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惚気話はよそでやれ   パン屋 ヨセフさんの場合⑤

 この村のパン屋には一人の女性店員がいる。

 名前はメアリー。店主ヨセフの妻である。

 やや年を経てはいるが、そのおっとりとした顔立ちからは村のパン屋には似つかわしくない育ちの良さのようなものを感じる。

 そして、それは間違いではない。

 彼女は中心街でも指折りの高級料理店のオーナーの一人娘であった。

 裕福で、暮らしに不自由を感じたことも無かった。そのまま親元にいたのであれば、今も裕福な婦人として店番などとは無縁の暮らしをしていただろう。


 しかし、現実は違った。

 若き日の彼女は親の決めた縁談を嫌がり、意中の男と駆け落ちし、家を飛び出したのだ。

 その相手こそが当時、その店の料理人であったヨセフである。

 駆け落ちしてからの彼女の暮らしはそれまでと一変した。

 寝る場所、食べるものにすら困る日もあった。

 親元にいた頃であれば夢にも思ったことのない暮らしだった。


 だが、彼女には一片の後悔も無かった。

 それだけ夫ヨセフを愛していた。

 人一倍気弱で臆病だが、誰よりもヨセフは優しかった。

 駆け落ちを持ちかけた時も少し困ったような顔で笑いながら、すぐに賛同をしてくれた。

 今にして思えば、彼とて料理人としての大成を夢見てあの店で働いていたのだ。駆け落ちを持ちかけるというのはその夢を諦めるように迫るのと同義だった筈だ。

 しかし、ヨセフは駆け落ちから現在に至るまでその件で彼女に愚痴や恨み言を言ったことは一度もない。付き合っていた頃と同じ・・・いやそれ以上に彼女のことを大切にしてくれた。

 彼女はヨセフを愛している。

 そして、だからこそ彼女の心にはいつも消えない影が残り続ける。



「ありがとうございました~」


 ヨセフは笑顔でお客を見送る。

 その様子を見るメアリーの心は氷のように冷たい。

 今去っていったのは、この店の常連でまだ若い近所の奥さんだった。

 常連であるだけに店に来たときはいつも何かしら雑談をしてから帰っていく。

 メアリーが応対したときは彼女もそのように応対している。

 しかし、ヨセフが応対している姿をみるのはたまらなく不快だった。


 いつの頃からだろうか。

 おそらくは店を構え、経営もある程度安定してきた頃であろう。

 若い女性を接客するヨセフを見ていて不意に強い不安にかられたのだ。

 いつか彼がどこかへいってしまうのでは?なんの根拠もなくそんなことを感じたのだ。

 彼が真面目なのは良く分かっている。しかし今後も他の女性に靡かないと誰が保障してくれるだろう?

 自分が少女であった頃はもはや遠く過ぎ去った。そして今後、ますます自分は老いていくだろう。

 そんな時、若い女性がヨセフに近づいたら・・・

 彼が絶対に靡かないとどうして言えるだろう。

 私は親を捨てた。私には彼しかいないのだ。

 根拠の無い不安は彼女の中の嫉妬と怒りをどんどん増加させる。

 そして、それが爆発したとき、彼女は夫に罵声を浴びせ、ときに村中を追い掛け回すような蛮行に繋がるのだ。

 初めて、爆発したときのことは今でも覚えている、

 若い女性を接客したヨセフに言いがかりのような文句をつけ、怒りに怒ったのだ。

 瞬間、「しまった!」と思った。

 きっと呆れられている、嫌われてしまう・・・と。

 しかし、実際は違った。

 ヨセフは怒る彼女に心底怯え、オロオロ、オロオロと彼女を宥めたのだった。

 そのとき彼女が感じたのはえもいわれぬ快感だった。

 こんな理不尽なことを言ったのにこの人は怒らないでいてくれる。

 こんな無茶を言ったのにこの人は私の傍にいてくれる。

 計らずも夫の愛情を再確認することができ、彼女の心は暗い悦びで満ち溢れた。

 

 それからだろう。理不尽な怒りをヨセフにぶつけるようになったのは。

 嫉妬しているのは本当だ。

 不安に思っているのも本当だ。

 しかし、その一方であの暗い悦びを再び求めてしまう。

 怯える夫を見て、その愛情を確認したくなる。

 こんなことはいけないと理性ではわかっている。

 しかし、かって味わったあの暗い快感は彼女の理性をいつも儚く洗い流すのだった。



 女性客が店を出たのを見計らってメアリーは声を掛けた。


「あなた・・・・・・随分楽しそうに喋っていましたね・・・」


 そこからはもはや聞くに堪えない罵声だ。

 彼の勤務態度に対する文句から始まって、日常の些細な失敗を攻め立て、果ては結婚前のことについてすらあれこれと文句を付け始める。


 彼女の怒りは留まるところを知らない。

 しかし、ふと彼女は違和感を感じた。

 いつもなら、もう怯えながら自分を宥め始める頃合だ。しかし、今日のヨセフはただ黙って彼女の話を聞いているだけだった。

 自分の思うとおりの反応を示さないヨセフに彼女の心は苛立った。

 罵声は更に勢いを増してヨセフにぶつけられる。

 しかし、ヨセフの様子は一向に変わらない。

 その姿に彼女はさらに激怒した。

 手近にあった置物を手に掴み、彼目掛けて投げつけたのだ。

 これで、きっと彼も怯え始めるだろう。そして怒る私を彼は必死に宥め始めるのだ。

 これから来るであろう悦びに内心で笑みを浮かべる。

 

