第5話「止められなかった言葉」
夜風が冷たかった。
交差点から少し離れたベンチに腰を下ろすと、
ひまりは涙を指の甲で拭いながら、
小さく、呼吸を整えていた。
陽斗はひまりの横に座らず、
少しだけ離れた場所に立ったまま見守っている。
触れられない距離、でも確かに近い距離だった。
「……さっきの人、誰?」
ひまりは俯いたまま指先を握りしめた。
「……中学のときの、同級生。
同じクラスで、よく話しかけてくる人だった」
陽斗は黙って聞いていた。
「最初は……優しい人だと思ってたんだよ。
でも、だんだん……“泣くなよ”って言われるようになって……
泣くと怒られて、笑ってても“無理してんだろ”って言われて……」
言えば言うほど、言葉が震えた。
「いつの間にか、泣くのも、笑うのも、
全部“正解じゃない”みたいになっていって……
何が本当で、何が間違いなのか分からなくなった」
ひまりの目に、再び涙がにじんだ。
「“逃げんなよ”って言われるようになって……
話したくないって言うと、余計に追いかけられて……
教室の前で待ってたり、家の近くにも来たりした」
陽斗の指先が、かすかに震えた。
「先生に言っても、“誤解だろ”って言われて……
親に言っても、“仲がいいからでしょ”って……
誰にも信じてもらえなくて……
ほんとに、一人で逃げてたの」
言葉にするたび、ひまりの肩が小さく揺れた。
「中学最後の日、晃斗くんに言ったんだ……
『もう関わらないで』って。
そしたら、“逃げたほうが悪い”って言われて……」
ひまりは震える指先を胸に当てた。
「高校が違えば、もう会わないと思ってたのに……
なのにまた……」
「それでも、ひとりで行こうとしたの?」
ひまりは弱く頷いた。
「……誰にも迷惑かけたくなかった。
私が弱いから、こんなふうに困らせてるって……思いたくなくて」
陽斗はひまりに近づくと、
ベンチの前にしゃがみ込み、
ひまりと同じ目線になった。
夕街灯の下で、ひまりの瞳が揺れる。
「迷惑なんかじゃないよ」
ひまりが顔を上げる。
涙で光る瞳が、まっすぐに陽斗を映していた。
「ひまりの“弱い”って、そんなに悪いものじゃないよ。
強がってるとこばかり見せてたら、誰も気づけない。
……俺は、気づきたい」
ひまりの息が止まった。
「ひまりが怖いときは、怖いって言ってよ。
泣きたいときは、泣いていい。
その全部……俺にも見せてほしい」
ひまりの目から、また涙がこぼれた。
「……そんなの言われたら、
もっと泣いちゃうよ……」
「泣いていい。俺が隣にいる」
風が吹き、ひまりの髪を揺らす。
涙で濡れた頬が、かすかに震えていた。
ひまりは喉の奥で声を震わせた。
「……陽斗くんって、ずるいよ」
「どうして?」
「……そんなこと言われたら……
誰でも好きになるよ……」
言ったあと、ひまりは自分の口を押さえた。
陽斗も息を呑んだ。
沈黙が、二人の間に落ちる。
ひまりは顔を真っ赤にして、首を横に振る。
「今の、忘れて……
忘れてってば……」
「忘れないよ」
ひまりが顔を上げた。
陽斗は優しい目で、
でも嘘のない真剣さで言った。
「忘れる必要なんかないよ。
ひまりが言ったことは、
ちゃんと受け取る」
ひまりの目が再び潤む。
「……ダメだよ……
そんなふうに言われたら……」
「ひまり」
陽斗がそっと、名前を呼んだ。
ひまりの肩がびくっと震える。
「俺は……ひまりの涙の理由を、
全部知りたい」
夜風の中、ひまりは小さく震えながら、
ゆっくりと陽斗に寄りかかった。
陽斗は驚いたが、
ひまりが泣かないように、そっと近くにいることにした。
ひまりは、小さな声で呟いた。
「……陽斗くんがいると、
強がらなくていいんだね……」
その言葉は、
二人の関係を決定的に変えるほどの重さを持っていた。
ベンチの前を車が通り過ぎ、
街灯が淡く揺れた。
陽斗のスマホが静かに震えた。
画面には、知らない番号からのメッセージ。
『相沢陽斗くん?
佐伯ひまりのことで話がある』
次の瞬間、胸の奥にはっきりした予感が走る。
――ひまりの過去は、まだ終わっていない。




