3-21 DOSUKOI! ~安政四年の黒船力士~
「この国最強のスモウレスラーを倒し、合衆国海軍の最強を示す!」
黒船来航から数年後の事である。日本とアメリカの間に通商条約を締結せんと交渉中であるハリスの元に海軍大尉ジョージ・マックイーンが訪れた。
ジョージの目的使命は、ペリーの無念を晴らさんと相撲取りを倒す事であり、そのために合衆国海軍最強のレスラーが送り込まれてきたのだ。
純粋なる力比べを望む者、日本とアメリカの交渉を有利に進める材料にしようとする者、日本を植民地にしようとする者、異国人を排除して攘夷をなさんとする者の想いが交錯し、その思いの全てが土俵で衝突する。
安政四年七月の事である。伊豆は下田の玉泉寺に、珍しい男が訪れた。
その男、背丈は六尺(約180cm)を優に超え、寺までに道ですれ違った人々はこの大男を見上げる様にしていた。
単に背が高いだけでなく、服の下には筋肉がみっしりと付いており、その歩き方には隙が無い。戦う事を生業としている事を暗に示している。
もっとも、大男の侍などそれ程珍しいものではない。男の珍しさは他にある。
この男、つい四年程前まで鎖国をしていた日本にあって珍しい、金髪碧眼の異人であった。米利堅合衆国との間に日米和親条約が結ばれた今にあっても、未だ異人は珍しい存在なのだ。
そして、見る者が見れば、この男が着ている服はかつて開港を迫ったペリー提督と同じ型式である事に気付いただろう。
日本では珍しい異人が訪れた玉泉寺の一室には、同じく珍しい異人が二人待っていた。片方は体調が悪いらしくベッドに横たわったままの老人で、もう片方はまだ青年でベッドの横に控えていた。
「こんな格好ですまないが、座って応対出来る程には体調が思わしくなくてね。最近は多少回復していたのだが、昨晩ぶり返してしまったのだよ」
「お気遣いなく。突然の訪問を許していただけただけでも光栄です。ハリス領事」
ハリスと呼ばれた老人に、男は背筋を伸ばしたままはきはきと答える。
「えーと、ジョージ大尉は一週間前に入港した合衆国海軍のポーツマス号の乗員ですよね? 先日艦長が挨拶に来てくれて、あなたもその一行にいたと記憶しています。ですが、何故こうして個別に訪問を? あ、申し遅れました。私はヘンリー・ヒュースケンといい、領事の通訳を務めています」
ジョージに対してヒュースケンが訝しげに尋ねた。日米和親条約により開国した日本であるが、外国人が自由に出歩き出来る状況にはない。だというのに、一介の士官であるジョージが個人的にハリスを訪ねて来るのは、一体どうしたことであろうか。
「ジョージ大尉、君はこの国に来たばかりでまだ知らないだろうが、我々と日本国政府――幕府との交渉は行き詰っているのだ。私は直接江戸に赴き、将軍に大統領の親書を渡したいだけなのだが、それすら頑迷固陋なこの国の役人は拒否しているのだ。余程外国人に国土を歩き回られたくないらしい」
ハリスは疲れた顔でジョージに言った。要は、勝手なことをされると自分の交渉に悪影響を及ぼすかもしれないから遠慮しろと言う事だ。婉曲的な物言いになっているのは、この国の役人と交渉を続けて影響を受けてしまったのかもしれない。
「そうですよ。それに、最近は攘夷だとかなんだとか言って、外国人を切ってしまおうって連中がいるから、気をつけた方がいいですよ。あ、ジョージをジョーイなんちゃって。HAHAHA」
ヒュースケンがアメリカンジョークですらないくだらない冗談を言って笑ったが、ジョージもハリスも表情は全く崩さなかった。ハリスは謹厳実直な人柄であり、ジョージは生真面目な青年海軍士官である。冗談を言って笑い合う様な性格ではない。
「お構いなく。危険を跳ね除けるだけの術は心得ています。そして、私が日本に来たのにはペリー提督からの使命があるのです。艦長もこの事は知っています」
「なんと、マシュー・ペリーからの使命であると? 一体それはどんな?」
日本に対して通商条約の交渉をしているハリスにとって、三百年に渡る鎖国政策を転換させたペリーは偉大なる先達である。日本に来る前にペリーの経験をまとめた『日本遠征記』は読み込んだし、頭の固い幕府の役人を相手にしていると同じ経験をしたであろうペリーには親近感が湧いてくる。そのペリーからの使命であるというのなら、合衆国領事として力を貸すのもやぶさかでない。
それにしても、ペリーの使命とは如何なるものであろう。何にせよ。合衆国と日本の未来、いや、場合によっては極東全体の行方を左右する重大なものである事は予想に難くない。
「ペリー提督の使命、それは……」
「それは?」
ジョージは一呼吸置き、気力を充実させるために目を閉じた。
「この国最強のスモウレスラーを倒し、合衆国海軍の最強を示す事です!」
ジョージはかっと目を見開き、ハリスとヒュースケンは白目を剥いた。
