3-14 いつかの春へ、ドアが続くなら。
もしも、春につながる扉があるなら。
あなたは、その先へ足を踏み入れますか?
まだ肌寒さの残る二月初旬。
夕陽がかげって、少女の顔に影を落とす。
小学五年生の古谷 蝶子は、大人しい女の子。
引っ込み思案で、うっすらと先行き不安で。
それでも、救われたい気持ちはあった。
そんな日々のなか、見つけた「扉」。
彼女は、未知の世界に向けて一歩を踏みだしてゆく。
“少年”との出会いが、春へと至るヒントになると信じて。
あ、みて。しろいひらひらがとんでるよ。
指さす私に、ママは優しく微笑んでいたっけ。
あれはちょうちょって言うの。蝶子、あなたの名前と一緒ね。……。
夕焼け小焼けの公園で。
友だちとはしゃぎ回る子や、手を引かれて帰っていく子を、ぼんやりと眺める。
ぎぃ、ぎぃ。腰かけたブランコが、頼りない声で泣いた。
「やだ。まだみんなと遊ぶ」
「明日にしよう、タカシ。な? 家でお母さんがハンバーグ作って待ってるぞ」
「はぁい。じゃあお父さん、ボール持ってってよ」
……。
私も、帰らなくちゃ。
遅くなったらママだって心配するもん。
それなのに。
(今日は、なんだか帰りたくないな)
背負ったランドセルが、いつもより重たく感じる。
ほんのちょっと地面を蹴って、見あげた空は茜色。
薄手のワンピースだと、なんだか肌寒い。
着る服、間違えたかも。
「みんなでブランコ乗ろうよ!」
「でも、誰か座ってるじゃん」
遠くから聞こえてくる女の子たちの声。
邪魔になっちゃ、いけないよね。靴底で揺れを止めてから立ちあがり、あてもなく歩きだす。
もう、この公園にも私の居場所はない。
どこか、知らないとこにでもいけたらな。
「……ん?」
目の前をひらり、横切っていくちょうちょ。
あまりにも綺麗な、宝石みたいに青い羽に視線を奪われる。
こんな種類、初めて見たかも。
「待って!」
別に捕まえたいと思ったわけじゃない。
ただ、どこかに連れていってくれる気がして。
宝石の羽は、ひらひらとはばたいて、みんなが「森」と呼ぶ公園の一角へ。
高い木に囲まれてて暗くて怖いから、あんまり行ったことはないけれど。それでもついていく。
草をかきわけ、小川の横を歩いて、違和感はすぐに。
「……あれ? こんなにここ、広かったっけ」
外側を通ったときには、簡単にぐるりと一周できるくらいの距離だったのに。
まるで本当の森のように、どこまでも続きそうな木々の緑。
ちょうちょは遠ざかってゆくのをやめて、目の前を舞っている。
進むのか戻るのか、聞いているみたいに。
木洩れの夕陽は頼りない。
怖い、かも。だけど。
「もうちょっと進んだら、出られるよね」
自分に言い聞かせるように呟いて。右足を一歩、前に。
◇◆◇
あれから、五分くらい経ったかな。
辿りついた「森」の奥は、木々がひらけ広間みたいになっていて。
その中央には、古い扉がひとつ。
……なんだろう、これ。
「もしかしたら、どこかに繋がってたりして」
そんなことを呟いてみたりしても、状況は変わらない。
ちょうちょは、扉の周りを飛び回っている。
ここ、なの? あなたが連れてきたかった場所は。
「だったら、ちょっとだけ……」
ざくりと土を踏み、近寄っていく。
見たところ、木製のドア。茶色くて、アンティークみたいに細かい装飾がある。きれい。
ところどころに蔓や草の芽が出ていて、森と一体化してるように見える。側面に生えているこれは、桜のつぼみかな?
ドアノブを握ってみる。えっと、壊れたりはしてない……よね。
両手を添えて、ゆっくりと回していく。
薄く開かれた扉の隙間から、しょっぱい風が流れてきた。
「え──」
ドアの先には、ペールブルーの空。
汐風。潮騒。……海!?
