ひとくち亭の食卓日記
朝露の降りた野道を、小さな村の子どもたちが駆けていく。
「ひとくち亭」と書かれた木の看板が、風に揺れていた。
その建物は、村のはずれにある古い風車小屋を改装したものだった。
屋根はところどころ苔むしているけれど、壁に這うつたが花を咲かせていて、春の朝にはぴったりの風景になる。
煙突からは細く白い煙が立ちのぼり、もうすでに火が入っていることがわかる。
戸を開けると、ほのかに焼き立てのパンと、出汁の香りが混じった匂いが鼻をくすぐった。
「リュウさーん、パン温めてー!」
ミナの声が、厨房の奥から聞こえる。
その声に応えるように、コンロの奥で「ぷすっ」と小さな火花が弾けた。
「うむ」
返事をしたのは、片手に乗るほどの大きさしかない、真紅のちび竜だった。
リュウさんは翼も脚も短く、ころんとした体に鋭い金色の瞳だけが印象的な生き物。
かつては「大陸を焦がした黒炎竜」と恐れられた存在だというが、今はミナの台所で火を灯す日々を送っている。
「今日のパン、ちょっとしっとりめにお願いね。ふわっと、でもくたびれてない感じで!」
「わかるような、わからんような注文じゃな…。まあよい、任せろ」
リュウさんが小さな口からぽふっと火を吐くと、鉄板の上でパンがじゅっと音を立てる。
いい焼き色がついたところで、ミナは満足げにうなずいた。
「よし、たまご、いっきまーす!」
大きなボウルには、ふわふわにかき混ぜられた卵液。
そこに刻んだハーブと、ちょっとだけ牛乳を足した特製のミックスを流し込む。
ジュワァァ…
音が鳴った瞬間、店の中がふんわりとした香りで満たされた。
「おー…これは、昼寝したくなる匂いだな」
「昼寝はあと!まずは朝ごはん!」
ミナはトングでたまごを器用に折り畳みながら、焼きたてのパンにバターを塗る。
この朝の一皿は、村の少女・ティリーちゃんの“旅立ちの朝食”だ。
今日、ティリーは初めて村を出て、隣町の学校に行く。
そのために、ひとくち亭に「大切な朝ごはんを」とお願いしにきたのだった。
ティリーが店に来たのは昨日の午後だった。
「ミナおねえちゃん、あのね…明日、朝早くに出発するの」
小さなリュックを背負った少女は、ちょっと泣きそうな顔をしていた。
「そっかあ。寮生活だもんね。ドキドキしてる?」
「うん…でも、さみしいほうがちょっと大きいかも」
「うんうん、わかるよ。それで? 明日の朝は、どんなごはんが食べたい?」
ティリーは少し考えてから、ぽつりと答えた。
「卵サンドがいいな。お母さんがつくってくれたやつに、ちょっと似てて、でもミナおねえちゃんの味がするやつ」
「…それ、いちばん得意かも」
ミナはにっこりと笑って、厨房の奥に消えていった。
そして今朝、日の出とほぼ同時に、ティリーが店の戸をそっと開けた。
「いらっしゃいませ。朝食、できてますよ〜」
ミナが明るく手を振ると、ティリーは少し照れたように頷いた。
テーブルには、湯気の立つカップと、木の皿に置かれた卵サンド。
ふわふわのたまごと、ちょっぴりカリッと焼かれたパンのコントラストが絶妙だ。
添えられたのは、庭のハーブを浮かべたスープと、ほんのり甘いにんじんのマリネ。
ティリーがひとくち、口に運ぶと…もぐもぐ…ごくん。
「…あ、うん。これだ」
小さな声だったが、その顔はふっとやわらかくほころんだ。
「うちのお母さんのと、ちょっと違う。けど、すごくほっとする…」
「うん。ちょっとだけバターを焦がして、香ばしさ足してるの。それが“ミナ風”。あとね、パンも村の粉で焼きたてだよ」
「うんうん…! ちゃんと覚えとく!」
リュウさんが、じっとその様子を見ていた。
「お前の舌も、なかなか育ってきたな」
「ふふふ…リュウさんにそう言われると、ちょっと緊張する」
食事を終えたティリーは、店を出る前にもう一度振り返った。
「ミナおねえちゃん、リュウさん。…いってきます!」
