部室の地形/即席セッション/扉のもうひとつの音/ギャップの顧問
改めて見渡すと、この部屋には普通の教室とはまるで違う“地形”があった。
壁一面の吸音材。ところどころに貼られた、謎のプリント――「電源を落とす前に音を落とせ」とか「ケーブルは恋人、絡ませるな」とか。
机は音楽雑誌やマニュアルで埋まり、窓際には古いアンプが二台並んでいる。ひとつはフェンダー、もうひとつはマーシャル。埃っぽいけれど、ちゃんと磨かれている光沢があった。
「ここ、いつからこんなふうに?」
僕が訊ねると、八神先輩がケーブルを肩にかけたまま答える。
「歴代の先輩たちが少しずつ置いていった。……けど、八割は僕のコレクション」
「八割かよ!」
「配線が血液。だから健康診断」
「また名言ぽいことを……」
六条はアンプに手をかけ、コードを一本抜いて差し替える。
「こっちはもうガリが出るんだよな。でも、このガリも含めて“音”なんだ」
そう言ってギターを爪弾くと、アンプが少し唸ってから、じゅわっとしたクランチが広がる。
「ほら、この感じ」
「ただの接触不良じゃなくて?」
「魂が宿ってるんだよ!」
弥生が目を輝かせる。
「分かる! ノイズが生き物みたいに感じるときある!」
僕は両手を上げて降参するしかなかった。
■
「じゃ、次はリズム遊びいこう」
彩月が手を叩く。指先まで“拍”が仕上がっている音だった。
「テーマは“歩く速さ”。誰かの足音を真似して」
弥生がストロークで刻む。しゃか、しゃか、と乾いて粘らない八分。
僕はそれに合わせて低音弦でドンッ、ドンッと歩幅を描く。踵が床に触れる瞬間だけを指で強調する。
そこへ彩月のガンクが重なる。ぽうん、と鳴るたびに、校舎の廊下に蛍光灯の白がのび、音が影を連れて歩き出すみたいだ。
五十嵐はノートPCを開いたまま、机の角を指でトントン叩き、即席のカホン代わりにする。
「おー、そっちもありか」
「録音しない代わりに、僕のリズムは手動で」
六条がさっとシールドを差し替え、ワウを薄く踏む。
にゅわん……と、足音の“影”だけを伸ばす一音。
「これが歩く影だな」
ぼそりと呟く声まで、エフェクトの余韻に包まれる。
八神先輩は最後尾でケーブルをさばき、パシンと床に這わせる。
「影に電流。完成」
意味は分からないのに、なぜか曲の“題名”に聞こえた。
誰も号令をかけていないのに、音は自然に一曲の形へ寄っていく。
ガンクが主役のメロ、弥生のストロークが骨格、僕の低音が足跡、六条のワウが影、五十嵐の指ドラムが拍を縫う。
四小節、八小節、十二小節――息がそろう。最後、彩月が“階段を降り切る”みたいに三発のアクセントを落として、ふっと静かに手を上げた。
余韻が吸音材に吸われ、部屋が丸く戻る。
同時に、全員が顔を見合わせて笑った。
「いいねー」
「今の、録っとけばよかった」
「録らなかったから、よかったのかも」
「そういうのあるな」
弥生が小声でつぶやく。「ね、今のBPM、歩く速さそのものだったよね」
彩月は頷いて、「うん。心拍でクリック取ると、音楽は人になる」と、また詩みたいなことを言った。
■
そのとき、背後の扉が開いた。
金具が鳴らない。丁寧に回されたノブの、空気だけが入れ替わる音。
「おじゃましまーす」
ふわり、と柔らかい声。
振り返った瞬間、僕たちは全員、息を止めた。
ミント色のカーディガンに花柄ワンピース。肩までのゆるい髪。目元はのんびり、口元は春の陽だまりみたいに微笑む女性。
けれど、その肩からさげているのは――黒く艶めくPRS SEのケース。金属パーツはすべてロック式。持ち手の握りが“現場”の癖を知っている。
「……!」
視線が吸い寄せられる。
「はじめましてー。今日から総音研の顧問を担当します、神前れい子って言いますねー」
語尾はのんびり。空気はふわふわ。
なのに、部屋の温度が一度だけ下がった気がした。音の密度が、勝手に整列する。
「先生、それPRSですよね!? SEですか!?」
弥生が真っ先に食いつく。
「そうですよー。SE。でも全部ロック式なんですー」
にこにこしながら、ケースを軽く叩く。カチ、と鳴った金属音は、妙に刃物じみていた。
六条が目を丸くする。
「ロック式!? ブリッジまで!? それ、チューニングずれないやつじゃん……!」
「はいー。ずれないように、ずらさないんですー」
言葉は柔らかいのに、意味は刃だ。ギャップの人、だと直感した。
■
「音楽はねー、楽しむのが基本ですー。けど本気の音を出せなきゃ、楽しみも半分ですー」
ふわふわの声で放たれたひと言が、部屋の中央に“基準線”を引く。
僕は思わず弥生に小声で囁く。
「……なんか、この人、怖い」
「え、可愛いけど?」
「外見じゃなくて、中身の刃物感が」
「……わかる」
神前先生はロックを外してPRSを取り出した。
艶やかな赤。指板の鳥のインレイがスポットを跳ね返す。
左手がネックに触れ、右手が軽く弦を払う――ただの“ジャッ”に、空気が背筋を伸ばした。
軽いカッティング、からの三連の装飾。ほんの数秒。
でも、それだけで十分だった。
“この人は、音で嘘をつかない”。それが分かる。
「じゃ、ひとつだけ。簡単なセッションしましょうかー」
先生がにこり。
六条は反射でボリュームを絞り、弥生は呼吸を整え、彩月はガンクの上に指を置く。五十嵐はPCを閉じ、八神先輩は無言で一番短いシールドを差し出した。
四小節のブルース進行も、定番のロックリフでもない。
先生が示したのは、二音だけの“問い”。
僕らは、一音ずつ“答え”を返す。
全員の目線が、初めて同じ高さで交差した。
わずかな即興が終わる。
静けさの縁で、先生が柔らかく告げる。
「じゃあ、改めて。これからみんなで、いっぱい音を鳴らしていきましょーね」
弥生が「はいっ!」と即答し、彩月は「倍音、準備できてる」と笑う。
六条は小さく頷き、五十嵐は「録る準備も」と指を動かす。
八神先輩はケーブルを胸の前で組み、「配線完了」とだけ言った。
その瞬間、僕たちの――“普通じゃない日常”が始まったのだ。




