そのうち
その日は目が回るほど忙しく、なんだか妙な1日だった。
午前中の会議が長引いてランチを食べ損ね、一緒にアポに行く先輩が体調不良で早退。
後輩のミスを肩代わりして謝罪に行き、部長に舌打ちされる。
デスクに山積みになった書類と、デスクトップに貼られたポストイットが、まるで急かすようにクーラーの風に煽られ、インクの匂いが鼻についた。
ため息ひとつ。
デスクチェアが甲高い悲鳴を上げるのを無視しながら、ちらりと時計を見る。
あと3分で終業だ。
いそいそと帰宅の準備を整えた。
部長がちらりとこっちを見たのを横目に、何事もなかったようにやり過ごす。
エレベーターのモーター音がやけに大きく聞こえ、またため息ひとつ。
会社前の歩道は帰宅を急ぐサラリーマンで埋まっている。
カツン、と三センチのヒールが硬い音を立てる。
雨上がりのアスファルトと街路樹の青いにおい。土のにおいに香水のにおい。
喉から迫り上がるものを抑えて、ふと空を見上げた。
深い藍色の空は濁っていて、あまり気分が良くない。
カツンカツンと硬い音に耳を澄まして、リズムが良くなるように足を運ぶ。
ただただ運ぶ。
家はワンルームで家賃は八万。ここら辺では破格の家賃にそれなりの理由はあるだろうけど、寝るだけだから古くても気にしない。
唯一ユニットバスなのが気に入らないが、それなりに気に入ってる。
靴を脱ぎ捨て、ジャケットもポイっと。
スカートからシャツを抜き、そのままベッドにダイブ。
枕に顔を押し付けながら、ふと、この枕カバーいつ洗ったっけ、と考えたくないことばかり。
怠い身体を起こして窓を開け、窓と柵の間に置きっぱなしにしていた煙草に火をつけ、一服。
濁った空に白い煙が漂っている。
深く吸い込んだ煙が身体に染み渡る。
高揚感すら感じるほどに。
「ママ? 起こしちゃった?」
電話の向こうの眠そうな声に口角が上がる。
衣擦れの音からして、布団の中から出たのだろう。
「うん。うん。ごめんね、遅くに。ううん。え? ごめんごめん、そうじゃない」
ちりちりと燃える赤い火を見ながら、理由もなく笑って、それから、
「明日、帰るね。仕事もう辞める」
灰皿に押し付けた。
どのくらい時間が経ったのだろう。
携帯はいつの間にか充電が切れていて、空は明るい。誰かの話し声が聞こえてハッと時計を見て、慌ててシャワーを浴びる。
今日は新しい青いブラウスと、パンツな気分。
脱ぎ捨てたジャケットを拾い、鞄は玄関。
携帯とモバイルバッテリーを忘れずに手に持ち、玄関を出る。
朝のゴミのにおいと、朝露に濡れた青いにおい。
喉から迫り上がるものを抑えて、カツンカツンとリズム良く足を運ぶ。
エレベーターは変わらずモーター音が大きいし、デスクの上は書類が山積み。
部長の目線に肩を窄め、デスクチェアの甲高い悲鳴は無視をする。
チラリと見た時計は始業の9分前。
31%まで充電された携帯に、母からのメールが届いていた。
この日はなんだか調子が良かった。
午前中の会議は巻きで終わったし、ランチは先輩と気になってたパスタ屋さん。
アポもまあまあ上手くいった。
書類を捌いてくれた後輩にお礼のミント味のチョコレートをあげた。
ポストイットは一枚だけ。
隣からミントの爽やかなにおいがして、なんだか身体が軽い。
時計は終業の3分前を指し、いそいそと帰宅の準備を始める。
チラリと見た部長は新入社員を呼び出してぐちぐちと文句を言っている。
エレベーターのモーター音は朝と変わらないけど、後輩と喋っていれば聞こえない。
乾いたアスファルトに街路樹の青いにおい、後輩がつけていたホワイトムスクの香水のにおい。
カツンカツンと僅かに早くなった足音。
そう言えばと思い出して携帯を取り出した。
「もしもし、ママ?」
電話の向こうでテレビの音がする。
僅かに聞こえる父親の笑い声に、少し口角が上がる。
「うん。昨日はごめんね。疲れてて。うん、うん。けどまあ頑張るよ。え? いやいや大丈夫だって。うん。今度の休みに帰るよ。うん。またね。」
カツンカツンと僅かに早くなった足音は、仕事終わりのサラリーマンの陰に隠れ、そして遠くなっていった。




