侍女ですが王様の隠し子なので無敵です
王宮の廊下を、一人の若き侍女が両手を重ねて軽く握り、姿勢正しく歩いていた。
「アン!!」
後ろから、豪華な衣装に身を包んだ初老の男性が追いかけてきた。
「……」
侍女は、その声にまったく反応せずに歩き続けている。
「待てアン。父上じゃぞ、父上。ほら、父上と呼んでみぃ」
男性は、侍女の横から顔を寄せ、そう言った。
「何か御用でございますか、国王様。私は、大公マウリツィオ・カルロ・ディ・エステ様の娘、ビアンカお嬢様付きの侍女、アンでございます。国王様を父親などと呼ぶ立場ではございません」
侍女アンは、眉一つ動かさず、そう答える。
「何を言っておるのだ。お前が平民の母を持つ為、そうせざるおえなかっただけだ。そんな事は、宮中の者は皆、知っておる。公然の秘密じゃ。二人の時は、遠慮せず父と呼ぶがよい」
国王はアンに、ずいと顔を寄せた。
「ご用が無ければ、下がらせていただきます」
アンは、ぐいと国王の顔を手で押して遠ざけた。
「弟の家で、いじめられてはおらぬか? 何でも欲しいものがあれば買ってやる。ほれ、何でも言ってみるがよい」
国王は、引き下がらない。
「おたわむれを。いい加減にしないと叫びますよ」
アンは、くるりと背を向け、国王を残したまま、また歩き出した。
「何か困った事があれば、いつでもパパに言うのじゃぞー!」
国王は、その背中に向かって叫んだ。
◇
数日後……。
アルヴァ王国王立学園の卒業式。
貴族の子弟達が正装に身を包み、華やかな大講堂を埋め尽くしていた。
壇上には、アルヴァ王国第一王位継承者、フィリベルト・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア王太子が立っている。
その隣には婚約者であるマウリツィオ・カルロ・ディ・エステ大公の娘、ビアンカ・マリア・ヴィットーリア・ディ・エステ。
さらに少し離れた位置には、ロッシ男爵家令嬢カミッラ・ロッシが緊張した面持ちで立っていた。
卒業式の締めくくりにふさわしい祝福の言葉が続くものと、誰もが思っていた。
ただ一人を除いて。
ビアンカ・マリア付き侍女、公然の秘密となっている本名は、アンナ・マリア・テレーザ・ディ・サヴォイア。現国王の隠し子である。
誰もがアンと呼ぶ彼女は、主人の半歩後ろへ控え、いつもと変わらぬ穏やかな表情を浮かべていた。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
フィリベルト王太子が一歩前へ出る。
場内が静まり返った。
「私は本日をもって、ビアンカ・マリアとの婚約を破棄する」
一瞬、誰も言葉を理解できなかった。
次の瞬間、講堂中がざわめきに包まれる。
「な……」
「婚約破棄だと」
「卒業式で?」
貴族達が顔を見合わせる。
ビアンカ・マリアも驚いたように王太子を見つめた。
「フィリベルト殿下……?」
「私が愛しているのはカミッラだ。身分ではない。真実の愛を選ぶ」
そう言うと、王太子はカミッラの手を取った。
「ありがとうございます、殿下」
頬を染めたカミッラがうれしそうに微笑む。
その姿を横目に「身分ではない。真実の愛を選ぶ」という王太子の言葉を聞いたアンは、一瞬だけ眉間にしわを寄せる。
若い令嬢達から小さな悲鳴が上がる。
年長の貴族達は別の意味で青ざめていた。
婚約者は大公令嬢。
しかも、幼い頃から王家と大公家が結んできた婚約である。
それを卒業式の壇上で、一方的に破棄する。
理解できる者はいなかった。
ビアンカ・マリアは困ったように首を傾げる。
「殿下。何か誤解でございますでしょうか」
「誤解ではない」
フィリベルトは言い切った。
「君との婚約は終わりだ」
主人の声を聞いたアンが、一歩前へ出る。
その所作には乱れがない。
深く、美しい一礼。
「承知いたしました」
短い一言だけだった。
その場にいた全員がアンを見る。
