほどに大きな隔たりが存在する。
理由は至極単純。力と肉体、その言葉に尽きる。
全ての楽しみを捨て、生涯を己の鍛錬だけに費やした男がいたとしよう。
しかし、その男の力も動物園で惰眠を貪るゴリラには到底敵わない。
走ることに全てを捧げ、悪魔に魂を差し出すことすら厭わぬ男がいたとしよう。
しかし、そんな彼も牧場にいる盆百の馬の速さには太刀打ちできない。
それほどの差があるのだ。
そこに技巧や鍛錬、工夫によって入り込む余地はない。
大人と子供・・・・・・いやプロ格闘家と子供以上に絶対的な差が存在するのだ。
生身の人は獣に勝てない。それが真理なのだ。
しかし、この世界においては話が別だ。
とびきりの反則がその真理をねじ伏せる。
それが『魔術』だ。
この世界の人間であれば当たり前のように皆使う【身体強化】、【感覚強化】の魔術。
これらが人と獣の差を子供と大人の差にまで近づかせる。
そして、そこまで近づくことができたなら、それは充分に覆すことができる。
それを可能にする技術と思考・・・それこそが「本部 辰馬」の持つ『武』の概念だった。
タツマは【感覚強化】を使う。強化するのは視覚と聴覚だ。
強化された感覚はタツマに様々なことを伝えてくる。
強化された視覚は鉄熊のわずかな重心の偏り、わずかな動作も詳細に彼に伝える。
強化された聴覚は鉄熊が地面を踏みしめる足音、その呼吸音すらも明確に聞き分ける。
ここまで分かればもはや言葉はいらない。
もの言わぬはずの鉄熊が詳細に次の自分の行動をこちらに伝えてくるのだ。
加えて、【身体強化】による反射神経の強化という恩恵がそれを更に磐石にする。
もはや今のタツマにとって鉄熊の一撃など喰らえと言われる方が難しい。
所詮、野生の獣。
その一撃は本能のままに繰り出されそこに技巧は存在しない。
ただ、素直に振り上げ、振り下ろされる一撃。
それのなんと読みやすく、かわしやすいことか。
タツマはほんの半歩の移動でその脅威から脱する。
驚愕から脱した鉄熊は更なる怒りに駆られ、連続して爪の一撃を放ってくる。
タツマはそれらを時には半歩避けてかわし、あるものは掻い潜ってかわす。
結果、一撃として被弾のないまま、その連撃をかわしきる。
鉄熊はさらに困惑を深める。
二本足で立ち尽くすその姿はあたかも予想外の事態に困惑する巨人を思わせた。
巨人・・・・・・そうか人か・・・
タツマは笑みをさらに深める。
人とみなすならば更に与し易い。そう思ったのだ。
タツマは右足を前に運ぶ。
まるで散歩にでも出かけるような何気ない足取りは鉄熊の反応すらも一瞬遅らせた。
右足が大地につくか、つかないかのタイミング。
おもむろに繰り出された右拳が鉄熊の胴体・・・人間でいえばみぞおちの位置に突き刺さる。
獣医ならぬタツマには熊の身体の構造に対する知識など無い。
しかし、肋骨があるならば重要な臓器もその中にあるのだろうとだけ検討をつけたのだ。
体格差からタツマの右拳はやや上向きに鉄熊の腹に突き刺さる。
【身体強化】で強化された拳は肋骨を掻い潜るようにして内部の臓器に衝撃を与える。
鉄熊の動きが止まる。
彼もこれまで数多くの敵と戦ってきた。
他の魔獣の爪や牙、襲い来る人間の剣や魔術・・・
それら全てを頑強な身体で弾き、勝利を収めてきた。
しかし、今回のコレは違う。
牙や爪、剣のように表面を切り裂くわけではない。
魔術のようにこちらを焼き焦がすわけでもない。
それらに比べれば損害など無いに等しい。・・・あくまで表面的には。
相手の爪もない小さな腕が自分に触れたとたん、えもいわれぬ不快感と痛みが鉄熊を蝕んだ。
彼は急所に放たれる打撃の痛みを知らない。
突如として訪れた謎の苦痛に恐れを感じ、初めて鉄熊は目の前の脅威・・・タツマから距離をとった。




