第10話「手を伸ばしたら、触れてしまいそうで」
翌朝の教室は、いつもより静かに感じた。
黒板に差し込む陽の光が、柔らかく揺れている。
ひまりが教室へ入ってきた瞬間、
クラスの空気がふっと変わった。
昨日泣き腫らした目は、少し赤みが残っている。
それでも、瞳の奥には夜明けのような光があった。
席に着くと、ひまりは胸元をそっと押さえた。
制服の布越しに伝わる鼓動が、昨日より少しだけ軽い。
陽斗は教室に入ってくるひまりを見つけ、
自然と歩み寄った。
「……おはよう、ひまり」
その名前の呼び方に、
ひまりの肩がわずかに跳ねた。
赤くなった目元が、ふいに潤む。
「……おはよう、陽斗くん」
声が震えている。
けれど、その震えはもう怯えじゃない。
ひまりが机についた瞬間、
クラスの数人がこちらを気にするように視線を向けてきた。
ひまりはその視線に気づいて小さく身を縮めかけたが、
陽斗が何も言わずそばに立つと、
ひまりは驚いたように顔を上げた。
「……隣にいてくれるの?」
「うん。
今日くらいは、絶対に」
ひまりは胸元を押さえて、ほっと息を吐いた。
視線を向けていた生徒たちは、
陽斗のその自然な態度に
「普通に話していい雰囲気なんだ」と理解したようで、
空気が柔らかくほどけていった。
ひまりの背中から、緊張がゆっくり抜けていく。
――初めてかもしれない。
自分の居場所を守ってくれる人が、
こんなにも近くにいるなんて。
授業が始まる。
その間もひまりは何度か陽斗を横目で見ていた。
ノートに視線を落とすたび、
胸の奥に温かいものがじんわり広がる。
休み時間のことだった。
ひまりはプリントを取りに立ち上がった拍子に、
指先からペンが滑り落ち、
床で小さく転がった。
陽斗がすぐに拾い上げた。
「はい、どうぞ」
ひまりは受け取る瞬間、
陽斗の指先に自分の指が触れたことに気づき、
息を止めた。
ペンよりも小さな温度が、
心臓へまっすぐ落ちていく。
ひまりは赤くなった顔を隠すように俯いた。
「……ありがとう……」
その声は小さくて、
だけどふたりの間にはっきり落ちた。
陽斗は、その小さな震えを聞き逃さなかった。
昼休み、屋上へ向かう階段。
ひまりが段差に躓きそうになった瞬間、
陽斗が腕を支えた。
「危ないって」
「ご、ごめん……!」
距離が近い。
手首が触れている。
鼓動が高鳴りすぎて苦しい。
ひまりは手を離そうとしたが、
陽斗は優しく言った。
「そんな急いで上がらなくていいよ。
ゆっくりでいい」
ひまりは胸に手を当てた。
こんなに優しい言葉をかけられるのは、いつぶりだろう。
屋上に着くと、風がふたりの間を通り抜けた。
青空が近く、ひまりの髪が揺れる。
陽斗は空を見上げながら言った。
「昨日の……あれ。
ひまり、よく頑張ったな」
ひまりの目がふっと揺れた。
「……昨日、陽斗くんがいてくれたから……
怖くなかったよ」
ひまりは言いながら、
胸の奥から何かが溢れてくるのを感じた。
陽斗を見ると、
陽斗はただそっと微笑んでいた。
「これからはさ。
怖いときは、ちゃんと言って。
泣きたいときは、泣いて。
無理に隠さなくていいから」
風が止まった。
世界がひまりの鼓動の音だけになる。
「……泣いてもいいの?」
「当たり前だろ。
泣くひまりも、俺はちゃんと好きだよ」
ひまりは驚いて息を呑み、
すぐに顔を真っ赤にした。
陽斗はハッとしたように視線を逸らす。
「いや、好きっていうか……その……
否定しないっていう意味で……」
ひまりは胸に手を当て、
指が震えた。
――好きって言われた。
たとえ取り繕うように言い直されても、
言葉はもう胸の中に残っている。
ひまりの視界が滲みかけたとき、
陽斗は優しく笑った。
「泣くのが“悪いことじゃない”ってだけだよ」
ひまりは何度も頷いた。
その頷きのたびに、
心の奥の固まっていたものが溶けていくようだった。
「……ねぇ、陽斗くん」
「ん?」
「私……今日、すごく幸せだよ」
陽斗は一瞬言葉を失い、
ゆっくり微笑んだ。
「それ、聞けてよかった」
ふたりの間を風がそっと撫でていく。
ひまりの笑顔は、
昨日までとはまるで違う。
泣き腫らした目元のまま、
世界で一番綺麗に笑っていた。
――ひまりは知らなかった。
陽斗もまた、この瞬間、
彼女に恋をしていく速度が
一気に加速していたことを。