王太子も意外そうな顔をした。
「……随分とあっさりしているな。お、お前といえど、真実の愛の邪魔は出来ないぞ」
「殿下のお言葉、確かに承りました」
アンはそれ以上何も言わない。
責めることも、問い返すこともなかった。
ただ主人へ向き直る。
「ビアンカ・マリア様」
呼びかけられたビアンカ・マリアは、小さく息を吐いた。
「アン……」
「そろそろ、お戻りになりますか?」
ビアンカ・マリアは少しだけ王太子を見つめる。
「これで、本当によろしいのですね」
「そうだ。王太子が一度言った以上、変更は無い」
「……分かりました」
その返事には怒りも恨みもなく、ただ寂しさだけがあった。
アンは主人の歩幅に合わせ、半歩後ろを歩く。
二人は堂々と講堂を後にした。
誰も進路を塞がない。
教師も近衛騎士も、列席した貴族達も引きとめられない
自然と道が開いていく。
フィリベルトは鼻で笑った。
「ようやく理解したようだ。何が大公の娘、王の隠し子だ。王太子の私に向かって、偉そうにしおって。これで、すっきりしたわ」
カミッラが安心したように腕を絡める。
「殿下、これで皆様も納得してくださいましたね」
「ああ。所詮は侍女だ。何もできまい。私は正式な国王陛下の息子。貴族の上に立つ王太子だぞ。いやしい出の者など、おそるるにたらん」
その言葉を耳にした初老の侯爵が思わず顔をしかめた。
「終わった……」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
隣の伯爵が青ざめた表情でうなずく。
「ああ、終わった」
「王太子殿下は、本当にご存じないのか」
「知っていると思っていた」
「知っていて、あのお言葉だと……?」
冷や汗が止まらない。
若い貴族達は意味が分からず戸惑う。
「何が終わったのです?」
「侍女が帰っただけでしょう?」
すると年配の公爵が低い声で答える。
「黙っていろ」
「ですが」
「あのお方がお帰りになった。一瞬眉間にしわを寄せておられた。つまり……」
それだけで十分だった。
若い貴族もようやく口を閉ざす。
宮廷で長く生きる者なら知っている。
アンが、あの様子の時に何がおこるのか。
若い貴族も、ようやく理解できた。
フィリベルトだけが気付いていない。
カミッラも当然知らない。
卒業式は、そのまま予定どおり閉会した。
しかし会場を去る貴族達の足取りは重い。
「王宮は荒れるぞ」
「いや……もう始まっている」
「王太子殿下がお気の毒だ」
「国王陛下がお知りになれば」
そこで誰も続きを言わなかった。
言う必要がない。
誰もが結末を知っている。
一方、その頃。
学院を出た馬車の中で、ビアンカ・マリアは膝の上へ両手を重ね、小さく笑った。
「ごめんなさい、アン」
「何をお謝りになるのでしょう」
「婚約者を見る目がなかったわ」
「ビアンカ・マリア様がお悪いわけではございません」
「でも……」
アンは主人の表情を見つめる。
ビアンカの目元が少し赤い。
それ以上は何も言わず、静かにハンカチを差し出した。
ビアンカ・マリアは受け取ると、そっと目元を押さえる。
「ありがとう」
「はい」
馬車は王宮へ向かう道を進み続ける。
その頃にはまだ、王宮の誰一人として知らなかった。
ビアンカ・マリアが涙を流したことを。
そして、それを見たアンが王宮へ向かっていることを。
◇
王宮の南門に、黒塗りの馬車が入った。
門を守っていた近衛騎士が、紋章を見て背筋を伸ばす。大公家の馬車である。だが、騎士が敬礼した相手は馬車にではない。
扉が開き、先に降りたのはビアンカ・マリア付き侍女、アンナ・マリア・テレーザ・ディ・サヴォイアだった。
続いて降りた大公令嬢ビアンカ・マリア・ヴィットーリア・ディ・エステ。
騎士達が二人に向かって深く礼をする。騎士は、侍女の名前を先に言う。
「ようこそ、アン様、ビアンカ・マリア様!」
「ご苦労様」
