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だから僕は普通に音楽がしたい。  作者: 景一
第一章 桜の木の下から
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桜の木の下

 ある晴れた昼下がり。

 四角く切り取られた空が、校舎の壁のあいだで少しだけ深く見える。中庭の中央に一本だけ立つ桜は、枝の先まで神経が通っているみたいに姿勢が良く、風が触れる方向に合わせて、葉の面だけを静かに反転させていた。裏側を見せる葉の銀色、表の緑。小さなコインが何千枚も、光の向きに合わせて一斉に裏返るみたいに。

 根元をぐるりと囲む白いベンチは、ところどころペンキが薄くなり、縁の角には黒ずんだ手の跡が幾重にも重なっている。舐めると塩気がしそうな木の匂いと、芝の青臭さ、遠くの理科室から漏れてくるアルコールランプの残り香が、ここを「学校の真ん中」にしていた。

 世界は昼休みと放課後のあいだ。砂時計のくびれに砂が集まる、あの半端な時間。声は遠のき、足音は薄く、空気は少しスローモーションだ。

 そのベンチに、彼女はいた。

 瀬川彩月せがわさつき

 少し茶色がかったセミロングは、陽を受けて淡い金色を拾い、風の角度に合わせて線を描く。表情は涼しく、目元は凛として、笑うと――比喩が全滅する。紙の上で捻った言い回しは、彼女の前だと急に水っぽくなる。実物の説得力に、言葉が負ける瞬間って、本当にある。

 ……ただし。

 その画面に、どうしても入ってしまうノイズがひとつあった。

 彩月の鞄が“いつも通り”丸く膨らんでいる。ファスナーは全力疾走のゴール手前で止まり、肩紐は片方だけ伸び切り、布地は明らかに重量負け。顔は優雅、物理は暴力。情報同士がケンカしていた。

「その鞄、また爆発寸前じゃん」

 僕――七海夏樹ななみなつきは、恒例のツッコミを入れずにはいられなかった。

 彩月はふっと目尻を緩める。

「ふふ、気づいた?」

「気づかない人いないって。歩く時限式」

「じゃあ、見せてあげる」

 彼女は、幕が上がる前の舞台監督みたいな手つきでファスナーを下ろした。間をためるのが上手い。僕の呼吸のテンポが勝手に揃ってしまう。

 ぺろり、と口を開いた鞄の中から現れたのは――丸く膨らんだ鉄の塊。炊飯器、ではない。

「ガンク。特注なの」

 彩月が胸を張って言う。

 丸い胴に、花びらの切り込みみたいなスリットが放射状に十数本。鍛えた鉄の肌は鈍い光を帯び、指先の油分を薄く吸い込む。彩月が縁を、とん、と弾いた。

 ぽうん。

 澄んだのに柔らかい、捉えどころがありそうでスルリと逃げる、そんな音。発音は小さくても、周りの空気が“その音のための空席”を作ってしまう。倍音がふくらはぎの辺りを撫で、枝葉の隙間を抜けて空に薄まっていく。

