3-20 時待町の交差点
時待町。そこは現在と過去・未来が同居する不思議な町。この町の人々は、みな誰かを、何かを待っている。
未来にいる恋人に会いに来た青年。
自分の過去を探す記憶喪失の少女。
失われた技術を求める時の迷い子。
そして、時を司る案内人。
「時間とは、なんと不思議なものでしょう。自分が時間の流れにいて、時間の流れを作るのもまた自分なのですから」
時を超えた思いは交差し、奇跡の扉がゆっくり開く。
降り立った駅は十年前とは比べ物にならないほど静かであった。音もなくすべるように消えていったトラムを見送り、カケルは周囲をゆっくりと見渡した。このあたりは戦争で焼けたと聞いている。かつて人間やロボットが行き交っていた商店街は影も形もなく、草も木も生えていない。コンクリートで固められただけの何もない土地がそこに広がっている。
地球へ帰還したカケルは、許可が下りるとすぐ生まれ育った故郷へ帰国することに決めた。他でもない、十年ぶりに恋人に会うためだ。
「ずっと、あなたのことを待っているわ」
人類の移住先を求め宇宙船で暗黒の中をひた進むときでさえ、リンのその言葉はカケルの心を照らし続けた。終わりと希望の見えない日々も、彼女の笑顔と二人で過ごした日々を思い出すだけで乗り切ることができた。
しかし、元勤め先に尋ねてみても、彼女の名前で論文を検索してみても、恋人の行方は知れなかった。個人情報が厳重に管理されているためか、それとも本当にわからないのか、カケルは確かめる術を持っていない。これまで人生を賭して積み上げてきた宇宙や物理の知識は、行方不明の恋人の前に全くの無力であった。
途方に暮れていたところ、同郷の船員に「眉唾物の噂だけどな」と耳打ちされたのがこの場所だ。
白シャツの胸ポケットの中でかさりと何かが擦れる音がする。古びた紙が破れないように気をつけながら、それを取り出した。確認のために広げてはみるものの、祈るような思いで何百回、何千回と見たため、そこに書かれた無秩序な数列はそらんじることができる。
「35.702019。139.76……」
手首に装着した端末で確認すると、緯度と経度はまさしくこの場所を指し示している。
「時待町、か」
番地を示す電柱は姿を消して久しい。そして端末画面に表示されている地名は全く別のものだ。彼にだまされたのか、それとも流行らない都市伝説のようなものだったのだろう。どこか予想していたことながら肩を落とした、そのとき。
どこからか町のざわめきが聞こえた気がした。誰もいないにも関わらず、祭りのような活気あふれる音が耳に届く。その音は反響しているようにも二重にも聞こえる。いや、音が歪んでいると言った方が良いだろう。
周囲を見回して左足を前に踏み出した瞬間、何かに強く引かれるような感覚があった。あり得ない方向に歪んだ自分の足に驚いているうちに、何もないはずの空間に体全体が引きずりこまれていく。
視界は歪み、耳が詰まる。
水の中に入ったときのように、手も足も自分のものではないように感じられた。
時間にしてそれほど長くはなかっただろう。カケルは強くつぶっていた目を開き、目の前に広がっていた色の鮮やかさに息を呑んだ。
コンクリートで固められ無味乾燥としていたはずのその場所は、かつて江戸と呼ばれていた町のように明るかった。遠くには青空に映える朱色の社殿が輝き、その参道を多くの人々が行き交っている。しかしその光景は異様と言うより他ない。
白くまぶしい壁を持つ土蔵造に暖簾が揺れているかと思えば、その横に建つのは鉄筋コンクリート製の近代的なビルだ。さらにその隣には石造の瀟洒な洋館が並んでいた。
見世棚に野菜を並べている人の脇を通り過ぎるのは、馬に乗った武士とつるりとした頭を持つ人型ロボット。本屋と思しき店の前で、着物姿の女が宙に浮かんだ映像をめくり、昭和時代のモダンガールは巻物や木簡をしげしげと見比べている。二八そばと書かれた露店の前では、全身をホログラムで覆った女性が美味しそうに汁をすすっている。
「何なんだ、ここは」
そしてカケルを何よりも困惑させたのは、そこにいる誰もがそれを当然として受け入れていることだった。異なる時代の人々が互いに笑い合い、手を取り合って過ごしている。
「これが時待町ですよ」
呆然と立ち尽くしていたカケルは隣に人が立っていることに気がつかなかった。慌てて横を見ると、黒いタートルネックのセーターを着た長身の男が立っている。そのシンプルで見慣れた服装は、カケルと近しいものを感じさせた。落ち着きのある雰囲気に内心ほっとしながら口を開く。
