新宿事件 後半 残響と招待
方南町に戻る電車のなか、窓ガラスに映る自分は、来るときよりちょっとだけピントが合っている。
指先がむずむずする。
ギターケースのネック部に無意識で触れて、やめる。電車内でやる仕草じゃない。
アパート。鍵を回す。狭い部屋。狭いけど、今日の狭さはきつくない。
椅子に腰かけ、静かに深呼吸。
指が勝手にコードの形を探したくなるのを、しばらく放っておく。
やがて、我慢がもったいなくなる。
ギターを取り出す。
音量は出せないから、ピックは使わない。親指と人差し指の腹だけ。
――Cadd9。
人差し指で四弦二フレットをセーハ、中指で五弦三フレット、薬指で二弦三フレット。
そっと鳴らす。
硬くない。角が立たない。
でも、輪郭は消えない。
スチールパンのあの“丸いのに強い”輪郭の真似ごとが、ほんの少しだけ自分のギターにも起きる。
Cadd9→D→Bm7→Em。
コードが入れ替わるたび、部屋の空気の形が変わる。
換気扇の低い唸りと、冷蔵庫の周期的なモーター音が、伴奏に混ざる。
雑音も音楽に見えてくるのは、たぶん、今日のせいだ。
スマホが震えた。
画面には、知らない番号。出るか迷って、出る。
「七海君?」
聞き覚えのある、通る声。
「……瀬川さん?」
「うん。さっきはありがとう。拍手、嬉しかった」
「いえ……あの、どうやってこの番号を」
「情報網」
「怖」
「冗談。共通の友達経由だよ。でね――明日、学校来られる?」
「転入手続き、明後日ですけど」
「明日でいいよ。放課後、“総音研”見学。ガンクも鳴らしてみせる」
「ガンク……」
「今日のはスチールパン。学校にあるのはガンク。丸いけど別物。倍音は両方出る。素晴らしい」
「語尾の勢いがすごい」
「明日、来る?」
「……行きます」
気づけば、答えていた。
「じゃ、また明日。おやすみ」
「おやすみ――」
通話が切れる寸前、彼女の小さな笑い声がノイズに混ざって、消えた。
僕はスマホをテーブルに置き、もう一度だけCadd9を鳴らす。
――今日は、鳴らしても苦情は来ない気がした。
いや、実際はダメなんだけど。それでも、指が、鳴らせ、と言ってくる。
退部届。
制服のポケットに入れっぱなしのそれは、部屋のハンガーにかかったまま揺れている。
紙一枚で決着する“普通”が、今日はほんの少しだけ遠ざかった。
かわりに、倍音が近づいた。
(結局――残念な人に、引っ張られてる)
小さく笑って、弦をミュートする。
指先の余韻が、今夜は眠気の導入になる。