アンがいつもの口調で答える。
騎士の一人が、ほんの一瞬だけ顔を強張らせた。
アンが王宮へ来た。
それも、卒業式の直後に。
しかも、ビアンカ・マリアの目元が赤い。
それだけで、王宮に仕える者には十分さっしがついた。
若い騎士が慌てて扉の奥へ走る。
アンは止めない。
ビアンカ・マリアは少し困ったように笑う。
「アン、皆さんを驚かせてしまったかしら」
「驚く理由はございません。お嬢様は王宮へお越しになっただけです」
「そうね」
そう言いながらも、ビアンカ・マリアはハンカチを握りしめていた。
アンはその手元を見て、表情を変えないまま歩き出す。
王宮の廊下では、侍従や女官達が一斉に道を開ける。誰も声をかけない。だが、全員が事情を察し始めていた。
王太子殿下が卒業式で何かをしたに違いない。
大公令嬢がお泣きになり、アン様が王宮へ来たのだ。
もう、次に何が起きるかは分かりきっている。
「宰相閣下をお呼びしますか」
年配の侍従が声をひそめて尋ねる。
「お呼びしなくても、すぐにお越しになるでしょう」
アンが答える。
その予想どおり、廊下の角から王国宰相カルロ・マルティーニが足早に現れた。
五十代半ばの細身の男で、普段はどんな政務にも顔色一つ変えない人物である。
その宰相が、今日は明らかに青ざめていた。
「アン様」
「宰相閣下。ご機嫌よう」
「ご機嫌ようではございません。何がございました」
「卒業式がございました」
「その程度で、あなたがビアンカ・マリア様を連れて王宮へ直行なさるはずがありません」
宰相は額へ手を当てる。
「王太子殿下ですか」
「はい」
「……何をなさいました」
「婚約破棄を宣言なさいました」
宰相が一歩止まる。
「そんな、まさか!? 大公殿下のお嬢様に対して、そのような無礼を」
「そうです。大公家のビアンカ・マリア様との婚約を確かに破棄なさいました」
「どなたの前で……」
「卒業式の大講堂にて、ビアンカ・マリア様の顔に泥を塗りました」
宰相が震える声でたずねる。
「理由は?」
「ロッシ男爵家令嬢カミッラ様との真実の愛だそうです」
宰相は目を閉じた。
数秒後、深く息を吐く。
「陛下には、まだ」
「お知らせしておりません」
「では、私から先に」
「もう遅いかと存じます」
廊下の向こうがざわついた。
大きな足音が近づいてくる。
侍従達が左右へ散り、女官達が深く頭を下げる。
アルヴァ王国国王ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイアが、上着も羽織らずに現れた。
名君として知られる王は、国政では冷徹である。
ただし、娘の前では別人になる。
「アン!」
「陛下。ご機嫌麗しゅうございます」
「麗しくなどない。なぜ先に知らせない。いや、来てくれたのだな。よく来た。パパはうれしいぞ」
「陛下、うれしい話ではありません」
「父上と呼びなさい」
「陛下」
「パパでよいから、一度だけ」
「陛下」
「……なぜじゃあアン、何かわしが悪い事したかのう?」
「はい、わたくしが生まれる前から」
王はそこで、ようやくビアンカ・マリアへ目を向けた。
「ビアンカ・マリア。大丈夫か」
「はい、陛下。お騒がせして申し訳ございません」
「君が謝ることではない。いつも、アンが世話になっておる」
王の声はまだ柔らかい。
しかし、宰相はもう駄目だという顔をしていた。
アンが一歩前へ出る。
「陛下。ご報告申し上げます」
「ん、何でも申すがよいぞ、アン」
「本日、王立学園卒業式において、フィリベルト王太子殿下は、ビアンカ・マリア様との婚約破棄を宣言なさいました」
王の顔から笑みが消える。
廊下にいた者達が、一斉に息を止めた。
「理由は?」
「ロッシ男爵家令嬢カミッラ様との真実の愛とのことです」
「ほう、それで、大勢の前で、アンの主人の名誉を傷つけたと」
国王殿下の一言で、空気が変わる。
宰相が額を押さえた。
