表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
だから僕は普通に音楽がしたい。  作者: Kei-ichi
第一章 桜の木の下から
10/26

新宿事件 後半 残響と招待

 方南町に戻る電車のなか、窓ガラスに映る自分は、来るときよりちょっとだけピントが合っている。

 指先がむずむずする。

 ギターケースのネック部に無意識で触れて、やめる。電車内でやる仕草じゃない。


 アパート。鍵を回す。狭い部屋。狭いけど、今日の狭さはきつくない。

 椅子に腰かけ、静かに深呼吸。

 指が勝手にコードの形を探したくなるのを、しばらく放っておく。

 やがて、我慢がもったいなくなる。


 ギターを取り出す。

 音量は出せないから、ピックは使わない。親指と人差し指の腹だけ。

 ――Cadd9。

 人差し指で四弦二フレットをセーハ、中指で五弦三フレット、薬指で二弦三フレット。

 そっと鳴らす。

 硬くない。角が立たない。

 でも、輪郭は消えない。

 スチールパンのあの“丸いのに強い”輪郭の真似ごとが、ほんの少しだけ自分のギターにも起きる。


 Cadd9→D→Bm7→Em。

 コードが入れ替わるたび、部屋の空気の形が変わる。

 換気扇の低い唸りと、冷蔵庫の周期的なモーター音が、伴奏に混ざる。

 雑音も音楽に見えてくるのは、たぶん、今日のせいだ。


 スマホが震えた。

 画面には、知らない番号。出るか迷って、出る。


「七海君?」

 聞き覚えのある、通る声。

「……瀬川さん?」

「うん。さっきはありがとう。拍手、嬉しかった」

「いえ……あの、どうやってこの番号を」

「情報網」

「怖」

「冗談。共通の友達経由だよ。でね――明日、学校来られる?」

「転入手続き、明後日ですけど」

「明日でいいよ。放課後、“総音研”見学。ガンクも鳴らしてみせる」

「ガンク……」

「今日のはスチールパン。学校にあるのはガンク。丸いけど別物。倍音は両方出る。素晴らしい」

「語尾の勢いがすごい」

「明日、来る?」

「……行きます」

 気づけば、答えていた。


「じゃ、また明日。おやすみ」

「おやすみ――」

 通話が切れる寸前、彼女の小さな笑い声がノイズに混ざって、消えた。


 僕はスマホをテーブルに置き、もう一度だけCadd9を鳴らす。

 ――今日は、鳴らしても苦情は来ない気がした。

 いや、実際はダメなんだけど。それでも、指が、鳴らせ、と言ってくる。


 退部届。

 制服のポケットに入れっぱなしのそれは、部屋のハンガーにかかったまま揺れている。

 紙一枚で決着する“普通”が、今日はほんの少しだけ遠ざかった。

 かわりに、倍音が近づいた。


(結局――残念な人に、引っ張られてる)


 小さく笑って、弦をミュートする。

 指先の余韻が、今夜は眠気の導入になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