普通”のための戦い/書類地獄、でも笑う/
放課後の教室。クラスの文化祭会議は決まるまでが長い。
「カフェ?」
「射的!」
「映え!」
キーワードが宙を泳ぎ、時間だけが進む。
僕は議事録係で板書をしながら、心ここにあらず。頭の片隅では総音研の申請書がちらついていた。
(出すのは“普通”じゃない。たぶん)
(でも、ここで笑っていられる“普通”を守るには、あっちでちゃんとやるしかない)
会議が終わる頃、背中を軽く小突かれた。彩月だ。
「ね、いま何割?」
「何の?」
「“普通にいたい”と“音に行きたい”の比率」
ずるい質問だ。
「……五十五:四十五」
「どっちが五十五?」
「前者」
「じゃ、あと五だけ、貸して」
指を五本、ひらひらさせる。ずるい仕草。
「貸す単位で増減するのやめて」
■
部室。机に並ぶ申請用紙。
責任者欄には「神前れい子」。顧問印スペースは空白。
「スタンプ忘れましたねー」
れい子先生が笑いながら鞄を探る。
「シャチハタはダメですよー」
八神が即突っ込み。
「分かってますねー。ちゃんと朱肉で押しますねー。インクの粒子が音に影響する――わけはないですねー」
「たまに安心する」
展示内容の欄。
彩月は“倍音浴・体験(安全・短時間)”。
弥生は“Jヴィンテージ系統図(実器D-50中心)”。
六条は“空間系ライトふり(薄味)”。
八神は“導線・電源・ケーブル運用(恋人)”と書きそうになって僕が止める。
「“恋人”は括弧に入れるな」
「じゃあ脚注に」
「やめて」
「脚注は情緒としては可愛いですけどねー(却下ですー)」
先生の一刀で場が落ちた。
■
放課後の廊下は、文化祭特有の生ぬるさ。
どの教室も少しずつ騒がしく、でも怒られないギリギリのラインを踏んでいる。
窓の外、夕陽が砂ぼこりに斜めの筋を描いていた。
「ねえ、七海君」
「ん?」
「新宿で初めて会ったとき、どう思った?」
「神秘的だった。最初の三秒は」
「三秒?」
「四秒目から“残念な人”に変換された」
「失礼」
「ヨダレが光ってた」
「そこは反省している」
すぐに涼しい顔が戻る。
「でも、倍音は嘘つかない」
「また詩だ」
「詩じゃない。事実」
言い切る彼女の横顔は、強い。少し羨ましい。
「……ところでさ」
「ん?」
「この企画、失敗するかもしれないって、怖くない?」
「怖いよ」
立ち止まらずに、彩月は答える。
「でも、“怖いのにやる”と、“怖いからやらない”は、どっちも普通」
「え」
「だから七海君は、どっちを選んでも普通」
ずるい答えだ。反則に近い。
■
生徒会室は、紙の匂いが濃い。掲示物、ポスター、配布プリント、記録ファイル。文字の層が空気を圧縮しているみたいだ。
学年の違う役員が二人、書類を小分けにしていた。
「総合音楽研究部さん?」
眼鏡の女子が顔を上げる。
「展示と実演の申請、お願いします」
彩月が封筒を差し出す。
「責任者は顧問の神前先生ですね。……確認します」
ぱらり。紙をめくる音。
心臓の鼓動と、紙の音が奇妙に同期した。
ポケットの中指で、例の薄い紙をずらす。退部届。触れたら、ずるい。
「“倍音浴体験・安全短時間”。“Jヴィンテージ系統図”。“音量地図掲示”。“電源別回路”。“実演五分・撤収一分”。……細かいですね」
眼鏡女子が感心半分、警戒半分で笑う。
「すみません、うるさくしない努力の書類です」
僕が頭を下げると、彼女は首を振った。
「いえ、ちゃんと考えてくれてるのは伝わります。……一点、電源の申請だけ理科準備室に事前相談をお願いします」
「はい」
「では、受理します」
受領印が、ぽん、と押される。赤が紙にじんで広がった。
呼吸を止めて見てしまった。
「それと軽音部さんのライブが大人気なので、音の被りだけ配慮を」
「はい」
その言葉が、このあと何度もリフレインするとは知らなかった。
■
生徒会室を出ると、渡り廊下に風。夕方のグラウンドから吹奏楽のB♭が飛んできて、床板がかすかに“うん”と鳴った。
「受理、したね」
「したな」
僕は指先の力を抜く。
「ありがとう」
彩月が小さく言う。その声音は、普段の彼女よりわずかに柔らかい。
「怖いけど、やってみる」
「うん。怖い方が、音はたぶん、綺麗」
「根拠は」
「未知数」
「数学の用語を詩にするな」
彩月はふっと笑い、夕空を見上げる。
「空席が、できた」
「ん?」
「音のための席。今日、ひとつ増えた」
それはガンクで聞いた“空席”の比喩と同じ響きだった。意味が分かるような、分からないような。
でも、不思議と悪くない感触だけは胸に残った。




