1朝
「……ひ……り。ひより」
私を呼ぶ声が聞こえる。
柔らかくて、雲の中にいるような海の中をたゆたうような……。
優しく包むような声。
「日和」
身じろぎして、笑った。
心地いい、音。
このままずっと、いたい。
……なんてのんびりまったりしていたのがいけなかったのかもしれない。
「……」
小さくため息をつくような沈黙。
一瞬空気が重たくなるような感触。
そしてすばやく何かが動いた。
「起きろ」
そんな低い声と共に体がぐるんと急回転した。
「ふ、わ?!」
まるで回転椅子に思いっきり回されたような浮遊感に驚いて、目を開けた。
自分と同い年の端正な顔。
夜の闇よりも深い烏のような色の瞳と髪。
そこには冷めた目で見る少年がいた。
「え、あ……は、え?」
寝起きで混乱した頭で相手を見ると、相手は小さく呟いた。
「……もう一回回すか。まだ寝ているみたいだし」
も、もう一回!?
先ほど起こった背筋を撫でられたような急回転を思い出すと、僕は慌てて起き上った。
「ちょ! ま、待って朔! ぼ、僕起きてるから! 起きてるから勘弁してー!」
そうして踏み出した足に違和感がした。
あれ? 床や布団の感触がしない?
不思議に思って下を見た。
「ふ、布団がちょっと下にある!?」
「まぁな。確かにちょっと下にあるな」
慌てる僕の言葉に事もなげに言う少年――朔。
それは確かにそのとおりで……でも冷静に言う状況でもない。
だって僕は宙に浮いているんだよ?
布団からちょっと、1メートルくらいの高さの上を。
「いつの間に!? 僕の寝相でこんなとこまで!? どうしよう! こんなんじゃちぃ兄にまたからかわれるよ。力の制御ができない馬鹿って……って」
僕ははっとして目の前の朔を見た。
するとばっちりと彼と目があった。心なしか唇が震えている気がする。
そ、んな!
背筋に冷たい感触が走った。指先が震える。
僕は床に降り立つと朔に詰め寄った。
「朔!!」
「なに、日和?」
「ケガ! どこかケガしてない!? まさか唇震えるほどどこか痛むの!?」
探るようにして朔の肩や手、腕やお腹、足を見て触った。見た感じでは服は破れてないし、服に血がにじんでいる所はない。顔も元気そうだし、精気が失われたような跡や感触もない。
それでも安心できなくて、再び僕は朔へと顔を向けると彼の頬に両手を添えて引き寄せた。
僕よりだいぶ背が高い朔の首筋に自分の額を当てる。生まれ付きある、右首筋にある痣に、だ。
ちょっと背が足りない分は空中浮遊しているからなんの問題もない。
「……」
探るように薄く眼を閉じて少し、朔の精気の状態を確かめると僕はほっと息をついた。
「よかった……。僕、朔を傷つけてなかった」
「日和……」
少し困ったような表情を浮かべる朔。彼はそっと僕の手を握った。温かい、生きた感触。
朔は大丈夫。
でもまだ安心はできない。
彼の手をぎゅっと握ると、僕は気を引き締めて朔から顔を離して後ろを振り返った。
と思った瞬間。
ふわり。
温かくて小さいけれど強い力。
「スバルは、大丈夫」
後ろから淡いハスキーな声に抱きしめられた。
「スバル!」
僕は今度こそ振り返った。
そこにはバンドをまいた白い首筋。
薄く灰色がかった長髪を持つ、自分そっくりの子。
命の色を宿した赤の眼が労わるように細められていた。
「日和、心配いらないよ。ボクは、大丈夫。だから……」
そっと頭に手を伸ばされて腕の中に抱き寄せられる。
強く、強く。
「なかないで」
「……っ」
それは苦しくなるほど。
「だいじょうぶ」
本当に。
「……っ、うっ」
「こわくないよ。スバルはここにいるよ」
と言うか。
「~っ! ~っ!」
息が、出来ない!