「クロノスさんという方を探しています」
男はわずかに口角を上げると、すっと手を横に動かした。
「ご案内いたしましょう」
水先案内人クロノスと名乗った男は、見落としてしまいそうな小さなレンガ造りの建物の前で立ち止まった。クロノスはガラスの入った木製の扉を引いて開け、微笑を浮かべたまま中に入ろうとしない。カケルは会釈し店の中へ足を踏み入れる。
まず目に飛び込んできたのは大きな壁時計だ。初めて訪れた場所のはずなのに、純喫茶然としたその店内はどこか懐かしさを感じさせる。
クロノスは何も言わずにカウンターに入り、手際よく飲み物の準備を始めている。滴り落ちるコーヒーをカケルがじっと見つめていると、クロノスは手元から目線を外すことなく口を開いた。
「カケルさんの時代では、もうこんな光景は失われているのでしょうね」
苦笑いしたカケルの前に、クロノスは静かにカップを置いた。口に含むと抜けるような香りと心地よい苦味が後に残る。この豊かな感覚はカケルの時代では味わうことのできないものだ。化合物を分析することさえできれば、味や香りを再現することは簡単だ。しかし雑味や食感、そしてこの空間も含めた感覚まで再現することは難しい。
懐かしさが染み渡るようなコーヒーを味わいながら、ここへ来た本来の目的を思い出す。カケルはカップをソーサーの上に静かに置いた。背筋を伸ばしたカケルを見て悟ったのだろう、クロノスも整った顔を引き締める。
「クロノスさん、ここへ来ると未来にいる恋人に会うことができるとうかがいました」
クロノスは鋭く目を細める。
「そうとも言えますが正確には違います」
クロノスは静かに語り始めた。
ここ、時待町は文字通り「時を待つ」ことができる場所だという。
そもそも時間とは絶対的に流れるものではなく、各々の動く速さや空間に支配される相対的なものにすぎない。人によって時間の流れが異なる以上、当然時間の差が生まれることになる。
「そのことは誰よりもあなたが理解しているでしょう」
静かな目で問いかけられ、カケルはそっと目を伏せた。
カケルが宇宙探査隊の一員として地球を離れたのは、カケルの中では十年前のことになる。しかし、その間に地球では六十年もの歳月が流れていた。光速に近い速さで運動している物体は、静止した物体よりも時間が遅く流れるように見えるためだ。
「カケルさん、わたしの腕を触ってみてください」
脈絡のないクロノスの発言に困惑しつつも、差し出された腕を服ごしに触れる。指先に触れた感触は思いのほか冷たかった。驚いてクロノスの顔を見ると、彼はどこか寂しそうに笑う。
「よくできているでしょう。肌を模したシリコンに髪の毛の一本にいたるまで。私の一挙手一投足や会話、そして表情。これらは全て人工物です」
クロノスは窓に近づき、人間と見まがうほど精巧な手のひらをそっと窓ガラスに当てた。その仕草は、窓の外で談笑する時の待ち人たちを見守るようであり、憧れを抱いているようでもあった。
「現在とは何をもって現在と知るのでしょう。時間が流れているように感じるのは、記憶を主観に基づいて並べているだけのことです。そして私は——主観を持たない私は水先案内人としての仕事をしているにも関わらず、時間というものがわからないのです」
クロノスの中性的で端正な横顔に長いまつげが影を落とす。どこか物憂げに見える彼の表情に、カケルは口を開きかける。しかし自分が何を告げようとしたのかはわからなかった。
胸の奥にあるわだかまりをそっと飲みこみ、代わりにずっと考えていたことを口に出してみる。
「ここは過去と現在、そして未来が交差する場所ということでしょうか」
カケルの言葉にクロノスはうなずく。
「おおむねそういった理解で構いません。線形的な時間の流れとは別の、時空の寄り道や待合室と考えていただければよろしいかと」
「では一足飛びに過去や未来に行くことはできないのですね」
「その通りです。もし誰かに会いたい場合、その方がここへ来ない限り会うことはできません」
そんな、と掠れた声で漏らしたカケルに対し、クロノスは安心させるように微笑みを浮かべる。
「幸いにも、リンさんはカケルさんのことを待ってくださっています。すぐに会えるよう手筈を整えましょう」
安堵のあまり息を吐き出したカケルに向けられたクロノスの表情は変わらなかったが、逆光の中でロボットの眼光は冷ややかに見えた。
「ただし、カケルさんにとっては会わない方が幸せかもしれませんよ」