嘉永七年、東インド艦隊長官マシュー・ペリーは前年度に迫った開国要求の返答を貰いに艦隊を率いて浦賀に来航した。一度目の黒船来航と同様多少の混乱は起きたものの、最早鎖国を続けるのは困難であるというのは幕府も認識しており、開国の方針は概ね定まっていた。そのため交渉自体は険悪になる事はなく、互いに食事会を開催したりと和やかな場面も多かった。ペリーから鉄道模型が送られ、幕府役人がこれに興味津々だったのもこの際のエピソードの一つだ。
そして日本による催し物で、とある事件が起きたのであった。
その日、日本から横浜に停泊するペリー艦隊へ食料の補給が行われ、大量の米俵が運び込まれた。それを行ったのは単なる人夫ではなく、数十人に及ぶ相撲取りである。
アメリカ人に比べて日本人は一般的に小柄である。この事が、アメリカ側の優越感や、逆に日本がどことなく気圧されてしまう事の要因になっていた。ハリスの様な教養人はその様なくだらない事は気にしないのだが、生憎ペリーが率いて来た艦隊の大半が腕自慢の荒くれ者の水兵である。
その様な状況を変えようというのが、相撲取り大作戦である。どこの阿呆が考えたのかは不明であるが、確かに効果はあった。ある力士は米俵を八俵も担ぎ、ある者は脇に抱えたまま宙返りをして、恐るべき怪物達の出現に米国人水兵の度肝を抜いた。
そして米俵の搬入の後には実際に相撲が執り行われ、ペリーをはじめとする海軍はこれを見物する事になった。
メリケン人に日本の底力を見せつけてやろうと相撲取り達は本気で戦った。八百長などなく血飛沫が飛び、血の気の多い水夫の中には飛び入りで土俵に入る者もいた。だが、本職の相撲取りに相撲で敵うわけがない。あっという間に敗れ去ってしまう。中にはボクシングの強者もいて殴りかかったのだが、それも体重差のためかパンチは全く効果無く、張り手の一発で吹き飛ばされる事になる。
その様な結果に意気消沈する米海軍の中、立ち上がった男が一人いた。
誰であろう、東インド艦隊長官マシュー・ペリーその人である。
ペリーは初老ではあるが、190cmを優に超える大男である。しかも若い時から剛腕で知られ、荒くれ者揃いの水兵達もこの灰色熊の様な提督を恐れていた。
ペリーが相撲をとる意思を示した時、幕府の要人達はしめたと思った。ペリーを相撲で打ち負かしてしまえば、今後の交渉が有利になると考えたのである。
ここで「何言ってんだ?」と思った読者の諸姉諸兄、あなたは正常である。むしろ接待相撲でもやった方がましである。
だが、幕府の役人達は疲れており正常な判断が出来なかった。
とある力士を相手にペリーはレスリング流の戦い方で挑み、優勢に試合を進めた。体格では相撲取りに負けておらず、相撲取りの戦い方を観察していたペリーに比べて相撲取りはレスリングの技法を何も知らない。これが優劣に繋がったのである。
ペリーは相手を土俵際いっぱいまで追い詰めた。
その時、事件が起きた。
頭を相手のみぞおちに押し付ける様にして有利な態勢を作っていたペリーだったが、あまりに力強く押し付けたせいでとある物が外れてしまった。
ペリーのカツラである。
ペリーがカツラをしている事は、艦隊の水兵の中にも目撃した者がおり何となく知れ渡っていた。もちろんそれを口にしないだけの情けが彼らにもあった。
日本側も何となく頭部が不自然な事は察していたが、見ざる聞かざる言わざるは日本の美徳である。もちろん何も指摘しなかった。
相手を土俵の外に押し出す直前、ペリーは自分の頭部に大量の視線を感じた。そして足元に大事な物が落ちているのに気付く。
ペリーは黙ったままカツラを拾った。
「あの……手が地面に着いたので、あなたの負けですが……」
行司が恐る恐るペリーに勝敗について言う。もちろんペリーに日本語は通じないし、そもそも何も聞こえていなかった。
こうして「笑ってはいけない日米和親条約in横浜場所」は幕を閉じた。
その後、日米和親条約がつつがなく結ばれた事は皆が知る通りである。しかし、その陰に何があったのか、語る者は誰もいない。
「なるほど、ペリーの記録には相撲の事が書かれていたが、随分と酷評されていた。まさかその様な事情があったとは」
「そうなのです。だから、ペリー提督の無念を晴らすべく、海軍は自分を派遣したのです。海軍兵学校レスリング教官にして海軍最強のレスラーである自分を」
「ハリスさん。これは使えませんか? 連中が強みであると思っている相撲取りを打ち負かせば気持ちが萎えて、これまで断られた将軍との会談も承諾するのでは?」
「うむ。私も今そう思っていたところだ」
ジョージの語るペリーの(馬鹿馬鹿しい)悲劇を聞いたハリスとヒュースケンは、何やら真面目に考え込んでしまった。日本との交渉疲れで、頭が混沌としていたのかもしれない。
「よし分かった。すぐに相撲の対戦を希望している者がいると手紙を書いてあげよう。ヒュースケン君、代筆を頼む」
病床にあるハリスはヒュースケンに下田奉行宛ての手紙を口述筆記させ、すぐに届けさせた。ハリスは聡明な人物であるが、心身が弱っていて冷静な判断が出来なかった。
普段なら書かないであろう胡乱な内容の手紙が幕府に届き、これが幕府を震撼させる事になろうとは、この時誰も知らないのであった。