第3話 「あなたの涙に触れた日」
翌朝、ひまりは教室にいつもより少し早く来ていた。
窓側の席で、小さく頬杖をつきながら外を眺めている。
桜の花びらが舞うたび、
ひまりの髪がふわりと揺れて、朝の光を帯びる。
「おはよ、佐伯さん」
声をかけると、ひまりは振り返って笑う。
昨日よりも自然な、柔らかい笑顔だった。
「おはよう、陽斗くん」
名前を呼ばれる。
それだけで胸の奥が熱くなるのを、僕は隠せない。
席につこうとして、気づいた。
ひまりの目の下に、
薄いけれど確かに残る影。
「……寝れてない?」
問いかけると、ひまりは一瞬だけ目をそらした。
「ちょっとね。昨日、色々考えちゃった」
「色々って?」
「それは……ひみつ」
言いながら、ひまりは僕の方をちらりと見た。
その視線に、一瞬だけ迷いが混じる。
──昨日、誰から来たメッセージ?
──どうして“逃げるの?”なんて言われた?
聞きたいのに聞けない。
踏み込みたいのに踏み込めない距離感がもどかしい。
「ねぇ、陽斗くん」
ひまりが小さな声で呼んだ。
「昨日ね……名前呼んでくれて、嬉しかったよ」
「そ、そう?」
「うん。なんか……心があったかくなるの。
でもちょっと苦しくもなる」
苦しい、という言葉に反応する。
「なんで苦しくなるの?」
ひまりは一度息を吸って、
それをゆっくり吐きながら笑った。
「好きになっちゃいそうだから、かな」
心臓が止まりそうになった。
ひまりは冗談っぽく笑っていたけれど、
その目の奥にある影は隠しきれていなかった。
“好きになっちゃいそうだから”
それは本音なのか。
それとも、自分を守るための軽い冗談なのか。
判断できない。
でも胸の奥がじりじり熱くなるのは確かだった。
「……それって、冗談?」
自分でも驚くほど真剣な声が出た。
ひまりがぱち、と目を見開く。
「ふふ……秘密」
また逃げるように笑ったが、
その笑顔は昨日よりも苦しそうだった。
そのとき。
ひまりのスマホが震えた。
ひまりの肩がぴくっと跳ねる。
画面を見た瞬間、
彼女の手が止まった。
僕は見ていないふりをしたけれど——
視界に入った文字は消えない。
『今日、話せるよな?』
ひまりは唇を噛んで、画面を伏せた。
それだけで、胸がざわつく。
言葉を選びながら、
ひまりは小さな声で呟いた。
「ごめん……今日、放課後ちょっと用事あるの」
「誰かと会うの?」
ひまりの肩がこわばった。
「……うん。どうしても行かなきゃいけないの」
その声は、諦めが滲んでいた。
逃げたいけれど逃げられない、縛られた人の声。
ひまりの笑顔の奥にある影の正体が、
一瞬だけ形を成した気がした。
「もしかして……」
聞きかけた言葉を、ひまりは遮った。
「大丈夫だから。心配しないで」
優しい笑い方だった。
でも、その優しさこそがひまりの苦しみの証拠だった。
教室のざわめきの中で、
ひまりだけが世界から切り離されたみたいに見える。
どうして誰も気づかないんだろう。
泣きそうなひまりを、どうして誰も見ていないんだろう。
──気づけるのは、僕だけなのに。
その痛いほどの事実が、胸を締め付けた。
放課後。
ひまりは校門へ向かって歩き出す。
夕暮れの光の中で、
ひまりの背中はあの日よりもずっと小さく見えた。
「……ひまり!」
無意識に呼んでいた。
名前を。
ひまりが振り返る。
泣きそうな瞳で。
「陽斗くん……」
「俺も行くよ」
ひまりの目が大きく見開かれた。
「だめ……これは、ひとりで行かなきゃ」
「ひまりが泣きそうになるなら、ひとりで行く必要ない」
「泣かないよ……大丈夫だから」
「大丈夫じゃない」
はっきりと言い切った。
ひまりが息を呑む。
「昨日も、今日も。
ひまり、無理してるよ」
ひまりの喉が震え、
次の瞬間、涙がこぼれそうになる。
「……陽斗くんに、これ以上心配されたくないよ」
「心配するよ。
ひまりが涙こらえてるの、見てられない」
ひまりは唇を噛む。
その震えが、胸に刺さる。
そのとき——
ひまりのスマホが再び震えた。
画面を見たひまりの顔から、
色がすっと消える。
「……ごめん。行かなきゃ」
ひまりは顔を隠すように俯き、
駆け足で校門の外へ走り出した。
僕は追いかけるか迷った。
でも動けない。
──ひまりは今、誰と会いに行く?
──あのメッセージの主は誰だ?
──どうして“逃げるの”なんて言われる?
その全部が、
胸の奥でひどく冷たい予感に変わっていく。
夕陽が落ちて、街が影になる頃。
ひまりの涙の理由が、
初めて“輪郭”を見せはじめた。