「うん、いってらっしゃい!」
「火のない台所には戻るなよ」
「え? う、うん!」
リュウさんのひとことは、いつも少し謎めいている。
けれどそれは、どこかあたたかく響いた。
戸が閉まり、ティリーの足音が遠ざかっていく。
ミナは小さく伸びをして、湯気の立つマグを両手で包んだ。
「さて、今日はあと何人、来るかな」
「まだパンはあるぞ。たぶんな」
二人の静かな一日が、またはじまる。
その日、村の空にはめずらしく、魔力を帯びた雲がゆっくり流れていた。
春の気配が残る風が吹くたびに、雲の端がきらきらと光を帯びる。
ミナは軒下のベンチに座って、皮むき中のレモンと格闘していた。
片方の手にはナイフ、もう片方にはレモンが二つ。
どちらも皮がごつごつしていて、なかなか素直にはむかせてくれない。
「う〜ん、今日のレモン、ちょっと気が立ってる感じ…?」
「昨日の満月で育った果実は、魔力を吸って過敏になりがちじゃ」
厨房の奥から聞こえるその声に、ミナは思わず苦笑した。
リュウさんはいつも“魔力のバランスが〜”などと妙な理屈をつけるけれど、
要するに「レモンの皮がむきにくい日もある」ということらしい。
ようやく一つ、つるりと剥き終わったところで、風鈴の音が鳴った。
店の扉の上にぶら下げている小さなベル。誰かが戸を開けた合図だ。
「こんにちは、開いてるかい?」
聞きなれない声。だけど、どこかやさしい響きがあった。
ミナが顔を上げると、そこには灰色のローブを着た年配の女性が立っていた。
髪は白く、目元に笑い皺が浮かぶ。けれど背筋はすっと伸びていて、
片手には、光る木の杖を携えていた。
「あ、はい!どうぞどうぞ。おひとりですか?」
「ええ。道を間違えてね、ここが村の食堂と聞いて。ちょっと一休み、していっても?」
「もちろんです!」
ミナはすぐに席へと案内し、水を出す。
女性はそれを受け取ると、ふう、とひと息ついてから呟いた。
「もう何年も、人の作ったものを食べていなかったのよ。こういうの、懐かしいわね」
その言葉に、ミナは不思議そうに首をかしげた。
「旅のお仕事、ですか?」
「うん。魔法使いよ。…といっても、今は引退したけれど」
「わあ、魔法使いさん!」
ミナの目が輝くと、リュウさんがひとつ鼻を鳴らした。
「魔法に頼る者に碌なやつはおらん」
「こら、リュウさん!お客さんだよ!」
女性はくすりと笑って、それに返すようにこう言った。
「いいのよ。昔はあたしも、少しばかり火を操る魔法なんか使ってたけれど…
今はね、杖を振るより、紅茶の湯を沸かすほうがずっと落ち着くわ」
ミナはその言葉を聞いて、少し考えた。
「よかったら、おやつにレモンパイをお出ししましょうか? ちょうど、作るつもりだったんです」
女性の目がふっと細くなった。
「…レモンパイ、ねぇ。昔、大切なひとと一緒に食べたのを思い出すわ。
でも、そのひととはもう、二度と会えない」
ミナは少しだけ驚いて、けれどすぐに笑顔に戻った。
「だったら、今日だけ、思い出す味にしてみますね」
厨房に戻ると、リュウさんが小さくうなずいた。
「レモンは、お前の得意技だったな」
「うん。おばあちゃん直伝の味。ちょっとだけ甘くて、ちょっとだけ酸っぱくて…
食べ終わったあと、もうひとくち欲しくなるやつ!」
タルト台には、昨晩焼いて寝かせておいたクッキー生地。
そこに、鍋でとろりと煮詰めたレモンクリームを流し込んでいく。
甘く、香ばしく、ほのかにほろ苦い匂いが、店中に広がっていった。
リュウさんがそっとつぶやいた。
「記憶の味は、厄介じゃぞ。人によっては、涙になる」
「でも、たまにはそれでもいいと思う。泣けるなら、少し軽くなるかもしれないから」
パイが焼き上がり、ミナはそれを温かいまま出した。
ひとくち食べた女性は、長く目を閉じた。
「…変わらないのね、あの味。
あのひとはもういないけど、この味は、ちゃんと残ってた」
