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“正しくやってたのに、誰にも残らなかった”声優の話

作者:
掲載日:2026/03/29

一ノ瀬燈は、自分の声が残らないことを知っていた。


下手じゃない。

でも、覚えられない。


「安定してるね」


それで終わる声だった。


養成所に二年いたが、名前を呼ばれることはほとんどなかった。


オーディションも同じだ。


落ちる。


理由は言われない。


帰り道、考える。


今の、誰かに残ったか。


残らない。


だから次も呼ばれない。


それだけだった。


それでもやめなかった。


夢だったからじゃない。


やめたら、自分に何も残らない気がしたからだ。


ある日、講師に呼ばれた。


「お前、なんで残らないかわかるか」


燈は首を振る。


「何も賭けてないからだ」


意味がわからなかった。


「外さないようにやってるだろ」


言葉が詰まる。


図星だった。


「間違えないように喋るやつの声、どうやったら残るんだよ」


何も言えなかった。


「安全な声は、誰の記憶にも残らない」


その一言だけが、残った。


帰り道、何度も自分の声を思い出す。


整っている。

崩れていない。


でも、何も引っかからない。


その夜、録音アプリを開く。


いつもと同じ動き。


少しだけ迷って、やめかける。


でも、止める。


逃げるのは、もうやめた。


「大丈夫だよ」


言う。


整えない。


少しだけ詰まる。


少しだけ迷う。


「……大丈夫だよ」


再生する。


下手だった。


聞きづらい。


それでも、止めなかった。


もう一度、再生する。


三回目で、止める。


違いがわからなかった。


それでも、消さなかった。


数日後、小さな役をもらう。


名前もないキャラ。


セリフは一言。


「大丈夫だよ」


収録ブースに入る。


ディレクターが言う。


「普通でいいよ」


一番やりやすい言葉だった。


だから、迷う。


普通にやれば、問題はない。


ただ、何も残らないだけだ。


それはもう知っている。


燈は、少しだけ息を吸う。


逃げない。


そう決める。


「……大丈夫だよ」


ほんの少しだけ、崩す。


一瞬、空気が止まる。


「もう一回」


やっぱり、と思う。


でも。


「今の感じで」


収録は、それで終わった。


何も言われなかった。


数日後、スマホに通知が届く。


知らないアカウント。


「最後のセリフ」


よくあるやつだと思った。


「ちょっと変でした」


やっぱりな、と思う。


でも。


「でも、あれだけ覚えてます」


指が止まる。


さらに。


「他の声、何も覚えてないのに」


息が詰まる。


しばらく、動けなかった。


画面を閉じて、開いて、また閉じる。


たった一人だ。


それでも。


今まで一度もなかったことだった。


燈は、ゆっくり息を吐く。


もう一度だけ、自分の声を思い出す。


あのときの、少しだけ崩れた声。


あれが、残った。


上手くやった声じゃない。


少しだけ、ズレた声だった。


燈は、小さく笑う。


そして、もう一度だけ口にする。


「……大丈夫だよ」


今度は、少しだけ迷いがあった。


でも、それでいいと思えた。



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