第2話 「名前を呼ばれたら、泣きそうになる」
夕焼けに染まる帰り道。
ひまりは言葉少なに歩いていたが、
その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
ふいに、彼女の携帯が震える。
ひまりが画面を見た瞬間、肩がわずかに跳ねた。
「……あ、大丈夫。ごめん、ちょっと……」
そう言って通知を閉じようとする手が、ほんの少し震えている。
見てはいけないと思いながらも、僕は気づいてしまった。
画面に残った通知——
「また逃げるの?」
という短いメッセージ。
誰からなのかは見えなかった。
でも、ひまりの顔色が少しだけ青ざめたのを僕は見逃さない。
「佐伯さん……大丈夫?」
その問いに、ひまりはすぐに笑顔を作った。
さっきと同じ“無理に戻した笑顔”だ。
「うん、大丈夫。ちょっと……ね」
それ以上、聞けなかった。
聞きたいのに、踏み込めない距離がまだある。
ひまりは歩幅を少し広げて前に出る。
夕日を背負ったその背中が、細くて、今にも消えてしまいそうで。
気づけば僕はひまりの名前を呼んでいた。
「佐伯さん」
振り向いた時、
ひまりの目がほんの少し潤んでいた。
「……陽斗くんって、優しすぎる」
その声は、誰かに縛られた心が
一瞬だけ解けたような響きをしていた。
彼女は続けた。
「ねぇ……名前、呼んでくれたの、初めてだね」
言われて気づく。
自分の口から出た「佐伯さん」が、
これまでとは違う、特別な響きだったことに。
胸が熱くなる。
「……ひまり」
呼んだ瞬間、ひまりの目が震えた。
涙がこぼれる寸前の、綺麗な光を宿して。
「だめだよ。それ……すごく泣きそうになるから」
ひまりは俯き、制服の胸元を指で摘んだ。
「名前呼ばれるの……弱いの。
優しくされると、泣きそうになるんだ」
その告白は、まるで心の奥の部屋を
ひとつだけ開けてくれたみたいだった。
僕は歩み寄り、ひまりの肩が触れない程度の距離で立ち止まった。
夕暮れの風が吹き、桜の花びらが二人の間を舞い落ちる。
「……泣きそうになったら、また言ってよ。
そのときは、隣にいるから」
ひまりの目が大きく揺れた。
涙をこらえるその瞬間は、
世界が静かに息をのみ、ふたりの影だけが近づいていく。
「……陽斗くんって、ほんと、ずるい」
そう呟いたひまりは、
次の瞬間、ふっと笑い——
「送ってくれてありがとう。
今日は……一緒にいてくれてよかった」
そう言って、曲がり角へ歩いていった。
去っていくひまりの背中は、
さっきよりほんの少しだけ強そうに見えた。
だけど、角を曲がる直前、
ひまりは立ち止まり、振り返り、
夕日を背に、はにかんだ笑顔をこちらに向けて——
「また、明日ね」
その一言で胸が熱くなる。
──ひまりが隠している涙の理由。
──僕を見つめる瞳に宿る影。
──そして、名前を呼んだだけで震える心。
それらが全部、
恋の始まりだと気づくには、
もう少しだけ時間が必要だった。




