誓いの夜
2025年・俺30歳・東京
あの夜、雨は静かに降っていた。
街灯の光が滲んで、世界が少しだけ柔らかく見えた。
「碧くん、もし次の人生があるなら……あなたは、またこの世界を信じられる?」
茜の声は、雨音に溶けるように優しかった。
黒髪の前髪が濡れて額に張りついていて、でもその瞳はまっすぐだった。
「信じたい。俺たちが諦めたら、誰が変えるんだよ、この世界を」
そう言いながら、俺は自分の言葉に少しだけ酔っていた。
でも、茜は笑わなかった。
彼女は、いつも俺の言葉を真剣に受け止めてくれる。
「……じゃあ、もし本当に次の人生があるなら、どうする?」
「1930年に生まれたい。戦前の日本。あの時代なら、まだ間に合う」
「間に合うって……何を?」
「原爆を止める。戦争を止める。出版も、音楽も、思想も、全部やり直す」
茜は、目を見開いた。
俺は、彼女が笑うと思っていた。でも、彼女は笑わなかった。
「……本気なの?」
「本気だよ。俺は、あの空を変えたい」
沈黙が落ちた。
雨音だけが、俺たちの間を満たしていた。
その沈黙が、俺には心地よかった。
茜は、マルクスを信じていた。
でも、ソ連のような暴力的な革命には距離を置いていた。
彼女が語るのは、もっと静かで、文化的な革命だった。
グラムシの言葉を引用しながら、知識人の役割を語る彼女は、いつも少しだけ寂しそうだった。
「ねえ、碧くん。もし、次の人生があるなら、私たちで世界を変えよう」
「……ああ。誓うよ。次の人生で、俺たちがこの世界を変える」
その瞬間、交差点の信号が青に変わった。
俺たちは歩き出した。
そして、トラックが突っ込んできた。
光が弾けた。
音が消えた。
世界が反転した。
俺は、茜の手を掴もうとした。
でも、間に合わなかった。
彼女の瞳だけが、焼きついていた。
「碧くん……信じてるから……」
その声が、俺の中に残った。
焼けるような痛みとともに、意識が遠ざかっていった。
そして、闇の中で俺は誓った。
この世界を、必ず変える。
彼女とともに。