「陛下、まずは事実確認を」
「その必要は無い。アンが信用ならぬとでも?」
「殿下にもご事情が」
「言語道断じゃ」
王はビアンカを見た。
「それで、ビアンカ・マリアは?」
アンの表情が、ここで初めて変わる。
笑顔が消えた。
「お嬢様は、お泣きになりました」
その場にいた全員の背筋が伸びる。
王の目が据わった。
宰相は天井を見上げる。
近くにいた侍従が、小さく十字を切った。
ビアンカ・マリアは慌てて首を振る。
「陛下、私はもう大丈夫です。少し驚いただけで」
「ビアンカ・マリア」
王は穏やかに名を呼ぶ。
「君は我が弟の娘だ。王家の婚約者として、これまで十分に礼を尽くしてくれた」
「もったいないお言葉です」
「礼を尽くした者が、公衆の前で辱められる。それを見過ごせば、王家の名にも傷がつく」
ビアンカ・マリアは何も言えなくなる。
そこへ、別の足音が加わった。
マウリツィオ・カルロ・ディ・エステ大公である。
王の実弟であり、ビアンカ・マリアの父。アンを幼い頃から育てた男でもある。
「兄上」
「マウリツィオ」
「話は聞きました。まず、場所を移しましょう。いきなり王太子を裁くおつもりですか」
「今すぐでも構わん。あの馬鹿息子め!」
「無茶を言わないで下さい」
大公は王の前で堂々と言い切った。
「兄上がここで怒鳴れば、明朝には王宮の全員が十倍にして語ります」
「アンの主人を泣かしたのだぞ、遠慮はいらん」
「駄目です。冷静になって下さい」
宰相が小声で言う。
「大公殿下、ありがとうございます」
「礼は後だ、カルロ。兄上を玉座の間へ連れて行くぞ」
王はまだアンを見ていた。
「アン。望み通りにしてやるぞ、何でも申すがよい」
「私の望みはございません」
「またそれか」
「ビアンカ・マリア様に、王家より正当な扱いをお願いいたします」
王はゆっくりとうなずく。
「分かった」
アンは一礼する。
「ありがとうございます、陛下」
「だから父上呼ばんか。パパでもよいぞ」
「陛下」
「……分かった。今は我慢するとしよう」
宰相は、やれやれという顔で言った。
「陛下、今は本当にそれどころではございません」
「分かっている」
王は侍従へ命じる。
「フィリベルトを呼べ。カミッラ・ロッシもだ。王妃にも知らせよ。大公家への無礼を正す!」
「かしこまりました」
侍従達が一斉に動く。
王宮は、その瞬間から完全に別の場所になった。
廊下の端で控えていた近衛騎士団長フェデリコ・コンティが、アンへ向かって深く敬礼する。
「アン様」
「フェデリコ団長。お久しぶりでございます」
「本日は、何なりと」
「剣は不要ですので、お下がり下さい」
「承知しました」
団長は一歩下がる。
若い騎士が不思議そうに見ると、隣の先輩騎士が耳元でささやいた。
「あの方に余計なことを言うな。昔、団長が余計なことを言って半日正座させられていた」
「団長がですか」
「王宮では有名な話だ」
ビアンカ・マリアが小さく笑った。
それを見て、アンの表情も少しだけ和らぐ。
「お嬢様」
「大丈夫よ、アン。少しだけ、楽になったわ」
「それなら幸いです」
王はその二人を見て、悔しそうに眉を寄せる。
「なぜアンは、ビアンカ・マリアにはあんな顔をするのだ」
大公が即座に答える。
「娘が主人だからです」
「私も父だ。それに、国王だぞ」
「本人が認めておりません」
「血はつながっている」
「それを言うと、また嫌われますよ」
王は黙った。彼は、仕方なく、玉座の間に向かった。
◇
玉座の間には、重い空気が満ちていた。
上座にはアルヴァ王国国王ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア。
その右手には王弟マウリツィオ・カルロ・ディ・エステ大公。
左手には王妃。
少し下がった位置に宰相カルロ・マルティーニが立ち、ビアンカ・マリアは大公のそばに控えている。
