プロローグ
──気づいたのは、放課後の光が教室に差し込んだ瞬間だった。
机に影を落とすようにして、佐伯ひまりは静かに座っていた。
いつも通りの笑顔。いつも通りの柔らかい雰囲気。
けれど、その横顔が、今日はほんの少しだけ震えていた。
呼吸が浅い。
瞬きが速い。
目の端が、光を集めて濡れている。
彼女は誰にも見られないつもりなのだろう。
周りは部活へ向かう足音で騒がしく、気づく人はいない。
──本当に?
机一つ隔てた隣で、そのわずかな違和感が胸に刺さる。
「……佐伯さん?」
声をかけた途端、ひまりの肩が小さく揺れた。
笑顔を戻そうとして、うまくいかず、視線が机に落ちる。
「ごめんね、相沢くん。なんでもないよ」
なんでもない、なんて言い方だった。
泣きそうな人ほど、そう言う。
泣いちゃいけないと思っている人ほど、そう言う。
その仕草が痛いほど分かってしまって、
胸の奥がぎゅっと縮む。
「……本当に?」
返事はなかった。
ひまりは唇を噛んで、俯いたまま小さく息を吸う。
その横顔は、春風に触れられた花びらみたいに頼りなくて、
触れたら壊れてしまいそうだった。
しばらくして、やっと顔を上げた彼女の瞳には、
透明な一滴が今にも零れそうに揺れていた。
その涙を見た瞬間、
胸の奥がざわつく。
助けたいとか、支えたいとか、
そんな言葉よりもっと、ずっと先の気持ち。
自分でも驚くほど強い衝動が胸を突き上げた。
「佐伯さん。泣きそうなら……泣いていいよ」
ひまりの目が、信じられないものを見るように揺れる。
その震えがそのまま涙になって、頬を伝い落ちた。
静かな教室で、その涙だけが鮮やかに見えた。
その時、初めて分かった。
──僕は、気づいてしまったんだ。
彼女が泣く理由に。
その涙の重さに。
そして、ひまりという人を守りたいと思ってしまった自分の気持ちに。
春が近づく匂いのする午後。
ひまりの涙を見つけたことで、
僕の世界は静かに形を変え始めた。
ここからすべてが始まったのだと、
後になって気づくことになる。