少しだけ、頬に涙が伝った。けれどその顔は、どこかやわらかくなっていた。
「ありがとう。ほんとうに、ありがとう。…魔法より、ずっと効いたわ」
ミナは照れたように笑って、言った。
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます。またいつでも、レモンの季節にどうぞ!」
女性はにっこりと笑って、杖を持って立ち上がった。
扉が閉まる前、彼女はこう言った。
「“ひとくち亭”か…いい名前ね。ほんとうに、“たったひとくち”で、心が変わるもの」
その夜。
リュウさんは、残ったパイを一口かじりながら、呟いた。
「…確かに、これは泣く味じゃな」
ミナは笑いながら、お皿を洗っていた。
「明日は何ができるかな〜」
「今日の風は、ちょっとしょっぱいね」
朝の市場帰り、かごを抱えたミナがそう言って空を見上げた。
丘の向こうには、ちらちらと銀の光を反射する湖が広がっていて、そこから吹く風が春の匂いと塩の気配を運んできていた。
ひとくち亭の厨房では、リュウさんがすでに火を起こし終えていた。
「今日はパンか?」
「ううん、今日は“パンじゃない”ものを作るの。パン屋さんのために」
「…なんじゃその禅問答は」
リュウさんが火吹き口から顔を出すと、ミナはくすくす笑いながら、かごの中の野菜を取り出し始めた。
ぷっくりとしたトマト、つややかなズッキーニ、そしてふんわりしたフロマージュ。
それらを見て、リュウさんの金の瞳が少しだけ細くなった。
「…まさか、パンなしのサンドを?」
「そう!“パンを焼かないパン屋さん”のために!」
そのパン屋の名前は「こむぎの扉」。
村の外れ、風の通る通りにある小さな店で、そこの店主・ロジェは昔から“パンを焼かない”ことで知られていた。
いや、正確には「パンを焼けない」のだった。
「パン屋なのにパンを焼けないなんて、変なの!」
と、子どもたちは言う。
でもミナは違った。初めてロジェの店に入ったときから、彼の作る具材やペースト、香草バターの完成度に驚かされていた。
「パンは苦手でも、サンドの中身が主役になることもあるんだって、あの人に教えてもらったの」
今日は、そのロジェの誕生日。
ミナは毎年、彼のために“パン以外”で作るごはんを用意している。
「今日はね、ズッキーニでパンのかわりを作るよ」
リュウさんは目をぱちぱちさせた。
「野菜を…パンに?」
「うん、薄くスライスして、グリルで両面焼いて、ほんのりチーズで挟むの。
トマトとバジルを混ぜたペーストと、カリカリベーコン、仕上げにレモン風味のオイルでちょっと香り付け」
「それはもう…サンドというより魔術では…」
「ふふふ、魔法使いのおばあさんにも褒められたしね〜」
グリルから香ばしい匂いが立ちのぼる。
焼き色のついたズッキーニを、バターを塗った木の台に並べ、具材をそっと挟んでいく。
焼き立てのチーズがとろりとほどけて、まるで小さな絵本のようなサンドが並んでいった。
リュウさんは、鼻をくんくんさせながら一言。
「…食べる前からうまいとわかる匂いじゃ」
昼すぎ、「こむぎの扉」には静かな客がひとり現れた。
「ミナちゃん…これ、わざわざ…」
現れたロジェは、帽子の下からやさしい顔をのぞかせ、少し照れたように笑った。
その手には、バターとハーブを瓶詰めしたものが抱えられていた。
「お返し用に、作ったんだ…。今年は、タイム多めにしたから」
ミナは微笑んで、彼にズッキーニサンドの皿を差し出す。
「お誕生日おめでとう、ロジェさん。“焼かない”サンド、召し上がれ!」
ロジェは、ひとくち口に運び、目を丸くした。
「…これ、本当にパン使ってないの?」
「うん。でも、“パン屋さんの中身”は、しっかり入ってるでしょ?」
しばらくして、ロジェはぽつりと言った。