アンは、いつもどおりビアンカ・マリアの半歩後ろにいた。侍女としての位置である。誰もそこを訂正しない。訂正すれば、アンは逆に不機嫌になる。
アンが不機嫌になれば、王から不興を買う。そして、宰相が胃を悪くする。それもまた常識だった。
「父上」
扉が開き、フィリベルト・エマヌエーレ王太子が入ってきた。
その隣には、ロッシ男爵家令嬢カミッラ・ロッシがいる。
カミッラは白い顔で、王太子の袖を掴んでいた。
王太子は何かを察したが、まだ自分に自信を持った顔をしている。
まるで事態を理解していないようだった。
「急なお呼び出しとは、どうなさいました」
宰相が目を閉じ、大公は腕を組む。王妃は扇で口元を隠した。
王だけが、表情を変えずに息子を見ている。
「フィリベルト」
「はい」
「本日、王立学園卒業式で何をした」
「婚約破棄を宣言いたしました」
「誰との婚約を」
「ビアンカ・マリアとの婚約です」
あまりにあっさりとした答えだった。
ビアンカ・マリアがうつむく。
アンは何も言わない。
ただ、主人の背中を見ている。
「理由は」
「私が愛する女性を見つけたからです」
フィリベルトはカミッラの手を取った。
「こちらのカミッラこそ、私が生涯を共にしたい女性です。身分ではありません。真実の愛です」
カミッラは小さくうなずいた。
「陛下、私も殿下をお慕いしております」
王妃の扇が、ぴたりと止まる。
「カミッラ・ロッシ」
「はい」
「あなたは、王太子と大公令嬢の婚約がどのような意味を持つか理解していたのですか」
「それは……愛のない婚約だと殿下から伺っておりました」
大公の眉がわずかに動く。
ビアンカ・マリアは顔を上げない。
「愛がない、と? そうわが息子が言ったのですね」
王妃は、冷たい目で言った。
「はい。ビアンカ・マリア様は殿下を縛っているだけだと」
「フィリベルト」
王が名を呼んだ。
「そう言ったのは、間違いないか?」
「事実です。私は幼い頃から、家と家の都合で縛られてきました」
「大公家との婚約を、縛りと言うか」
「王太子である私には、自分の妃を選ぶ権利がございます」
宰相が小さく咳払いをした。
「殿下。王太子の婚約は、個人の気持ちだけで決まるものではございません」
「分かっている。だが、しかし……」
「分かっておられません」
珍しく宰相が強く言った。
フィリベルトの目が鋭くなる。
「宰相! 私は王太子だぞ」
「存じております。だから申し上げております」
「ならば黙っていろ。これは私とビアンカ・マリアの問題だ」
「お前こそ、口を閉じろ馬鹿息子が!」
王の一言で、全員が口を閉ざした。
「これは王家と大公家の問題だ」
「父上。大げさです」
「大げさだと」
「はい。婚約を破棄しただけです。ビアンカ・マリアには別の婚約者を探せばよいでしょう。大公家なら困ることはありません」
ビアンカ・マリアが、肩を、ほんの少し震わせた。
アンの笑顔が消える。
それを見た宰相が、冷や汗を流す。
王も気づいた。
その様子を見て、大公と王妃が困った顔をする。
玉座の間の温度が下がったように、カミッラは感じた。
「フィリベルト」
王の声は、怒りに満ちている。
「お前は、卒業式の大講堂でビアンカ・マリアを辱めた」
「辱めたつもりはございません。私は皆の前で誠実に告げただけです」
「誠実だと?」
「はい」
王太子は胸を張った。
「カミッラを隠したまま婚約を続ける方が不誠実です」
「ならば、なぜ先に私へ申し出なかった」
「反対されると思ったからです」
「当然だ」
「だから皆の前で宣言したのです。既成事実にすれば、父上も認めざるを得ない」
宰相が片手で顔を覆った。
大公は無言で王を見る。
王妃は扇を閉じた。
王は、ゆっくりと立ち上がる。
「お前は、王に婚約を認めろと強要しようとしたわけだな」
「違います。私は自分の幸せを守ろうと」
「王家と大公家の名誉を踏みにじってまでか」
「ビアンカ・マリアには悪いと思っています」