足元には岩場が広がっていて、子ガニが横歩きしてる。
「うそ、でしょ?」
それだけじゃなくて、ちょっと先には人の影。
男の子、かな。見た感じは私と同じくらい。
海に向かって座ったまま、じっとしてる。手に持ってるのは釣り竿かな。
「誰かいんの?」
「えっ。はっ、はい!」
急に声をかけられて、びっくりしちゃった。
彼がゆっくりと振り返る。
「ごめんね。集中してるみたいだから、声をかけちゃだめかな……って」
その顔を見て、また驚いちゃう。
ママが見せてくれた、昔のパパのアルバム。
そのなかに出てきたパパと、そっくりなんだもん。
「そんなところで立ってないで、こっち来いよ。魚がかからなくて暇だから話でもしようぜ」
つんつん尖った黒髪を片手でがしゃがしゃと掻いて、彼はそう言った。
◇◆◇
波打ち際で、平らな岩のうえに並んで座る。
半袖のシャツから覗く腕は、しっかりと引き締まってて、男の子なんだな……って。
「お前、名前は?」
「古谷 蝶子。ちょうちょの“蝶”に子どもの“子”」
「それならお揃いだな。俺はプシュケ。蝶って意味があるらしいぜ」
プシュケくん、でいいのかな。
外国人には見えないけど。英語……じゃないよね。どこの言葉だろ。
「呼びづらいだろ。適当でいいよ」
「じゃあ、ふーくん」
「なんじゃそりゃ」
肩をすくめてみせる彼。
なんだか、居心地がいい。
「釣り、好きなの?」
「おうよ。時間を忘れてのんびりやれるからな。見てのとおり、釣果は全然だけど」
ふーくんの横顔を眺める。やっぱり、似てるかも。
薄く焼けた肌。高くて綺麗な鼻。すこし垂れた目。
そういえば、家にもたくさん釣り竿があったっけ。あれ、パパのものなのかな?
「こうしてると、辛いことや悲しいことも忘れられるような気がしてさ。えーっと、そのだな」
「ん……?」
「お前、なんでそんな泣きそうな顔してんだよ」
やっぱり、わかるんだ。
きっと、こんな表情を見せたらママが心配するもん。だから、帰りたくない。
「優しいんだね。だから、話をしようなんて誘ったの?」
「釣りのついでだよ、ついで。で、なんかあったのか?」
「私、学校でいじめられてるんだ」
びっくりした。なんで、こんな話をしてるのかなって。
なぜか、この子の前だとするっと言えてしまう。
「クラスメイトの美紀ちゃんって子に嫌われちゃってね。あの子は友だちが多いから、みんなに無視されたり、悪口を言われたり」
「陰険だな。それで?」
「今日も帰り際に嫌なことを言われてさ」
蝶子なんてイヤミな名前。いつもお高くとまっちゃってさ、なに様のつもり?
投げつけられた言葉が、いまも胸に刺さったまま。
「やられっぱなしじゃダメだよ。言い返さないと」
「言い、返す?」
考えたことなかったかも。
なにを伝えても、無意味だと思っていたから。
でも、どう言い返せばいいんだろう。
──お高くとまってなんかない。
違う。本当に否定したいのは、そこじゃない。
もっと、嫌だったのは。
「私の名前を、悪く言わないでよ」
「……。なんだ、できるじゃん。それが本当に伝えたいことなんだろ?」
「うん。ありがと、ふーくん。おかげでちょっとだけすっきりしたかも」
「おうともよ。どうせ俺以外誰も聞いてないんだ、海に叫んでいったらどうだ?」
「それは……ちょっと恥ずかしい、かな」
ゆったりと雲が流れてゆく。
晴れた空は、見ていて気持ちがいい。
いまなら、自然に笑える気がする。
「この名前は、私にとって大事なものなんだ。パパがくれた、一番のプレゼントだから」
「なぁ、それってもしかして」
「……うん。もういないんだ。私が生まれてすぐに、病気でね」
だから、私はパパの声を知らない。
思い出だって、なにもないんだ。
この名前だけが、パパのいた証。
あぁ、できることなら。
「普通の家族みたいに、いっぱい話をしてみたかったな……って」
だめ。涙が溢れて、止まらない。
「そんなこと言っても、意味なんてないのに。思ったところで、叶ったりしないのにね。私、なんでこんなこと。迷惑だよね。ごめん」
「蝶子」
「……!」
ぴしゃりと放たれた一言が、胸のなかを大きく揺らす。
厳しくて優しい、そんな声音。
そして、どこか懐かしい。
「その、なんだ。俺でよかったら話を聞くから。いつでも来い」
ぶっきらぼうなセリフが、とても暖かくて。
まるで春が訪れるみたいに。
また一雫、涙がこぼれた。
「ふーくん、まるでパパみたい」
「ちげぇよ。そんな大役、本人以外に担えるか」
今日は釣れないな、と竿を引きあげる彼。
波打ち、しぶく。水滴がきらりと光って消えてった。
「その顔なら、もう大丈夫だろ。早く帰らないと心配されるぞ」
ふーくんの指さす、扉の向こうは、いつの間にやら濃い緋色。
「……うん。そうだよね」
転ばないように気をつけて立ちあがり、伸びをする。
開かれたドアの前に立ち。
「……」
「どうかしたのか?」
足を止めた私を不思議がったのか、背後から声が投げられる。
なんでもないよ。そう呟き、振り返って。
「じゃあね、ふーくん。またここで」
「おうよ。またな」
言えなかった。
どうしてこの名前をつけたの、って。
ずっとずっと、知りたくてしかたのなかったこと。
そんなこと質問しても、ふーくんを困らせちゃうよね。
……でも。いつか、聞けたらな。
ドア枠をくぐる。木々を走る肌寒い風が、そっと通り抜けていった。
まだ、春の陽は遠い。