新宿事件 前半 都会の迷宮
春休みの真ん中を少し過ぎたころ。
新生活の段取りは大方片づいた。市役所、学校、バイトの面接、最低限の家具。段ボールはまだ積まれているけど、床は見える。
――なら、外に出るべきだ。上京したての高校生として。
目的地は新宿。
地方出身者が人生で一度は踏むべき聖地、みたいなノリがどこかにあって、僕の頭の中では「とりあえず新宿に行ってみよう」が自動的に採択された。
ギターケースを背負って、家のドアを閉める。アパートの廊下にこもった残り香は、昨夜のカップ麺のスープと柔軟剤のミックス。都会の匂いは、まだ部屋の中には棲みついていない。
丸ノ内線。電車は静かで、窓に映る自分の顔が少し薄い。
車内広告は情報量が多すぎて、どれも半分だけ脳に入り、半分はすべり落ちる。
「新宿三丁目~」というアナウンスが聞こえて胸がざわつく。降りるのは一駅先なのに、気持ちが先に着いてしまう。
新宿駅。
……結果から言おう。甘かった。
改札を出たのに、気づけばまた改札の前に戻っている。コンコースの地図は親切そうな顔でこちらを見てくるが、上下左右の感覚がぜんぜん揃わない。僕の中にある「駅」の定義を、ここは簡単に踏み越えていく。
通路を三つ曲がったら元の場所。階段を上ったら下にいた。マジックショーの舞台袖に迷い込んだ観客みたいな気分だ。
人、人、人。
前からも横からも人の波が押し寄せ、肩が、バッグが、視線が、細かい摩擦を無数に生む。
僕は、海に投げ出された貝殻だ。波打ち際じゃない。真ん中。
それでも歩く。出口の文字を追って、動く床に乗って、また降りて。それを何回か繰り返して、やっとの思いで西口に出る。
空が見えた瞬間、息が一段落ちる。
――が、落ち着く間もなく、急にトイレに行きたくなる。
地方のコンビニなら「トイレ貸してください」でだいたい済む。けれど、ここは新宿。
入ったコンビニ、入ったコンビニ、すべて同じ貼り紙がある。「当店はトイレの貸し出しを行っておりません」。
店員さんの笑顔は丁寧だが、貼り紙のフォントはあまりに強い。僕はその強さに三回敗北して、Google Mapを開く。最寄りの公衆トイレは――歌舞伎町のど真ん中。
道に出る。
看板の数が空の星より多い。昼間なのに、光がやたらと立体的だ。
このエリアに僕がいることを、地図の青い点が静かに宣告する。心の体力が一気に削れた。
「……マジ無理」
と口に出した瞬間、撤退が決まる。
新宿は今日じゃない。
僕は来た道を引き返す――はずだった。
その途中。ガード下の奥のほう、陰が深くなるあたりから、不思議な音が聞こえてきた。
ポーン、ポーン、ポポポポーン。
木琴? 鉄琴? いや、違う。
柔らかいのに鮮やか。指先で触れたら水に波紋が広がるタイプの音。
耳の後ろをくすぐられて、気づけば足がそっちへ向かっている。身体が先に納得してる感じ。
影の中に、一人の演奏者。
フードを深く被った、華奢な肩。足元に置かれたのは、大きな金属の皿――スチールパン。
オイルドラムを叩き出して作る、トリニダード・トバゴ発祥の楽器。
見慣れない人には「凹んだ大きな鍋」にしか見えない。けれど、打面に押し出された無数の凹みが、音階そのものなんだ。
彼女は、それを素手で叩いていた。
マレットじゃない。指先と掌で。
低く深い音から、光の粒みたいな高音まで、迷いなく打ち分ける。テンポは少しずつ上がっていくのに、音像は濁らない。
澄んだ音色の輪郭が何層にも重なり、倍音が空気の繊維を一本一本撫でていく。
通り過ぎる車の音は、その倍音の蜂蜜に絡め取られて、背景へ下がった。
僕は立ち尽くしていた。
最後の一音が空気に吸われる瞬間、自然と手が叩かれる。
――立ち止まっていたのは、僕だけだったけど。
フードの奥から、視線がこちらをすくい上げる。
彼女は、軽く会釈をした。
「ありがとうございます」
淡々とした礼。
そのフラットさに、僕の緊張も半歩ほどおさまる。
ところが次の瞬間――
「分かります!? 倍音!!」
声が大きい。いや、異様に通る。
車の走行音を軽々突き抜ける、鋭い伸び。
さっきまでの神秘が、紙芝居の背景みたいにめくられていく。
「え、いや……」
「倍音、好きなんですか!? どんな倍音が好きですか!?」
「どんな、って……そんな深く考えたことは」
「ダメです! 音に紳士に向き合わないと、最悪の場合、死を招きます!」
「死!?」
いきなり死。初対面で死。
脳が処理落ちする。言葉の意味より先に、声の音色が刺さってくる。
「私は倍音を愛しています。結婚したいくらいです」
「いや、人と結婚しようよ!」
彼女の勢いは弱まらない。
けれど、よく見れば顔立ちは整っている。目鼻立ちがくっきりして、皮膚の色は健康的で、目の奥は妙に澄んでいる。
声が綺麗すぎるせいで、言ってることの残念さが際立つタイプの美人だ。
「私、瀬川彩月。高校二年です」
「僕は七海夏樹……同い年?」
「同い年。学校はどこ?」
「○○高校」
「同じ。じゃあ、“総音研”に入りましょう」
「話が速い!」
彼女は、スチールパンの縁をやさしく撫でる。
軽く爪で弾くと、薄いガラス片のような音が跳ねた。
フードを脱ぐ。髪はセミロング、陽の下では淡い金色が混ざりそうな茶色。顔を上げた笑顔は、比喩を全滅させるやつ――のはずなのに、口角の端が濡れて光った。
「……残念な人だ」
心の声が口から滑り落ちた。
だって、倍音の話をするときにヨダレは反則だと思う。
「またね、七海君」
彩月はスチールパンをさっと布で覆い、ケースに収納する手際も速い。
信号が変わる前に渡り切るランナーみたいな速度で片づけて、こちらに小さく手を振ると、雑踏に溶ける速度で歩き去っていった。
残されたのは、金属の余韻と、僕の拍手のバツの悪さだけ。
空は相変わらず高く、駅の入り口は同じ場所にある。
でも、帰り道の景色は、さっきと同じじゃなかった。
耳の後ろに、さっきの“ポーン”がずっと残っている。
倍音の尾が、皮膚のどこかに小さく引っかかっている感じ。
(……やっぱり、残念な人だ)
でも、残念なだけじゃない。
あの音に関してだけ、僕ははっきり参っていた。
駅に戻る。
ホームの騒音が、不思議と少しだけ柔らかく聞こえた。
それはきっと――僕の耳のなかに、さっきのスチールパンの倍音が、まだ座布団を敷いて座っているからだ。