王太子は初めてビアンカ・マリアを見る。
「だが、君も分かってくれるはずだ。愛されない婚姻など、誰にとっても不幸だ」
ビアンカ・マリアは、小さく答える。
「殿下。私は、殿下を縛ったつもりはございません」
「君が悪いとは言っていない」
「けれど、皆様の前で婚約破棄を宣言されれば、私は辱めをうけたようなものです」
「誰も笑っていない」
「殿下のなさりようは、笑えないからです」
ビアンカ・マリアの声は震えていた。
アンは一歩も動かない。
ただ、その目だけが王太子へ向いた。
フィリベルトは、そこで初めて苛立った。
「侍女が何だ、その目は。まさか、いやしい平民ふぜいが、王太子の私に意見したいとでも」
玉座の間に、誰かが息をのむ音がした。
アンは一礼する。
「失礼いたしました、殿下」
「分かればいい」
王が怒りの形相で言った。
「フィリベルト。アンに向かって言うことが、それか。この痴れ者がぁ!」
「父上まで何を。たかが侍女です」
宰相が天を仰いだ。
大公は目を閉じる。
王妃は、もう息子をかばう気配すら見せない。
フィリベルトだけが、まだ分かっていない。
「その侍女一人のために、ここまで大騒ぎをする必要がありますか」
王が黙って、フィリベルトをにらみつける。
玉座の間が沈黙に包まれる。
フィリベルトはさらに言った。
「庶子一人のために、王太子である私を責めるのですか」
カミッラが不安そうに王太子の袖を引いた。
「殿下……」
「何だ」
「今のは」
「事実だ」
その瞬間、王妃が閉じた扇を強く握り「もう駄目だ」という顔をした。
宰相の顔から血の気が引く。
ビアンカ・マリアが悲しげにアンを見る。
アンは、何も言わなかった。
王は玉座の前に立ちあがり、息子を見下ろす。
「お前は、アンをそう見ていたのか」
「王宮では誰もが知っているでしょう。父上の娘だとしても、正式な王女ではありません。王位継承者である私とは違います」
「違うだとぉ!?」
王の声が響いた。
「違うのは、そこではない」
フィリベルトは眉をひそめる。
「父上?」
「アンは一度も、お前のような無礼をはたらいたことはない! 王族として扱えと求めたこともない! 爵位も宝石も離宮も断った! 王宮に住めと言っても断る! 父と呼べと言っても陛下としか言わんのだぞ!」
「それは本人の勝手です」
「そうだ。本人の勝手だ。だが、お前は何をした」
王は一歩下りる。
「王太子の立場を利用し、大公家の娘を公衆の前で辱め、王へ事後承諾を迫った」
「私は……」
「黙らっしゃい!!」
王は、王太子を一喝した。
フィリベルトの顔が強張る。
「フィリベルト・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア」
王は息子の名を正式に呼んだ。
「本日より、お前の王位継承権を停止する」
「父上!」
「謹慎を命じる。期間は追って沙汰する」
「お待ちください。廃嫡ではないのですね」
宰相が口を挟む。
王はうなずいた。
「廃嫡など楽な罰は与えない。停止だ。王太子としての公務も禁じる。城の塔で軟禁し、ゆっくりと時間をかけて反省させる」
「そんな……」
「ビアンカ・マリアとの婚約破棄は無効とする。ただし、継続の可否は大公家の判断を尊重する」
大公が深く礼をした。
「承知いたしました」
「カミッラ・ロッシ」
名を呼ばれ、カミッラがびくりと肩を震わせる。
「は、はい」
「お前は実家へ戻れ。今後、王太子への接近を禁じる」
「陛下、私はただ殿下を」
「若さにめんじて深くは追及せん。だが、大公の娘を押しのけて玉座の間へ立てるほど、宮廷は甘くない」
カミッラは泣きそうな顔でうつむいた。
フィリベルトが叫ぶ。
「父上! カミッラは悪くありません!」
「そうだ、お前が全て悪い」
「なぜそこまで!」
王は答えない。
代わりに、ビアンカ・マリアへ向いた。