 しかし、今日のヨセフは違った。

 彼はそれでも微動だにしなかったのだ。

 投げつけられた置物は彼の額に当たり、彼の顔に真っ赤な雫を流した。

 その様子に彼女の頭が急激に冷える。

 違う。怪我をさせるつもりなんて無かったのだ。

 いつも通り、怯えてほしかっただけなのだ。

 怒る私をオロオロと甘やかして欲しかっただけなのだ。

 

 しかし、そんなこと言える筈も無く、混乱と怒りの残滓に翻弄され、彼女は何も言えずに固まる。

 そして、ようやくヨセフは動き出す。

 額の血をゆっくり拭うと、彼女目掛けて歩み始めた。彼の顔はどこまでも静かだった。

 彼女の脳裏に無数の考えが浮かんで消える。


 謝らなくては。なんで黙ってるの?怒らないで。慰めて。許して。怯えて。愛して。どうして。何をする気?私はなんてことを。どうするの?どうしてなの。行かせない。行かないで。見捨てないで。

 私を嫌いにならないで。


 無数の想いを脳裏に浮かべながら彼女は処刑を待つ罪人のように立ちすくむ。

 手を伸ばせば触れられる距離まで近寄るヨセフ。

 そしてゆっくり彼は手を持ち上げ始める。

 それを見て彼女は悟る。

 あぁ。きっと彼は私を殴る気なのだ。

 きっと私は見放されたのだ。

 その為にカラテまで習って自分を鍛えていたのだ。

 とうとう見捨てられるのだ。

 嫌われてしまったのだ。


 絶望的なまでの喪失感が彼女を苛む。

 涙を流さなかったのは最後のプライドだった。

 今まで好き勝手に彼を攻め立てたのだ。今更自分だけ泣いてそれから逃げるような真似はしちゃいけない。

 彼女は溢れる後悔と絶望を抑えるように目をぎゅっと閉じる。

 そして暗闇の中で彼の拳が落ちてくるのを待っていた。


 衝撃は背後から来た。

 押されるように、包まれるように。

 気が付けばヨセフの腕の中にいた。

 手が触れるどころか、顔すらも触れそうな距離に。

 彼はいまだ黙っている。

 いや、黙っているのではない。彼は迷っているようだった。

 なんと言葉を発するべきか。何を伝えるべきか。

 やがて、意を決したように彼はメアリーを強く見つめる。


「・・・・・・僕は臆病者だ。頭だって良くない。だからいつも僕は逃げてばかりで、君が何を思っているのかも理解してあげられなかった。」


 力強い腕とは対照的にその言葉はひどくたどたどしかった。

 慎重に慎重に自分の発するべき言葉を吟味している、そんな様子だった。


「今だって君の悩みや不安を何一つ分かってあげられていないと思う・・・だけどこれだけは言わせて欲しい。」


 彼は一呼吸置いて言葉を発した。


「僕には君しかいない。君以外の女など目に入らない。例え王都のお姫様が求婚してきたって、それが君じゃないなら僕はいらない。」


 それだけを一息で言い放ち、それきり再び黙り込む。

 言いたいことは全て言い切ったのか、それとももう他に言葉が思い浮かばなかったのか。

 使い古された、どこか陳腐な三文芝居を思わせる愛の言葉。しかし偽らざるヨセフの本音であることは疑う余地もなく彼女に伝わってきた。

 言い終わったことで、少し自分の言葉に照れたのだろうか。

 彼はいつかの様にどこか困ったような顔で彼女に笑いかける。


 彼女は泣いた。

 彼を疑い、試し続けた自分を悔いて、そしてそれ以上に溢れんばかりの喜びによって彼女はようやく涙を流した。




 まぁ、うまくいったらしい。

 「らしい」というのは俺が直接その場を見たわけじゃないからだ。

 いくら指導者とはいえ、ご家庭のことまで覗き見するのはいくらなんでもやりすぎと言うものだろう。

 じゃあ、何故知っているか?

 それはもちろん、ヨセフさんが後日嬉々として報告してくれたからだ。

 結局、奥さんの嫉妬、不安の原因は「自分が愛されているのか?」という疑念からくるものだったらしい。

 それについてはヨセフさんの一世一代の告白により払拭することができたそうだ。

 今では少しでも彼女が嫉妬や不安な素振りを見せると、ヨセフさんはお客そっちのけで彼女に愛を囁いているらしい。

 おかげで夫婦関係は円満そのもの、新婚顔負けなほど朝から夜まで極めて仲良く過ごしているとのことだ。

 何でそこまで知っているか?

