第9話「届かなかった言葉、届いた気持ち」
放課後の校舎に夕日が差し込み、
教室の床に長い影が伸びていた。
ひまりは机の上で指先を震わせていた。
ひとつ息を吸うだけで、胸が強く痛む。
――来る。
その予感だけで、足がすくみそうだった。
陽斗がそばに立ち、
ひまりの肩の高さにそっと視線を合わせる。
「大丈夫。
何があっても、俺がいる」
ひまりは弱い力で頷いた。
涙を必死にこらえて。
廊下から足音が聞こえた。
一定の歩幅。
静かで、迷いがない。
扉がゆっくり開く。
夕日に照らされて、晃斗が立っていた。
ひまりの呼吸が止まる。
心臓が跳ね、指先が冷たくなる。
晃斗は教室に一歩踏み込み、
ひまりを見て、動きを止めた。
陽斗がひまりの前に立ちかけたが、
ひまりが袖を軽く引っ張って止めた。
「……大丈夫……だから」
小さくて震えた声だが、
確かに自分の意思だった。
陽斗は後ろで静かに見守った。
晃斗がゆっくりひまりの前まで来る。
距離は二歩ほど。
ひまりは耐えるように顔を上げた。
涙が落ちる寸前で光る。
晃斗は何度も唇を噛み、
ようやく声を出した。
「……ひまり」
ひまりの肩が震えた。
「中学のとき……
お前に言った“泣くなよ”って言葉……
何回も何回も……俺、後悔してんだ」
ひまりの視界が滲む。
晃斗の声は、
ずっとしまい込んでいた重さを吐き出すように、苦しかった。
「泣いてるひまりを見たくなかった。
弱いのが嫌なんじゃなくて……
俺がどうしていいか分かんなくなるのが怖かったんだ」
ひまりの涙が一粒落ちた。
「お前が笑ってくれると安心して……
泣くと俺まで苦しくなって……
だから“泣くな”って……
言えば止まるって……
思ってたんだよ」
ひまりの胸が痛くて、呼吸が浅くなる。
晃斗は震える拳を握った。
「でも違ったんだよな。
俺がひまりを追い詰めてたんだよな。
ひまりが距離置いた理由……
相沢に聞かされて、初めて気づいた」
陽斗の胸が少し痛んだ。
晃斗の声は責めるようで、でもちゃんとひまりを見ている。
「ごめん……
本当に、ごめん……」
――謝ってほしかったわけじゃないのに。
言われるだけで心が崩れそうになる。
ひまりは震える声で言った。
「……どうして……
気づいてくれなかったの……?」
晃斗の顔が歪む。
「俺……
ひまりが“泣かないように”してるって、
本気で思ってた。
強い子だって……自分で立てるって……
勝手に決めつけてた」
ひまりの涙が止まらなかった。
「強い子じゃ……ないよ……
弱くて……怖くて……
助けてって言えなかっただけなのに……」
晃斗は俯き、
小さく、苦しげに息を吐いた。
「ひまりを弱くしたの……俺だな」
ひまりの心がざわつく。
晃斗が顔を上げたその目は、
どこか少年のように不器用で真っ直ぐだった。
「最後にひとつ言わせて。
もう二度と近づかない。
ひまりが笑っていられる場所を邪魔しない。
……だから、
これだけは聞かせてほしい」
晃斗は一歩、下がった。
「ひまり。
……俺のこと、
怖かった?」
教室に夕日が差し込み、
ひまりの涙が橙に煌めく。
ひまりはゆっくり目を閉じ、
震える声で答えた。
「……怖かったよ。
近づかれるのも……
声かけられるのも……
笑われるのも……
“泣くな”って言われるのも……
全部……全部怖かった」
晃斗の顔が強張る。
ひまりは続けた。
「でも……
あなたが悪い人だとは……思ってなかった。
ただ……
すれ違ってただけなんだよ」
晃斗の目が少し揺れた。
「だから……
もう、大丈夫。
私も……前に進みたいの」
沈黙。
晃斗は小さく息を吸い、
優しいでも涙が落ちそうな笑みを浮かべた。
「……そっか」
ゆっくり、ひまりに背を向ける。
「ひまり。
さよなら」
その背中は、
二人の長い時間を区切るように遠ざかっていった。
扉が閉まる音が、
静かに教室に響く。
ひまりは崩れるように座り込み、
声を押し殺して泣いた。
大きな、止まらない涙だった。
陽斗は急いでひまりのそばに膝をつき、
何も言わず抱きしめた。
ひまりの体が震え、
その震えごと受け止める。
ひまりは泣きながら言った。
「陽斗くん……
怖かったよ……
ずっと……ずっと……!」
「うん。
怖かったな。
ひとりで抱えすぎた」
ひまりは陽斗の胸にしがみつき、
泣き声が教室に溶けていく。
「終わったよ。
ひまりの過去はもう終わった」
ひまりは涙の中で陽斗のシャツを掴んだまま、
顔を上げた。
「……ありがとう……
陽斗くんが……いてくれてよかった……」
陽斗は涙で濡れた頬をそっと拭った。
「これからも隣にいるよ。
ひまりが泣いても、笑っても……
全部見ていたい」
ひまりが息を飲む。
顔が近い。
心臓がうるさいほど鳴っている。
ひまりの涙の跡、
赤く染まった目元、
震える唇。
すべてが愛おしく見えた。
ひまりが震える声で呟いた。
「陽斗くん……
私ね……」
陽斗は優しく応える。
「うん」
「陽斗くんのこと……
ずっと……」
その言葉が喉で震えた瞬間、
陽斗はひまりの手を握り、
静かに首を振った。
「言わなくていい。
今は……泣いたあとで苦しくなるから」
ひまりは驚き、
でもすぐ泣き笑いになった。
「……ずるいよ……陽斗くん……」
「うん、ずるいよ。
でもちゃんと聞くから。
ひまりが笑って言えるときに」
ひまりは小さく頷き、
陽斗の胸に再び顔を埋めた。
夕日が沈みかけ、
教室の影がゆっくり重なっていく。
――この日、ひまりの過去は終わり、
二人の未来が静かに動き出した。