「……ひより?」
首を傾げて僕を見るスバル。けれどそのままその腕は僕の頭を胸に抱きかかえたまま。だんだんその腕の強さが増していた。
見た目と違って剛腕のスバル。いくら男の子でもこの腕から逃れるのは難しいと、思う。ましてや今の僕ならなおさら……なわけで。
そろそろ意識がもうろうとしてきた。と、言うか目の前が白い?……と思った所で不意に顔から圧迫感がなくなる。
肺に空気が入る。
背中に感じる誰かの足。
「はじめ?」
むせびながら斑点が点滅する景色に目を瞬かせているとスバルが声をあげた。
「……スバル、きつ過ぎだ」
顔を上げるとそこには僕の頭をポンっと撫でる朔。
「朔……けほっ」
「日和も、言え」
少し責める様な視線に私は笑った。
端的な言葉。
僕が苦しいとスバルに言わなかったことを言っているんだ。なんか、心配されるのがちょっと嬉しかった。
うん、ちょっと今顔をひそめられたけど。
それでも僕は朔の優しさが好き。
「ありがとー」
「……いい加減学習しろ」
冷たく呆れた声で言いながらも僕を見る目はとても温かい。
と、考えていた所で間抜けな音が盛大にあたりを響いた。
……僕の、腹の虫さん。
しわが寄っていた朔の顔がわずかにほころんで、笑みに崩れた。
「あは、ははははは!」
そんなところに少し気まずそうなスバルが寄って来た。
「ごめん? ひより、ちから?」
「え? ううん。精気は減ってない。お腹が減っただけだよー。……って朔笑いすぎ。もう僕居た堪れなくなるからあんまり笑わないでよ」
「あはははっ! だって今の音、ぷっ、すごすぎっ! はははっ!」
少しむくれながら言ったけど、相変わらずツボにはまっちゃったのかお腹を抱えて笑う朔。……朔はあんまり笑わない代わりに一度笑い出すとすぐには止まらないんだ。代わりに焦った様子のスバル。
「日和」
「なにスバル?」
首をかしげてスバルを見ると、自らの首のバンドをずり下げる手。
視界に痣が入った。
スバルの喉仏の所にある、痣。朔の痣と似た形のソレ。
「減ったんだったらボクのあげる」
そう小さく言うとスバルは僕の首筋に手をかけ、その痣のついた首筋を押しつけて来た。
正確には僕の右首筋にある二人とものものと似通った――痣に。
「少なくなったら駄目」
「って、駄目はこっちだよっ」
僕は慌ててスバルの肩を掴んで離した。
少し眉間に皺を寄せて僕に寄るスバル。
「でも」
「でもでも駄目!」
負けじと僕もスバルを見据えて真剣な目で詰め寄った。
すると。
「とりあえずお前ら飯早く喰うぞ」
襟首を掴まれる感触と体がふわりと足元が床から離れる浮遊感。
スバルと二人で慌てて下を見るとすでに自分達の体は宙に浮いていて、階段を下りていく朔の後を追うように動いていた。
じたばたしようにも透明な球体の中に僕達はいた。柔らかいけど、決して壊れない。伸びるような感じなのに、丸の形を崩さない。……多分、触覚に幻覚を起こすような作用のある力が働いてるんだと思う。
なんというか、お荷物みたいに運ばれるのは嫌だけど、これ結構楽……。
「……ふうー」
僕はため息をついて為すがままにそのまま浮かされていた。
元々僕は朝が弱いんだもん。
スバルもだけどね。
って横見たらスバル寝ちゃってるよ。……なんか僕も眠くなってきた……。
あぁ、でも。
僕はふらつく頭を上げようとしながら意識を手放しかけていた。
こんなふうに油断してるとね……ゆだんしてると、ね……。
ドスンッ
「……寝るな」
「~っ!!」
大きな音とともにお尻に衝撃が走った。
いつの間にか球体はなくなっていて、落とされたんだと遅ればせながら気づいた、
ひどい、ひどいよっ朔!
ちゃっかりスバルは寝ながら自己浮遊してるし!!
僕、痔になったらどうしてくれるの?!
顔を上げて朔を睨み上げた。
けど。
「ぅわっ!?」
「なに? 日和」
朔が微笑みながら頭を撫でてきていた。それよりもフローリングに座り込んだ僕にしゃがみこんで、覗き込むような顔が……近すぎ。びっくりした。
「なぁに? ひより」
「ってスバルもびっっくりしたよー!?」
突然耳元でスバルの声がして飛び上がった。
いつの間にかスバルはにへらと笑いながら僕の真後ろにいた。そして事もなげに立ち上がると眠気眼をこすって伸びをした。
……なんだか二人ともにからかわれている気がする。びっくりするのを楽しまれているような……。
などと悶々していると、コトンとカップをテーブルに置く音がした。
「朔、ご苦労」
見るとテーブルには足を組んでこちらを冷めた目で見る青年。朔と似ているけど、こっちはなんというか……もっと身勝手オーラというか意地悪というか……。
「身勝手で意地悪でなんだって?」
椅子から静かに立ち上がると頭を掴まれ、ぐりぐりされた。
って言うか僕の考えたこと筒抜け!?
