欠陥品
僕は、弾いてしまった。
小さな指でEコードを押さえ、弦がビリビリ鳴って挫折しかけた。でも何故かFコードでも泣きはしなかった。センスがあったんだと思う。指先がすっと慣れていって、思ったより早く、まともな音が鳴るようになった。
気づけば弾き語りができるようになり、学芸会や文化祭では「夏樹にやらせればいい」みたいに名前が挙がった。
……ただし、それは“普通に上手い”という範囲。天才でも神童でもない。大会で賞を取るでもなく、オリジナル曲を配信するでもない。友達に「すげぇ!」って言われて照れ笑いする程度の実力だった。
それで充分だった。僕は「普通に音楽が好き」だったから。
ところが――父はそれを許さなかった。
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高校一年のある晩、言い合いになった。
原因は小さなものだった。僕が「もっと普通にやりたい」と漏らしたとき、父の表情が凍った。
「普通? 音楽に“普通”なんてあるか!」
父の声は、怒鳴り声というより悲鳴に近かった。
普通でいい、と言うことが、父にとっては過去の敗北をなぞるように聞こえたのだろう。自分が叶えられなかった夢を、息子にまで潰されたくなかったのかもしれない。
けれど、僕にとっては「普通」こそが唯一の希望だった。派手な夢や喝采は望んでいない。仲間と笑って、適度に弾ければそれでいい。そう願っただけだったのに。
その夜、父は吐き捨てた。
「お前は欠陥品だ」
……言葉のナイフは、心の奥の柔らかいところに突き刺さる。
僕は家を飛び出し、二度と戻らなかった。
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母がこっそり支援してくれた。
父に内緒で、東京の親戚を頼り、転校先を探してくれた。
僕は東京都中野区、丸ノ内線・方南町駅から徒歩十分の古びたアパートに住むことになった。六畳一間、押し入れと小さなキッチン。ベランダからは灰色のビルが近すぎるくらいに迫っていて、空は狭かった。
家賃は母が出してくれた。電気・水道・ガスはアルバイトで払った。
自炊も洗濯も掃除も、全部初めて。最初は楽しかった。自由の匂いがした。
でも――夜になると、部屋の静けさに押し潰されそうになった。ギターを鳴らせば苦情が怖い。スマホの光だけが広がる部屋で、「普通」という言葉を何度も唱えた。
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それでも、音楽をやめようとは思わなかった。
ギターを抱える時間は、やっぱり落ち着いた。
ただ、父みたいに夢に狂いたくはなかった。狂った末に、家族を傷つけることになりたくなかった。
だから僕は決めた。
「普通に音楽がしたい」――それが僕の願いであり、呪いだった。
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春。転校先が決まった。
都内の公立高校。学力的にも無理なく入れるレベル。
そこで僕は、もう一度“普通”を始めるはずだった。
けれど、その“普通”は、新宿のガード下で――倍音にヨダレを垂らす少女と出会った瞬間、壊れ始めたのだ。




