3-05 その竜は、人間を知りたいと思った
何千年もその地に住まう竜。
魔王の配下と勘違いしてやってきた勇者をあっさりと撃退したのは良いが、知らぬ間に進歩していた人間たちの社会には何やら楽しいものや美味しいものがあるらしいと知った。
知ったからには見て、味わわなくてはならぬ。
うっかり致命傷を与えてしまった勇者との契約でその身体を借り、竜は人間社会を愉しむ旅へと飛び出した。
偽物勇者として、ついでに魔王も倒す。物見遊山な魔王退治の旅が始まる。
巨躯、と一言で語るには大きすぎる身体は赤銅色の燃え滾るような熱い鱗に覆われており、熱い呼吸の度に熱気が放たれる。
そんな竜の前に居るのは、瀕死の青年と、若き乙女。
激しい戦闘で岩が砕け、草木が抉れている中で、竜はちっぽけな二人を見下ろしていた。
「……知らんな。おれはここ千年ずっと山で眠っていたのだ。時折、気色の悪い欲望に塗れた人間がやってくるのを相手してやる以外は、な」
「はは……ということは、僕たちは勘違いで攻撃してしまったわけか」
竜の言葉に、青年は口の端から血を零しながら力なく笑って返した。
「申し訳ない。魔王の蠢動に呼応する魔物たちのせいで、世界は滅亡の危機に瀕している」
苦し気に喘ぐ青年の言葉を、竜は首をかしげながら聞いていた。
「ふむ。続きを聞いてやろう」
「ありがたい……」
竜は目の前の青年に興味がわいてきた。
今まで竜の前に立った人間たちは、財宝や名声に目の色を変えた禽獣の如き奴ばらであり、その口から放たれる言葉は聞くに堪えないものでしかなかった。
だが今、竜の前で死にかけている人間は、恨み節ではなく謝罪を口にした。
「僕は、勇者として、旅をしてきた。そんな中で、この山に棲む竜の話を聞いた……」
「私たちはあなたが魔王か、その配下ではないかと……」
息も絶え絶えの青年の言葉に、少女が続けた。
竜は理解した。どうやら魔王名乗る者と、それに連なる魔物たちが人間を襲うようになり、人間側も戦う者たちを組織して抵抗しているのだろう。
どちらの事情も竜のあずかり知らぬところではあるが、竜は人の世の変化に驚いた。
「人間とは、数十人か数百人の村を作り、水辺や肥沃な土地をめぐって小競り合いをしている連中ばかりの印象であったが。見れば装備も多少はマシになっているようだ」
「結構高価な、鎧なんだけれどね」
笑みを浮かべた青年は竜の一撃で砕けた鎧に視線を向け、様々な素材を使った装備や魔法の開発が進み、人間の社会は粗野な連中ばかりではないことを語った。
人々は支え合って国を作り、街を営み、家族を守っている、と。
「料理も進歩したんだ。今は旨いものが、町に沢山ある」
青年の声がだんだんとか細くなっていく。目から光が失われ、いよいよ死が迫る。
対して、竜は目に輝きを浮かべている。竜は、実に二千年ぶりくらいに人間の生活の話を聞いたのだ。食生活についても。
「あのシチューをもう一度食べたかったな。フォレストボアと、キノコの……」
「その“しちゅう”とやらは人間の町で食えるのか?」
竜は唸った。
知ってしまった以上、気になって仕方がない。
だが、自分が巨体で飛来したなら人間たちは逃げ散ってしまうだろう。以前もそうだったし、今度は攻撃されてしまうかも知れない。
それではシチューが食えない。
「よし。では“しちゅう”を食いに行くのに、お前の姿を貸せ。ついでに魔王とやらもおれが倒してくる。魔王を探すなら、人間の世の中にいる方が都合も良かろう」
「ふ、それは、ありがたいね。でもそれじゃ、釣り合わない」
苦笑いを浮かべる青年に、竜は首を傾げた。
魔王の件は迷惑を被った落とし前を付けるだけなのだから、竜の中では単なる要求でしかない。釣り合わないと言われると、ちょっと困る。
そこでふと、竜は思い至った。
人間は寿命が短いと聞いたことがある。何分の一かでも姿を貸すのは、彼の人生にとっては大きなことなのだろう、と。
「ではお前の願いを何か一つ叶えてやるというのは、どうだ?」
「見た目だけでなく、器も大きいんだね」
では、と青年は傍らにいる少女へと目を向けた。
「ねえセシル。竜にあのシチューをご馳走してくれないかな」
頷くセシルに、青年は安心したように笑った。
竜へと視線を戻すと、最後の力を振り絞る。
「竜よ。僕は君にこの姿を捧げよう。だからセシルを、僕の想い人を守ってくれないか。そしていつか、君も認める誰かと彼女が恋仲になったなら、祝福を」
「そんなことで良いのか。相わかった。我が存在において、約束は必ず果たしてみせる。……では、お前の姿を、人生を借りよう」
竜の首が青年へと迫り、その長い舌が血まみれの身体をひょいと拾い上げた。
「人間を、愉しんでくれ」
そう言い残した青年をぐるりと丸呑みしたかと思うと、竜の巨体は瞬時にその形と大きさを変えて、先ほどの青年とそっくりの姿へと変化した。
破れていた服も再現し、鎧も形だけは真似てみたが、その実竜自身の外皮が変化したものである。