「……民族楽器?」僕は首をかしげる。

「歴史は浅いけど、倍音で遊ぶって意味では仲間。調律がズレたら工房送り。手がかかるのに、鳴った瞬間に全部許すタイプ」

 彩月は真顔で答えた。

「“手がかかる”を可愛いって言えるの、強いな」

「ふふ。可愛いは理屈じゃないの」

 彩月はおもての上を手のひらで撫で、今度は指の腹で浅く叩いた。

 ぱん、と鳴らす直前に抑え、音の立ち上がりを丸くする叩き方。さっきより少し高い、ガラス杯の縁が濡れたときの、あの柔らかいきしみが乗る。

「叩く場所と形で、色が変わるの。ここは“鈴”、ここは“鐘”、ここは“水”」

「概念入ってきた」僕はつい口にする。

「概念は音を裏切らない」

「今のは、ちょっと分かる気がするの悔しいな」

 そのとき、通りすがりの一年生が二人、立ち止まって目だけ寄越した。

「今の音、どこから?」「丸い鍋?」

 彩月が思わず反射で「鍋ではない」と言いかけたところで、僕は慌てて袖を引く。

「布教は後日」

「……うん。倍音、出し過ぎ注意」

 “倍音の出し過ぎ注意”。保健だよりに載らないタイプの健康情報だ。


「夏樹ー! 先に行くなんてずるい!」


 中庭の入口から、黒髪ショートボブが跳ねる。三ヶ尻弥生みかじりやよい

 背中のギグバッグを両手で抱え、走ってきて、つま先で止まって肩で息をしていた。額に細かい汗。目はきらきら。


「ごめん、彩月さんを待たせるのは悪いかなって」僕は言い訳する。

「私はいいってこと!?」

 彩月が即座に噛みついた。反射速度、世界記録。頬がぷくっと膨らむ。


「……で、そのギターも新入り?」僕は弥生のバッグを指差す。

「そう! アリアのドレッドノート、D-50!」


 弥生はケースを床に置き、金具をカチンと二つ外し、蓋をぱかり。内側の起毛は少し日焼けしているが、縁は毛羽立っていない。やたら丁寧に扱われてきた時間の跡だ。

 取り出された一本は、ヴィンテージ特有の小傷を“肌理の良い艶”に変換して見せる、あの光り方をしていた。トップはスプルース。年輪がきっちりまっすぐ通っていて、節の影も小さい。サイド&バックはローズ。濃いココアみたいな褐色に、黒い縞がじっとり潜む。


「今月、何本目?」僕は呆れながら尋ねる。

「四本目! まだまだ少ない!」

「多いよ! カレンダーに謝って」

「日にちもがんばる!」


 ……この人は、いわゆる“ジャパニーズヴィンテージ・アコギ厨”。材、年代、工法、塗装、経年変化――その全部に、信仰に近い情熱を注ぐタイプだ。


「見て、バックの三ピース。真ん中、ハカランダ」

 弥生が食い気味に言う。

「ほんとだ……。ブラジリアンローズウッド、通称ハカランダ。ワシントン条約で輸入できなくなって、今は基本ヴィンテージと古い在庫材だけ。楽器屋でも“たまに”見かけるけど、この状態は珍しい」僕は思わず解説してしまう。

「でしょ! ネックの反りはほぼゼロ、ブリッジのダレもない。トップのラッカーは薄め――吹き過ぎてないから、鳴き出しが前に出るタイプ。これがさ、“鈴鳴り”」


 弥生は開放Eを鳴らし、軽くG→D→Cと落とした。


 高域の鈴が空中にほどけ、桜の木漏れ日と混ざって、光の粒が耳の奥でちらつく。低域は背中で鳴り、椅子の板がないのに“背もたれが震えた錯覚”が来る。


「うわ……」僕は息をのむ。

「上の倍音を耳が追ってるあいだも、背中では低い芯が鳴り続けてる。ハカランダの“らしさ”、伝わるでしょ?」

 弥生のドヤ顔。

「説明がうまいのが、いっそう腹立つ」

「腹立てられる筋合いがない」

「それもそう」


 横で彩月の口元が危険域。

「ば、倍音……っ。じゅるり」

「出た。拭け」僕は即ツッコミ。

「拭く。拭くけど、もう一回だけ鳴らして」

「条件がおかしい」


 弥生は笑って、一瞬だけ親指の角度を変える。ストロークに微妙な角度差が混ざり、倍音の立ち上がりの“縁”だけが硬くなる。木の上に薄刃のナイフをすべらせるみたいな、緊張した光の線が一本、音の上に引かれる。


「今の、分かった?」弥生がニヤリとする。

「分かる……のが悔しい」僕は渋い顔で返す。

「やった」


 桜の葉がさらさら鳴って、影の形がベンチの背から僕の肩に移動した。

 たぶん今、ここにいる三人以外には、どうでもいい違い。

 でも、僕の耳には、はっきり“違う”が残った。


(……分かる。それが嬉しいの、ちょっと悔しい)


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