「ビアンカ・マリア。王家として、正式に詫びる。全ては、こんな馬鹿息子に育てた、わしの責任じゃ」
「陛下」
ビアンカ・マリアは慌てて礼をする。
「顔を上げよ。お前に非はない」
「……ありがとうございます」
王は次にアンを見た。
「アン」
「はい、陛下」
「これで足りるか」
「私は、足りるかどうかを申し上げる立場にはございません」
「またそれか」
「私はビアンカ・マリア様付きの侍女でございます」
王は苦しげに眉を寄せる。
「せめて今くらい、父上と。お前の為に頑張ったじゃろ。な?」
「陛下」
「これでも駄目か」
「はい」
玉座の間の空気が、ほんの少しだけ緩む。
宰相だけは顔をしかめたままだ。
まだ処分の後始末が山ほど残っているからである。
フィリベルトは、その空気の中でようやく気づき始めた。
自分が王太子の立場を当然の権利と思い、他者の名誉を踏みにじったことに怒ったのだと。
そして、アンを軽んじたことは、その怒りに油を注いだ。
フィリベルトは唇を震わせて言った。
「アン……」
「殿下」
アンは一礼した。
その礼は、最初から最後まで侍女のものでしかない。
「お体をお大事になさってくださいませ」
責めることもなく、勝ち誇る気配もない。
それがかえって、王太子にはきつかった。
王が、近衛騎士団長フェデリコ・コンティに命じる。
「フィリベルトを城の塔へ。カミッラ・ロッシは、父親へ引き渡せ」
「はっ」
扉が開き、フィリベルトとカミッラが連れられていく。
玉座の間に残った者達は、しばらく言葉を発しなかった。
やがて宰相が、小さくつぶやく。
「王宮は、まったく大変な一日でございました」
大公が答える。
「まだ、ましな方かもしれんぞ」
王はアンを見ていた。
「アン」
「はい、陛下」
「今夜は王宮に泊まらないかな? ご馳走を用意するぞ。お前が好きなものを全てだ」
「お嬢様がお戻りになりますので」
「ではビアンカ・マリアも一緒に……」
「大公家へ戻ります」
「……そうか、仕方ないのう」
王は、涙目になる。
ビアンカ・マリアが小さく笑った。
アンは主人の笑みを見て、少しだけ表情を和らげる。
その様子を見た王は、また悔しそうに大公を見た。
「マウリツィオ」
「何です、兄上」
「お前はずるい。毎日、アンの側にいられるなんて、ずるいぞ! 少しは兄に気を使え」
「兄上が決めたことですぞ、知りませんがな」
宰相は、もう何も聞かなかったことにした。
◇
王宮は、ようやく普段の落ち着きを取り戻し始めていた。
もっとも、それは表向きだけである。
廊下を行き交う侍従も女官も、すれ違うたびに小声でささやき合っていた。
「王太子殿下が謹慎ですって」
「王位継承権まで停止されたとか」
「大公令嬢様はお加減を取り戻されたそうよ」
「それよりも……」
そこで誰もが声をひそめる。
「あのお方がお帰りになるらしい」
その一言で十分だった。
誰も余計なことは言わない。
言えば面倒になると知っているからである。
その頃、王の執務室では、ヴィットーリオ・アメデーオ国王が腕を組んで考え込んでいた。
「カルロ」
「はい、陛下」
宰相カルロ・マルティーニが書類を抱えたまま答える。
「アンを王宮へ住まわせる方法はないか?」
「却下でございます」
「方法を聞いておるだけじゃ」
「ありませんので」
「言うだけ言うてみい」
王は咳払いを一つする。
「離宮を一つ贈ろう」
「以前に断られました」
「では役職だ。王付きの侍女として出奔させよう」
「断られます」
「宝石はどうだ」
「断られます」
「イケメン近衛騎士百名を護衛につける」
「逃げられます」
王は机へ両肘をついた。
「どうすればよいのじゃー!」
「諦めて政務をお願いいたします」
「それは難しい。アンがおらねば、やる気が出ない」
「いいかげんになさってくださいませ」
宰相は迷わず言い切った。
そこへ侍従が現れる。
「陛下。ビアンカ・マリア様とアン様がお見えでしたが、すぐお帰りになるそうです」