「ふむ……。さて、セシルとやら」
「……竜、さま」
「そう畏まる必要もない。この者を呼んでいたように……しまった。彼の名を聞きそびれてしまったな」
「リュート、です。彼の名はリュート。大イフラルタ王国が選んだ勇者。若干十六歳で剣と魔法の才を見出され……」
言葉が続かず泣き崩れてしまったセシルに、竜は腕を組んで頷いていた。
人間の感情はよくわからないが、男女の愛情はわかる。同族がいない竜には縁が無いが、それでも知性ある生命として辛うじて理解はできる。
「セシル。おれはリュートとしてしばらく生きねばならん。まずは町へ行き、しちゅうを食べようではないか。その後は……まあ、魔王を倒しに行くとしよう」
では早速、とリュートとなった竜はセシルの身体を両手に抱えたかと思うと、何十メートルも上空へと飛びあがった。
まるで見えない翼をはばたかせているような動きで、余人が見ればふわふわと人間が覚束ない動きで浮かんでいるように見えただろう。
「ひぃ……」
「町の方向を教えてくれ。お前たちの魔力は小さすぎて集落が感知できぬのだ」
「近い場所なら、あ、あっちに……」
空を飛びながら、リュートは笑っていた。
硬い竜鱗を通さぬ風の冷たさに。
人間の身体の矮小なることと、空の広さに。
「借り物ではあるが、良い心持ちだ」
「竜様……」
「リュートと呼べ」
セシルの声には、怯えと若干の嫌悪が混じっているとリュートは感じていたが、放っておくことにした。
「元の、リュートの魂は、まだここにあるのですか?」
「何を聞くかと思ったら。当たり前ではないか」
「そうですか……」
「案ずるな。人の世を愉しんで、魔王を倒したら返してやるとも。さ、そろそろ到着だ。しちゅうはどこで食えるのだ?」
セシルは来たことがある町だとすぐに気付いたようで、涙を拭いながら宿兼食堂の建物を指した。
「フォレストボアのシチューではないかも」
「おお、しちゅうには種類があるのか。良い良い。ではまずそこへ向かうとしよう」
「ちょ、ちょっと待ってください。門を通らずに町に入るのは違法……!」
止める間もなく街のど真ん中に着地したリュートは周囲の視線や騒ぎを意に介することなく、膝の力が抜けてうまく歩けないセシルを置いて件の建物へと勢いよく入ると「シチューを食わせてほしい」と宣言した。
突然のことで目を丸くした店員が動き出すと、リュートは満足気に腕を組んで仁王立ちのままシチューを待つ。
「おい、兄ちゃん」
「にいちゃん? おれのことか?」
「お前が急に入ってきたせいでよ、俺の酒がこぼれちまった。こりゃあちょっと弁償してもらわないとなぁ」
急に背後からリュートの肩を掴んだ中年男。
その服に染み付いた安酒の臭いに、リュートは顔をしかめた。
深い深い嘆息が漏れる。
「邪魔をするな、小童。おれは今からしちゅうを食べるのだ」
「ああ? てめぇ舐めてんのか!」
「鬱陶しい」
ひょい、とリュートが右手を軽く振るうと、それだけで中年男は声も出せずに床を転がって壁に叩きつけられ、気を失った。
居合わせた客たちは呆然としていたが、中年男の仲間だろう連中は、にやにや笑いが怒りの形相へと変わり、それぞれに武器を掴んで立ち上がった。
あわや乱闘かと、青年が血祭にあげられるのではと緊迫した瞬間だった。
不可視の尾が振るわれ、リュートの背後に迫っていた男たちはまとめて薙ぎ払われ、そのまま横一文字に破壊された店の壁を抜けて表通りへと吹き飛んでいった。
誰もが目を疑う光景であり、軋み音を響かせる店内は別の危機に面しているのが明らかだったが、リュートから目を逸らす勇気がある者はいない。
最早半泣きの店員が、震える手足で恭しく木の器を差し出すと、受け取ったリュートの様子にその場の全員が息をのむ。
「おお、これがしちゅうか! ……む、む……旨い! こりゃあ旨い! いや、この棒はいまいちだな」
手づかみで柔らかな肉を掴んで口へ放り込み、器から直接ずるずると飲み込む姿は野生児そのもの。
差し入れていた木のさじまでバキバキと食べ始めたとき。店員は完全に腰を抜かしていた。
「いい加減にしなさい!」
「おぶっ!?」
機嫌よく食べていたリュートの脳天にげんこつを落としたのはセシルだった。
先ほどまでの、委縮して悲しみに暮れる姿は消えうせ、怒りの表情で顔を真っ赤にしてリュートの襟首を掴んでいる。
「リュートの身体で滅茶苦茶しないで!」
「滅茶苦茶などしては……人間の家は脆いな」
目抜き通りが良く見える構造になった建物の状況にようやく気付いたリュートは、顔に汗をびっしょりとかき始めた。
「えー、っと……しちゅう、旨かったぞ。あと、家、な。なんか、すまんな……」
ようやく駆け付けた町の兵たちに連行され、リュートの人間界初めての宿は留置場となった。
翌朝、そこで出た飯に喜んでいる彼を見て、セシルはこの後の旅に不安とそれ以上の怒りを覚えたのは言うまでもない。