“正しくやってたのに、誰にも残らなかった”声優の話
一ノ瀬燈は、自分の声が残らないことを知っていた。
下手じゃない。
でも、覚えられない。
「安定してるね」
それで終わる声だった。
養成所に二年いたが、名前を呼ばれることはほとんどなかった。
オーディションも同じだ。
落ちる。
理由は言われない。
帰り道、考える。
今の、誰かに残ったか。
残らない。
だから次も呼ばれない。
それだけだった。
それでもやめなかった。
夢だったからじゃない。
やめたら、自分に何も残らない気がしたからだ。
ある日、講師に呼ばれた。
「お前、なんで残らないかわかるか」
燈は首を振る。
「何も賭けてないからだ」
意味がわからなかった。
「外さないようにやってるだろ」
言葉が詰まる。
図星だった。
「間違えないように喋るやつの声、どうやったら残るんだよ」
何も言えなかった。
「安全な声は、誰の記憶にも残らない」
その一言だけが、残った。
帰り道、何度も自分の声を思い出す。
整っている。
崩れていない。
でも、何も引っかからない。
その夜、録音アプリを開く。
いつもと同じ動き。
少しだけ迷って、やめかける。
でも、止める。
逃げるのは、もうやめた。
「大丈夫だよ」
言う。
整えない。
少しだけ詰まる。
少しだけ迷う。
「……大丈夫だよ」
再生する。
下手だった。
聞きづらい。
それでも、止めなかった。
もう一度、再生する。
三回目で、止める。
違いがわからなかった。
それでも、消さなかった。
数日後、小さな役をもらう。
名前もないキャラ。
セリフは一言。
「大丈夫だよ」
収録ブースに入る。
ディレクターが言う。
「普通でいいよ」
一番やりやすい言葉だった。
だから、迷う。
普通にやれば、問題はない。
ただ、何も残らないだけだ。
それはもう知っている。
燈は、少しだけ息を吸う。
逃げない。
そう決める。
「……大丈夫だよ」
ほんの少しだけ、崩す。
一瞬、空気が止まる。
「もう一回」
やっぱり、と思う。
でも。
「今の感じで」
収録は、それで終わった。
何も言われなかった。
数日後、スマホに通知が届く。
知らないアカウント。
「最後のセリフ」
よくあるやつだと思った。
「ちょっと変でした」
やっぱりな、と思う。
でも。
「でも、あれだけ覚えてます」
指が止まる。
さらに。
「他の声、何も覚えてないのに」
息が詰まる。
しばらく、動けなかった。
画面を閉じて、開いて、また閉じる。
たった一人だ。
それでも。
今まで一度もなかったことだった。
燈は、ゆっくり息を吐く。
もう一度だけ、自分の声を思い出す。
あのときの、少しだけ崩れた声。
あれが、残った。
上手くやった声じゃない。
少しだけ、ズレた声だった。
燈は、小さく笑う。
そして、もう一度だけ口にする。
「……大丈夫だよ」
今度は、少しだけ迷いがあった。
でも、それでいいと思えた。