「ミナちゃんの作るものは、いつも静かに自信があるよね。ぼくができないことも、ちゃんと形にしてくれる」
ミナは少しだけ頬を赤くして、肩をすくめた。
「パンは焼けなくても、ロジェさんが教えてくれる味が、私の中にもあるんです」
「それを聞けただけで、今日の誕生日、もう大満足だよ」
夕方、ひとくち亭に戻ったミナが荷物をほどくと、瓶に貼られたメモが目に入った。
「来年も、焼かないサンドでよろしく」
「うん、もちろん!」
ミナはそう呟きながら、瓶のふたを開けた。
タイムの香りが、春風に乗って部屋を満たした。
春が深まり、村にはやわらかな緑が満ちていた。
ひとくち亭の前庭にも、小さな花が咲き始めて、空気がふんわり甘くなる。
「…さて、今日は特別な日です」
朝、ミナはそう言って、厨房の奥に飾っていた小さな写真立てをそっと拭いた。
そこには、少しふっくらした女性と、小さなミナが並んで笑って写っていた。
「ねえリュウさん。今日って、覚えてる?」
「…お前の、おばあちゃんの命日じゃろ?」
「うん。あの人が最後に作ってくれた料理、私、ちゃんと覚えてるんだ」
リュウさんは、いつになく真面目な顔をして、火の準備に戻った。
「じゃあ今日は、そのレシピを再現する日か」
「うん。あの時、おばあちゃんが作ってくれた“あったかいごった煮”。あれをもう一度、ちゃんと作りたいの」
おばあちゃんのごった煮――正式な名前はない。
だけど、白菜と根菜、豆と乾物、少しの出汁と魔法のような隠し味を使って、
心と体をまるごと包んでくれる、そんな一皿だった。
「ほんとにね、見た目は地味なんだけど、あれを食べた日は絶対に風邪ひかなかったの」
ミナは鍋に野菜を刻み、順番に入れていく。
火のまわりには、ゆらゆらと魔法のような湯気が立ちのぼる。
「リュウさん、お味見してみる?」
差し出された木のスプーンをひとくち啜って、リュウさんは黙ったまましばらく考え込む。
「…これは、なんというか…懐かしい味じゃな」
「うん。レシピはもう残ってないから、私の記憶だけが頼りなんだけど」
「記憶だけでこれが作れるなら、たいしたもんじゃ」
ミナは照れたように笑って、鍋の火を少し弱めた。
「今日はね、予約のお客さんが一人だけ。
この料理を、食べてほしい人がいるんだ」
その夕方。ひとくち亭に、足音も静かに現れたのは、
長い黒髪をまとめた青年だった。旅の服装。剣の気配。けれど、どこか穏やかな目をしている。
「“一皿の予約”、受け付けてますか?」
ミナはにっこりと笑って、うなずいた。
「はい。お待ちしておりました。…ようこそ、“ひとくち亭”へ」
彼が席に着くと、ミナは鍋のごった煮を、木の深皿にすくって差し出した。
湯気の奥から、やさしい出汁の香りと、根菜の甘み、
味噌とも違う、何か懐かしい香りが立ちのぼる。
青年は、それをひとくち。
…しばらく、目を閉じたまま、黙っていた。
そしてふと、つぶやく。
「…この味、知ってる。昔、旅の途中で、病気のときに出された…
あれは、たしか…“あの人”がくれた味だった」
ミナは、少し驚いた顔をした。
「もしかして…おばあちゃんに、会ったことが?」
青年はうなずき、懐から古びた布を取り出した。
それは、見覚えのあるチェックのハンカチ――
「“誰かを癒す力を持ってる味だから、大事にしなさい”って、言ってた。
…あの人の言葉、今、わかった気がします」
ミナは両手で口元をおさえて、笑顔になった。
「ありがとう。おばあちゃんが、きっと喜びます」
食後、青年が帰ったあと。
店には、静かな夜が訪れていた。
リュウさんが、残った鍋を見て呟く。
「一皿だけの祝宴か。静かだけど、ちゃんと届いたようじゃな」
ミナは小さくうなずいて、最後に残ったごった煮を、
自分のために、少しだけ器によそう。
「おばあちゃん、ちゃんと伝わったよね。…今日の“ひとくち”、ありがとう」
窓の外では、小さな星が瞬き始めていた。
おしまい