囚われの騎士と吸血プリンセス
重たい鉄の扉が、鈍い音を立てて閉じた。
地下牢の空気は湿っていて、石の床は冷たく、光の入り込む隙間もない。
だがカイは、もう寒さを感じていなかった。
三日と少し、水と硬いパンだけで繋がれている。
王国に忠誠を誓った騎士、カイ・アーデル。 その名が、この魔王城でどれほど意味をなすかなど、今さら考えるまでもない。
「……殺すなら、早くしてくれ」
誰にともなく呟く。
応える者はいない。看守も魔物も、今夜は何も騒がない。
――それだけが、逆に不気味だった。
カイは背を壁につけ、目を閉じようとした。
そのときーー
コツ、コツ、コツ
高く響くヒールの音が、静寂に音楽を奏でるように階段を下りてきた。
その音は、優雅で、まるで舞踏会でワルツを踊っているような……そんな場違いな足音。
やがて鉄格子の前に、影が立つ。
カイがゆっくりと目を開けた瞬間、目の前にいたのは――
「ごきげんよう、英雄騎士のカイ様♡」
少女だった。
深紅のドレスに黒いレースをまとい、肌は雪のように白く、その髪は闇に吸い込まれるような漆黒。
だがなにより印象的だったのは、その瞳。
――まるで血を湛えたような、美しくも恐ろしい目。
「私はこのお城のプリンセス、ミラ・ドラキュラ……あなたのこと、ずーーっと見てたの♡」
にっこりと微笑んだその顔は、慈愛に満ちているようで、どこか壊れていた。
「ずっと…見てた…だと?」
カイの眉がわずかに動いた。
体力の限界もあって立ち上がることはできないが、声には警戒が滲む。
「そう!…だってあなた、とっても勇敢で素敵なんだもん♡」
ミラはしゃがみこみ、鉄格子の向こうからカイを覗き込む。
彼女の手には、銀のトレイがあった。
載っているのは――あたたかいスープと、やわらかそうなパン。
「……毒でも入ってるのか?」
「えっ、入ってないけど?ふふ。
……ちょっと入ってた方が美味しいけど…人間って毒食べれるの?」
小首をかしげて微笑むミラ。
その仕草は愛らしいが、どこか“距離感”がおかしい。
カイは眉間に皺を寄せ、ミラの様子を観察する。
彼女の背後には、見張りの兵も魔物もいない。
まるでこの地下牢の“主”であるかのように、彼女はひとりで現れ、ひとりで動いている。
「なぜ、俺に食事を?」
「ん~、それはね……恋に落ちたから♡恥ずかしいっ!!」
牢の冷気よりも、彼女の言葉のほうがカイの背筋を凍らせた。
「こう見えても、これは私の初恋なの♡ 命知らずに戦うあなたを見て、“この人、絶対わたしの運命!”って思っちゃって……」
「…………」
「でね、あなたが捕虜になったとわかって……プロポーズしに来たの♡」
彼女は胸の前で手を合わせ、キラキラした目でカイを見つめた。
それは狂気の輝きだった。
「……悪いが、俺にはその気はない。」
「えっ、でも処刑されちゃうんでしょ?
だったら、私と結婚したらいいじゃない!!!一緒に吸血鬼になって永遠に愛し合いましょ♡」
まるでデザートを選ぶようなテンションで、ミラは軽く言う。
「冗談はよせっ……」
「ううん、本気よ♡でも、ちょっと……ショックだなあ」
ミラの声がほんの少しだけ沈む。
その瞬間――地下牢の石壁が、微かに軋んだ音を立てた。
「私はこんなに、あなたのことを好きなのに……っ……」
ぴたり。
室内の空気が、まるで別のものに変わる。
ゴゴゴゴゴゴーーッ
凄い音を立てて地下牢が揺れる。
まるで地下からマグマが噴き上がるかのような振動が走り、石の壁がうなりを上げ、天井から砂がぱらぱらと降ってきた。
「……っ、今のは……?」
カイが身を起こそうとした、そのとき――
「ふふっ、ごめんね。感情がちょっと爆発しちゃった♡」
ミラは悪びれる様子もなく、両手を口元に当てて、ニコリと笑った。
だがその足元――カイの視界に、小さな小瓶が転がっているのが映った。
「ふふっ気になる?
これはね、前に“飼っていた人間の女の子のお目目”が入ってるの♡
人間のお目目って、いろんな色があって素敵よね♡」
彼女はそう言って、小瓶を指でつついた。
カラ……ン…
乾いた音が、牢の中に響き渡る。
カイは言葉を失った。
戦場で、数えきれないほどの死を見てきたはずだ。
けれど――心の奥まで凍りつくのを、彼は生まれて初めて感じていた。
それでもミラは、ただ恋する少女のように、無邪気に微笑む。
「人間って、あっという間に死んじゃうの。
でもカイ様は大丈夫。……ちゃんと吸血鬼にして、永遠に一緒に暮らすんだから♡」
そう言いながら、彼女は鍵束を取り出し、鉄格子に軽く触れた。
――キィィィン。
一瞬、眩い光が走った。
牢を封じていた魔封の結界が、ミラの意志によって書き換えられていく。
つまり、彼女は地下牢の看守でも、囚人の見張りでもない。
――この魔王城そのものが、ミラの“庭”なのだ。
「じゃあね、また明日♡愛しの騎士様♪」
最後にそう言い残し、ミラは音もなく闇の中へと消えていった。
再び訪れた静寂は、先ほどまでの冷気よりも、ずっと重く――
そして、生々しかった。