 ・・・あれ以来頼んでもいないのに、ヨセフさんが奥さんとのことをやたらに惚気てくるのだ。

 「夫婦喧嘩は犬も食わない」とは言うが、惚気話だって食わされすぎると胸焼けする。おかげで腹の具合が悪くなりそうだ。

 ・・・ていうか、独身の俺に夫婦のことを延々惚気続けるって、ちょっとした嫌がらせではなかろうか。この世界の結婚適齢期的に割りと俺はギリギリらしい。・・・・なんか憂鬱になってきた。


 まぁ兎にも角にも、相談された夫婦関係の改善については概ねうまくいったと言っていいだろう。

 ちなみ、ヨセフさんはその後も道場通いを続けている。

 個別指導によって、奥さんへの恐怖だけでなく空手への恐怖感も払拭できたのか、今では傍目にも楽しそうに空手の稽古に取り組んでいる。これについては指導者として嬉しいかぎりだ。

 夫婦関係は改善し、ヨセフさんも空手を好きになってくれた。ひとまずめでたしめでたしといったところだろう。




 しかし・・・少しばかり困ったこともある。

 ある日の道場。

 その日は稽古の後半を自由練習の時間に充てて、各々好きな稽古に取り組んでもらった。

 無責任に見えるかもしれないが、たまにこういう時間を設けると生徒それぞれが自主的に稽古の課題を考える良い機会になるし、仲間同士で教えあい、工夫することはただ教わるときとは違った刺激をもたらすのだ。

 無論、指導を頼まれれば喜んで引き受ける。

 俺は生徒に危険がないよう気を配りつつ、生徒達の稽古をひとり眺めていた。

 その時、


「センセイ!私の型を見て頂けませんか?」


 顔を輝かせたヨセフさんからそんな申し出を受けた。

 俺が了承すると彼は俺からやや離れた場所で型を演じ始めた。

 型は『ナイハンチ』である。

 彼の型が終わったところで声を掛ける。


「ヨセフさん。随分上手くなりましたね。これなら他の型にもどんどん挑戦していっても良さそうですね。」


 実際に彼の動きは大幅に進歩していた。

 精神面での矯正を目的とした個別指導だったが、厳しい指導の甲斐あって彼の動きは見違えるほどの上達を見せていた。

 型の順序が完璧なのはもちろん。足腰の動きには粘りがあり、見ているだけで安定の良さが伺える。手足の動きも素早く力強い。型稽古は奥が深い、当然まだまだ直すべき点はあるが、彼の空手暦から考えれば充分に及第点の与えられる型だといえた。


 しかし、褒められたにも関わらず、ヨセフさんの顔は不満げである。

 物足りないという想いが顔からひしひし伝わってくる。


「センセイ・・・そんな生やさしい教え方はやめてください。前みたいに私をビシビシ叩いて、大きな声で私を罵って下さい!!」


 彼はすこぶる熱の篭った顔でそんなセリフをぶちまける。

 ・・・そうなのだ。彼もまた変な方向で空手にはまり込んでしまった一人なのだ。

 苦痛を伴う稽古は辛い反面、ある種の中毒性がある。

 稽古が辛ければ辛いほど、それによって得られる達成感は大きいからだ。

 空手に限ったことではないが、試合前などに稽古をしすぎて身体を壊す選手などにはこういう状況の人が多いらしい。

 そして、ヨセフさんも辛い稽古に大いにはまり込んでしまったのだ。

 あの個別指導で得られた充実感、達成感がよほどのものだったのか、一般に行う稽古のやさしさは彼にとってはもはや飽き足らないものらしい。

 もっと「苦痛」を。もっと「痛み」を。もっと「罵声」を・・・

 彼はそれらを求めて、俺に詰め寄る。

 血走った目は爛々と光り、鼻息は荒い。正直、ちょっと怖くすらある。

 もはや、空手とか関係なしに何か変な趣味に目覚めてはいないだろうか?

 熱いまなざしで詰め寄るヨセフさんに背筋がブルりと震える。

 まさか・・・女は奥さんだけだが、男は・・・・・・

 冗談ではない。俺はヨセフさんの浮気相手になるつもりなんて毛頭ない。

 背筋の冷える想像に貞操の危機を感じて思わず後ずさる。


 不意に、暖かで柔らかな感触が俺の腕を包む。

 振り返ると俺の腕に絡み付いていたのはセリアさんだ。


「タツマセンセイ・・・・・・ヨセフさんばかり見てないで私のことも見てください・・・いっぱい試したいことがあるんです・・・ねぇセンセイ・・・・・・」


 稽古後の火照った顔、潤んだ瞳と恍惚の表情で俺を求めるセリアさん。


 前門のドMに後門の関節技サブミッション中毒ジャンキー

 正直どちらも勘弁して頂きたい。

 しかし、なんだ?俺の道場はいったいどうなってるんだ?特殊性癖の博物館か?


 通ってくる生徒に問題があるのか。それとも自分の指導に問題があるのか。

 ひそかに悩む今日この頃である。

 

  

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