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第1話 前半「触れられない距離の、いちばん近い場所で」

ひまりが涙を拭ったあと、教室には夕方の光だけが残っていた。

窓の外の桜が揺れるたび、影が机の上を静かに横切っていく。


彼女はまだ泣いていたわけではない。

ただ、涙の跡が頬の上で薄く光っていて、

それを隠すように髪を耳にかける仕草が、やけに胸に残った。


「……ごめんね。変なところ見せて」


ひまりは小さく笑った。

その笑顔が、無理をしているのが分かってしまうくらい弱々しい。


「変じゃないよ。泣きそうになったら、泣くの普通じゃん」


「普通じゃないよ。こんなことで泣いてたら、みっともないし」


「みっともなくなんかないよ」


言ってから、少しだけ後悔した。

あまりにも真っ直ぐで、優しすぎる言い方をしてしまった気がした。


だけど、ひまりは驚いたように目を見開いて、

ゆっくりとまばたきをしたあと、ふっと息を漏らした。


「……相沢くんって、たまにすごく優しいよね」


「“たまに”は余計だけど」


「ふふ……」


やっと、小さな笑顔が戻る。

でも、その笑顔の奥に沈んだ影は消えていない。


ほんとうは、聞きたいことはいくつもあった。

どうして泣きそうになっていたのか。

何かあったのか。

誰にも言えない理由があるのか。


でも、無理に聞いていいことじゃない。


ひまりの心は、薄いガラス細工みたいに見えて、

触れれば触れるほど、割れてしまいそうだった。


「……あのね、」


ひまりが口を開いた。

その声がいつもより少しだけ弱い。


「今日ね、ちょっと、嫌なことがあって……」


言いながら、自分の手を指先でぎゅっと握りしめた。


「でも、相沢くんに変なところ見られちゃったから、もうどうでもよくなっちゃった」


「どうでもよくなったの、それ?」


「うん。なんか……恥ずかしくて」


ひまりは頬を赤くして、視線を逸らす。


その反応が、胸の奥に小さな痛みと温かさを同時に落とした。

守りたい、というより、放っておけない。

それはもう優しさだけじゃ説明できない感情だった。


「……佐伯さん」


「なに?」


「今日、帰り一緒に歩く?」


ひまりの目がぱち、とこちらを向いた。

驚いたような、でも少しだけ嬉しそうな、曖昧な表情。


「……教室出たくなさそうだったから」


「……うん。行く」


その返事が、思った以上に小さくて、

でも確かに胸に届いた。


夕焼けに照らされた教室を、二人で出る。

廊下の窓から差す光が、ひまりの横顔を淡く染めていた。


その横顔を見て、思う。


──僕は、今日を忘れない。


ひまりが涙をこらえた日。

涙に気づいてしまった日。

そして、手を伸ばせば届く距離が、急に愛おしく感じた日。


恋がいつ始まるのかなんて分からないけれど、

この瞬間だけは確かだった。


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