ぼ、僕じゃちぃ兄に叶わないっ。
僕は慌てて目を泳がせ周りを見た。
でも朔は朝ご飯の用意をしてるし、スバルも寝ぼけて宙に浮きだしたし誰も今この家で助けてくれる人なんて、いない。人じゃない友達も、ちぃ兄に面と向かってくれる者もいない。
ぼ、僕がなんとか取り繕わないとっ。
ちょっと痛みだした頭にとりあえず頭に思いつくことを言った。
「ち、違うよ! ちぃ兄は見た目と違って気配り屋でちゃんと後の面倒見もいいっ。あ、あと人の気持ちに実は敏感で、誤解されやすいけどさり気なく助けてくれるし、そのさり気ない優しさが嬉しかったする時もあるしっ! とりあえずとっても頼りになるお兄様だよ!!」
そう言いきった所で僕は息をついた。一気にしゃべったからちょっと息が切れかけて、ちょっと……やっぱり息切れ。……と言うか僕は何を言っているんだろう。よくよく考えたら、ちょっと恥ずかしいことを言った気がする。
なんだか顔が心なしか赤くなりながら深呼吸して落ち着くことにした。そして改めてちぃ兄の様子を窺おうとすると、なんか、空気が違った。やけにまわりも静か。
横を見るとこちらを見る朔と目があった。なんだかじっと無表情で見られてる?
別の方向を見るとスバルもこちらを見ていた。シリアルを食べるスプーンをくわえたまま、にへらと笑っている。行儀悪いよ、スバル。あ、スプーンを置いた。
と、脱線したけどちぃ兄、ずっと黙っているけどどうしたんだろう。
僕は再び見上げようとした。
けど。
「ぶふっ!?」
なぜかちぃ兄に顔を掴まれた。そして頭をわしゃわしゃにされた。あ、頭が山嵐になっちゃったよーっ。
いつもながらわけのわからない兄の行動に涙目になりながら髪を整えていると、何事もなかったかのようにちぃ兄は僕から離れて朔の方へ行った。
自分勝手すぎる。意味不明すぎる。
いそいそと頭を整えに来てくれたスバルにちょっと癒されながら、立ち上がった。立ち上がる時手を貸してくれるスバルは優しいね。
それに比べてちぃ兄は……。
ちょっと怒りを込めて振り返ると、すました顔をした彼がいた。
けれど次に発した言葉に僕の口がふさがらなかった。
「……とりあえず、こいつを起こしてくれて……すまんな、朔」
ち、ちい兄が謝ってる!? 朔に対してだけど!
僕は思わず後ずさりして壁に頭をぶつけた。……痛い、夢じゃない。
朝は貧血気味の頭が目眩を起こしそうになるのを抑えて僕はちぃ兄の服をつかんだ。
「ち、ちい兄どうかしたの!? なんか気持ち悪くなったの!?」
「……うぜぇぞ。ひよのすけ」
「ひよのすけじゃないよ僕!?」
むくれると口の端を上げるちぃ兄。ちょっと、いつもと違って柔らかい笑みな気がする。それに加えて再び頭を撫でられたものだから、なんというか、怒れなくなった。僕、子ども扱いされるのは嫌いだけど、その……頭なでられたりするの、好きだから。
「こんなこと、なんとも」
すると目の前にコップが現われた。見ると朔がミックスジュースを持ってきてくれたみたいだった。我が家のミックスジュースはとてもおいしい。自分でも顔の表情がほころんでいくのがわかっちゃうくらい大好き。
そんな僕の表情にふっと笑うと、朔は僕の手にコップを持たせた。
「それに日和の面白い顔見れたし」
は、朔!?
「うん、おもしろかった」
スバルまで!? しかも無邪気に笑ってる?!
「俺も呼べ」
ち、ちぃ兄様極悪顔おおおおおお!!
「気が回ったら」
「たぶん、はじめは呼ばないとおもう」
「じゃあスバルが呼べ」
「うん、いいよー」
「よくないよーっ!」
僕の悲愴な声が家の中を響いた。
そんな平和で、何気ない、温かくて……でも少し変わっているかも知れない僕達の日常。