王が勢いよく立ち上がった。
「それは、こうしてはおれぬ!」
「先に仕事を」
「仕事は後だ!」
王は執務室を飛び出した。
宰相は天井を見上げる。
「国王陛下にも困ったものだ」
深いため息をつき、書類を抱え直して王の後を追う。
王宮の玄関では、ビアンカ・マリアとアンが、もう帰り支度を整えていた。
大公家の馬車も用意されている。
「アン!待つのじゃ、待ってくれ」
王が笑顔で近づいてくる。
「陛下」
「今日こそ帰らなくてもよいだろう」
「お嬢様がお戻りになります」
「では二人とも王宮へ住め」
「父上」
後ろから現れたマウリツィオ大公が苦笑する。
「冗談はよしてください」
「いたって本気じゃ!」
「駄目に決まっております」
ビアンカ・マリアは困ったように笑った。
「陛下、お気持ちはありがたく存じます」
「ならば、アンを譲ってくれ!交換じゃ!」
「何とでしょう」
「宮殿だ。王家の宮殿、好きなものを与える」
ビアンカ・マリアが一礼する。
「辞退申し上げます」
「ほれ、希望だけでも言ってみい」
「どちらでも辞退申し上げます」
王は、次にアンを見る。
「アンよ役職を与える。高級女官として王宮に迎える」
「辞退申し上げます」
「では、宝石をつける」
「辞退申し上げます」
「黄金もつけよう」
「お給金は頂戴しております」
「王宮の侍女長」
「今の役目に満足しております」
「近衛騎士団副団長」
「騎士ではございません」
「こうなったら、近衛騎士団長!!」
玄関にいたフェデリコ・コンティ近衛騎士団長が目を丸くした。
「陛下、それは困ります」
「ええい、お前は黙っておれ」
「はっ」
返事だけは見事だった。
王はなおも諦めない。
「王宮へ住むだけでよい。な?」
「大公家に戻ります」
「週に何度かだけでも……」
「毎日お嬢様にお仕えいたしておりますので」
「月に一日だけ」
「毎日と申し上げましたが」
「一時間だけ」
「侍女は主人のそばにおります」
王は肩を落とした。
大公が吹き出す。
「兄上。今日も全敗ですね」
ビアンカ・マリアも耐え切れず笑い出した。
「ふふっ」
アンが主人を見る。
「お嬢様」
「ごめんなさい。でも、陛下のお話が面白くて」
「わしは、いたって真剣じゃ」
王は本当に残念そうだった。
馬車の準備が整い、御者が扉を開けた。
ビアンカ・マリアが乗り込む前に振り返る。
「アン……」
「はい、お嬢様」
「大公家に帰りましょう」
アンは深く一礼した。
「かしこまりました、お嬢様」
ビアンカと大公が先に乗り込み、その後からアンも馬車へ入る。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き始めた。
王はその姿を最後まで見送る。
姿が小さくなっても、まだ立っている。
宰相が隣へ来た。
「陛下」
「何だ」
「もう見えなくなりましたが」
「まだ見える」
「もう、豆粒ほどにも見えておりません」
王は小さくため息を吐いた。
「アン。父と、一度くらい呼んでくれてもよいではないか」
宰相は胸をなで下ろした。
「ようやくお帰りになられましたな」
「そうじゃな」
「陛下、明日もビアンカ様とアン様は来るそうです」
王の顔が一瞬で明るくなる。
宰相は、ため息をつく。
明日も陛下は、仕事にならないだろう。
そう悟った宰相は、苦笑いをうかべた。
馬車の中で、ビアンカは、アンにたずねた。
「アン。どうして、陛下から何も受け取らないのかしら。羨ましいかぎりなのに」
「受け取って王妃様が不機嫌になられたら、陛下がおかわいそうでしょう。それに、王家は国民の税で成り立っているのです。無用な贅沢はいけません」
アンは、そう言って微笑んだ。
アルヴァ王国の平和は、今日も変わらない。
この国のいつもの一日だった。
完。
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