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だから僕は普通に音楽がしたい。  作者: Kei-ichi
第一章 桜の木の下から
9/26

新宿事件 前半 都会の迷宮

 春休みの真ん中を少し過ぎたころ。

 新生活の段取りは大方片づいた。市役所、学校、バイトの面接、最低限の家具。段ボールはまだ積まれているけど、床は見える。

 ――なら、外に出るべきだ。上京したての高校生として。


 目的地は新宿。

 地方出身者が人生で一度は踏むべき聖地、みたいなノリがどこかにあって、僕の頭の中では「とりあえず新宿に行ってみよう」が自動的に採択された。

 ギターケースを背負って、家のドアを閉める。アパートの廊下にこもった残り香は、昨夜のカップ麺のスープと柔軟剤のミックス。都会の匂いは、まだ部屋の中には棲みついていない。


 丸ノ内線。電車は静かで、窓に映る自分の顔が少し薄い。

 車内広告は情報量が多すぎて、どれも半分だけ脳に入り、半分はすべり落ちる。

 「新宿三丁目~」というアナウンスが聞こえて胸がざわつく。降りるのは一駅先なのに、気持ちが先に着いてしまう。


 新宿駅。

 ……結果から言おう。甘かった。

 改札を出たのに、気づけばまた改札の前に戻っている。コンコースの地図は親切そうな顔でこちらを見てくるが、上下左右の感覚がぜんぜん揃わない。僕の中にある「駅」の定義を、ここは簡単に踏み越えていく。

 通路を三つ曲がったら元の場所。階段を上ったら下にいた。マジックショーの舞台袖に迷い込んだ観客みたいな気分だ。


 人、人、人。

 前からも横からも人の波が押し寄せ、肩が、バッグが、視線が、細かい摩擦を無数に生む。

 僕は、海に投げ出された貝殻だ。波打ち際じゃない。真ん中。

 それでも歩く。出口の文字を追って、動く床に乗って、また降りて。それを何回か繰り返して、やっとの思いで西口に出る。


 空が見えた瞬間、息が一段落ちる。

 ――が、落ち着く間もなく、急にトイレに行きたくなる。

 地方のコンビニなら「トイレ貸してください」でだいたい済む。けれど、ここは新宿。

 入ったコンビニ、入ったコンビニ、すべて同じ貼り紙がある。「当店はトイレの貸し出しを行っておりません」。

 店員さんの笑顔は丁寧だが、貼り紙のフォントはあまりに強い。僕はその強さに三回敗北して、Google Mapを開く。最寄りの公衆トイレは――歌舞伎町のど真ん中。


 道に出る。

 看板の数が空の星より多い。昼間なのに、光がやたらと立体的だ。

 このエリアに僕がいることを、地図の青い点が静かに宣告する。心の体力が一気に削れた。


「……マジ無理」


 と口に出した瞬間、撤退が決まる。

 新宿は今日じゃない。

 僕は来た道を引き返す――はずだった。


 その途中。ガード下の奥のほう、陰が深くなるあたりから、不思議な音が聞こえてきた。


 ポーン、ポーン、ポポポポーン。


 木琴? 鉄琴? いや、違う。

 柔らかいのに鮮やか。指先で触れたら水に波紋が広がるタイプの音。

 耳の後ろをくすぐられて、気づけば足がそっちへ向かっている。身体が先に納得してる感じ。


 影の中に、一人の演奏者。

 フードを深く被った、華奢な肩。足元に置かれたのは、大きな金属の皿――スチールパン。

 オイルドラムを叩き出して作る、トリニダード・トバゴ発祥の楽器。

 見慣れない人には「凹んだ大きな鍋」にしか見えない。けれど、打面に押し出された無数の凹みが、音階そのものなんだ。


 彼女は、それを素手で叩いていた。

 マレットじゃない。指先と掌で。

 低く深い音から、光の粒みたいな高音まで、迷いなく打ち分ける。テンポは少しずつ上がっていくのに、音像は濁らない。

 澄んだ音色の輪郭が何層にも重なり、倍音が空気の繊維を一本一本撫でていく。

 通り過ぎる車の音は、その倍音の蜂蜜に絡め取られて、背景へ下がった。


 僕は立ち尽くしていた。

 最後の一音が空気に吸われる瞬間、自然と手が叩かれる。

 ――立ち止まっていたのは、僕だけだったけど。


 フードの奥から、視線がこちらをすくい上げる。

 彼女は、軽く会釈をした。


「ありがとうございます」


 淡々とした礼。

 そのフラットさに、僕の緊張も半歩ほどおさまる。

 ところが次の瞬間――


「分かります!? 倍音!!」


 声が大きい。いや、異様に通る。

 車の走行音を軽々突き抜ける、鋭い伸び。

 さっきまでの神秘が、紙芝居の背景みたいにめくられていく。


「え、いや……」

「倍音、好きなんですか!? どんな倍音が好きですか!?」

「どんな、って……そんな深く考えたことは」

「ダメです! 音に紳士に向き合わないと、最悪の場合、死を招きます!」

「死!?」


 いきなり死。初対面で死。

 脳が処理落ちする。言葉の意味より先に、声の音色が刺さってくる。


「私は倍音を愛しています。結婚したいくらいです」

「いや、人と結婚しようよ!」


 彼女の勢いは弱まらない。

 けれど、よく見れば顔立ちは整っている。目鼻立ちがくっきりして、皮膚の色は健康的で、目の奥は妙に澄んでいる。

 声が綺麗すぎるせいで、言ってることの残念さが際立つタイプの美人だ。


「私、瀬川彩月せがわさつき。高校二年です」

「僕は七海夏樹ななみなつき……同い年?」

「同い年。学校はどこ?」

「○○高校」

「同じ。じゃあ、“総音研”に入りましょう」

「話が速い!」


 彼女は、スチールパンの縁をやさしく撫でる。

 軽く爪で弾くと、薄いガラス片のような音が跳ねた。

 フードを脱ぐ。髪はセミロング、陽の下では淡い金色が混ざりそうな茶色。顔を上げた笑顔は、比喩を全滅させるやつ――のはずなのに、口角の端が濡れて光った。


「……残念な人だ」


 心の声が口から滑り落ちた。

 だって、倍音の話をするときにヨダレは反則だと思う。


「またね、七海君」

 彩月はスチールパンをさっと布で覆い、ケースに収納する手際も速い。

 信号が変わる前に渡り切るランナーみたいな速度で片づけて、こちらに小さく手を振ると、雑踏に溶ける速度で歩き去っていった。


 残されたのは、金属の余韻と、僕の拍手のバツの悪さだけ。

 空は相変わらず高く、駅の入り口は同じ場所にある。

 でも、帰り道の景色は、さっきと同じじゃなかった。

 耳の後ろに、さっきの“ポーン”がずっと残っている。

 倍音の尾が、皮膚のどこかに小さく引っかかっている感じ。


(……やっぱり、残念な人だ)

 でも、残念なだけじゃない。

 あの音に関してだけ、僕ははっきり参っていた。


 駅に戻る。

 ホームの騒音が、不思議と少しだけ柔らかく聞こえた。

 それはきっと――僕の耳のなかに、さっきのスチールパンの倍音が、まだ座布団を敷いて座っているからだ。



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