幕裏、呼吸のそろえ方、照明と一音目
体育館のカーテンの向こうから、ざわめきが流れ込んでくる。拍手の名残、放送委員の案内、椅子が擦れる音。ワックスの甘い匂いに照明の熱が混ざり、空気が少し金属っぽくなる。
ざらついた音の塊が、幕裏の僕の胸をじわじわ押してきた。指先の温度が落ちる。
「夏樹くん、顔、青い」
彩月がガンクのケースを抱えたまま覗き込む。口角が少し上がって――10%天使。目だけで「大丈夫」を押しつけてくる。
「青くない」
「うん、嘘。すごく青い」
「言い切るな」
彼女はガンクの縁をとん、と叩く。薄い鉄の共鳴が指先でほどけ、耳の奥に丸い輪を残した。
「息、合わせよう。あなたが乱れると、こっちも乱れる」
「……プレッシャーのかけ方おかしくない?」
弥生はD-50の弦を一本ずつ確かめている。ペグをほんの気持ち回すたび、ピッチが“帰る場所”を見つける。
「っし、オッケー。エリクサー新品、鈴鳴り最強!」
六条はボードのノブを0.5ミリ単位でいじる。LEDが影の中で小さな都市みたいに瞬く。
「照明熱で粒が粗い……ここで妥協したら音が死ぬ」
「死ぬとか言わないで!」
慌てて突っ込みつつ、喉の乾きに気づく。唾を飲む音が自分にだけ大きい。
五十嵐は機材ケースを机代わりにラップトップを開き、スタッフと短くやり取りした。
「ハム出たら僕がフェーダーで殺す。夏樹くんは歌だけ」
八神先輩は――やっぱりケーブルの山の中。巻きは完璧、白テープのラインはまっすぐ、教科書みたいな“血管”の模式図だ。
「白テープの二本は踏むな。跨げ。跨いだら褒める」
「軍隊式やめて!」
「みなさーん、準備どうですかー?」
ミント色のカーディガン、ふわふわ笑顔、背中に黒光りするPRS SE。神前れい子先生の“にこ”は、なぜか空気にクリックを入れる。
「……先生、全員ガチガチです」
「ですねー。緊張は舞台の神様からのプレゼントですよー」
ケースを軽く“コン”。その一拍だけ刃物みたいに輪郭が立つ。呼吸が深くなる。
幕の向こうで放送委員の声がした。
『予定を変更して――総合音楽研究部、スペシャルステージです!』
客席が沸く。床下の空気が揺れた。
「息、合わせよ」
彩月が僕の袖をつつく。弥生が指で1・2・3。震えはゼロ。六条は歪みをオンオフ確認し、五十嵐は親指を立てた。八神先輩はケーブルの端を押さえる。先生は、にっこり。
「じゃ、行きましょー」
胸ポケットの退部届が指を刺す。ここで歌わなければ、本当に“インスト”になる。深呼吸。幕が上がる。
■
視線の重さが一斉に押し寄せる。照明の白が前に出て、背中の闇が一段深くなる。足元の白テープが妙に心強い。
五十嵐の指のカウント――鼓動の速さ。心臓がクリックになる。
最初に動いたのは彩月だ。ガンクの真ん中をそっと叩く。ぽうん。体育館の空気が丸く震え、ざわめきの壁が一瞬やわらぐ。「何それ」の囁きが音の中へ溶けていく。
弥生のD-50が鈴のアルペジオを重ねる。しゃらん。光の粒が空中に撒かれる。六条のクランチが影の輪郭を床に描く。
僕はCadd9を握り、ピックを振り下ろす。じゃん。無機質な体育館が、瞬時に「ステージ」になった。返りが味方する。音は重なるのに、ぶつからない。ひとつの呼吸になる。
彩月が目で告げる――歌え。
母音で道を作る。“ら”をそっと落として、言葉が芽生える。
まだ名前のない朝の色を
ポケットの紙で折りたたむ
最前列の肩がすこし下がる。呼吸が揃う。
いける。
■サビが観客を掴む瞬間
Cadd9の広がり、D-50の鈴、ガンクの“水”、六条の影。五十嵐の手のリズムで心拍が整う。四角い体育館に丸いテンポが張られる。
サビ。
ねえ、重力みたいに
君の名前が胸に降る
天井で跳ね返った声が耳に戻る。前に出ている。光の帯の中で客席の焦点が一斉に中央へ寄る。「おお」という息。体が揺れ、照明が強まる。呼吸が重なる。
「夏樹、いいよ!」
弥生が笑って頷いた。
「声、ちゃんと飛んでる」
彩月が10%天使で目線を送る。
「……うん、“意味”が足を止めてる」
「詩で言うな!」
小声の掛け合いに前列が笑う。緊張がほどけ、音の座りがさらに良くなる。六条はワウを浅く踏み、歌の裏に影を描いた。
「今、真ん中は七海しか見えねえ」
袖からの呟きと同時に拍手の種火が点き、サビ後も手拍子が残る。空気が僕ら側に傾いた。
よし、掴んだ。




