富岡八幡 ―― 恵比須と蝦夷
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/16818023212068146648
「エビス」は「エミシ」が転訛したものとされる。
エミシは蝦夷であり、朝廷に恭順しない東国の異族を指し、これを、猛々しくも、道理を欠いた蛮族とみなして、侮蔑と畏怖とが綯交ぜとなったニュアンスを有する語である。このエミシが後にエビスとなり、また別にエゾとも転訛し、蝦夷本来の語義、服わぬ東国の異族の意は、主として「エゾ」が担うようになっていった。
一方「エビス」の語は、異民族一般、あるいは遠隔地の人民一般を、侮蔑的なニュアンスとともに言い表すのに用いられたり、武張った東国出身者を、やはり侮蔑的ニュアンスで指し示したりする一方、逆に、敬意を含んだニュアンス、神の名としても用いられるようになった。
この神格化において、エビスは、海の向こうからの恵みをもたらす外来神として扱われ、記紀に登場する蛭子(蛭兒)と同一視されたり、あるいは事代主や少名毘古那(少彦名)などと同一視されたりもした。ちなみに、横浜の富岡八幡宮では蛭子尊、その勧請元の西宮神社でも蛭児大神とされている。
また、神仏習合において、エビスの本地は不動明王や毘沙門天とされた。これは、これらの像に見られる憤怒の造形と蝦夷の語の猛々しいニュアンスとが相互に結び付いたためかも知れない。
以上のように、エビスは多義的であるため、漢字による表記も、夷、戎、胡、夷子、戎子、胡子、蛭子、蝦子、蛯子、恵比須、恵比寿、恵美須、恵美寿など多岐にわたる。
なお、後世、エビスの「エ」に「恵」の字を宛てたのは本来的な発音に悖る誤用であるが、その誤用が浸透したため、「ヱビス」「ゑびす」という仮名表記まで行われるようになった。ヱビスビールが端的な例である。
先ほどエビスは外来神と書いたが、海の向こうには永遠の命と富が栄える国があるという考え方が古くから存在し、記紀などにも常世の国として記されているし、沖縄ではニライカナイと呼ばれる。また、中国の史記などにも、東海中の仙郷として蓬莱が記されている。
そのような海の向こうの理想郷から恵みをもたらしてくれるのがエビスである。ただ、「エビス」という名称は記紀などには登場しない。あくまでも、民俗的な信仰がこの神の始まりと言われる。
エビスの語義の一つは、海から海岸に寄せる漂着物などを指し、ことに国内では生育しない椰子の実や海外の産物など、普段目にしないような珍しい漂着物や、網にかかった珍しい石、あるいは鯨や鮫などをありがたがり、さらに神格化したのが、この信仰の萌芽とされる。エビスには、海洋生物の死骸や人の水死体なども含まれる。これらの漂着や到来は豊漁などの吉徴として信仰の対象となったらしい。
ちなみに、西宮神社の由緒については、漁師が網を引き上げたときに、たまたまそこに入っていた神像を持ち帰り、大事に祀ったのが始めらしい。何だか、浅草の観音様の縁起ともよく似ている。
やがてエビス神は、七福神にも含められたりしてポピュラーな存在となり、漁業のみならず商売繁盛や家内安全、豊作などさまざまな祈願の対象とされていった。当初の「エビス」のニュアンスにあった荒々しい蛮族というイメージはすっかり薄れ、福々しく優し気なお顔の、実にありがたくもめでたい神様の印象に変化する。そうして、あちこちにエビス様を祀った神社や祠がそれこそ無数に建てられるようになっていった。
僕の実家の近所にも、エビス様の祠があり、そこは地域の集会場のようになっている。また、僕の郷里の九州を含め、関西以西の地域では、「えべっさん」という呼び方で、庶民にとって身近な存在として親しまれている。
このエビス神が、記紀に記されている、蛭子(蛭兒)や事代主、あるいは少名毘古那(少彦名)と同一視されたのは、いずれの神も海に関係していることからの連想であろう。蛭子(蛭兒)は生後間もなく(日本書紀では三年後)、葦船で流されているし、事代主は国譲りの際に自分が乗っていた船を自沈させてこの世から姿を消したとされる。少名毘古那(少彦名)は、蘿藦の実で作った舟で海を渡り出雲にやってきて、大国主と出会っている。ちなみに、古事記では事代主が船を自沈させた場所も、少名毘古那が海から到着した場所も、いずれも御大の御前となっている。ここは松江市の美保関辺りとされ、ここの美保神社にはえびす様(事代主神)が祀られている。
ただし、記紀に登場する神とエビス神とを関連させて同定する行為は、幕末・明治以降に盛んになったものであろう。それまでは、記紀の中の神と特に習合させることもなく、あくまでエビス様はエビス様として信仰されていた所も非常に多かったものと考えられる。
エビス信仰に限らず、幕末以降、国学や復古神道などの影響で、吾が国の信仰の形態には大きな変化があった。神仏分離や廃仏毀釈の思想が急速に広まり、国の中枢においても、神仏判然令や関連する太政官布告、また、大教宣布が行われるなど、信仰における習俗が革まり、また、しばしば本来の素朴な信仰を歪めるような形のムーブメントとなって世を席捲した。現代の信仰にかかる習俗も、当時の変革の大きな影響下にあり、歴史を戻すことは叶わない。僕の心情としては、少なくとも中世以来長年続いてきたであろう信仰の形態が、近代以降に大きく枉げられてしまったことは、返す返すも残念に思われる。
現在、各地の神社や祠の祭神は、記紀に登場する神々に同定されていることが多いが、その大半は、無理やり行われたこじつけであろう。
二礼二拍手一礼(再拝二拍手一拝)の作法にしても、神官の装束にしても、供物や祝詞などにしても、さらに特に最近では、鳥居で一拝だの、参道の中央は避けて通るだの、手水の際の柄杓の使い方など、さまざまな事柄が画一的に統一されつつある。
僕は一概にこれらを否定するものではないけれども、つい百五十年から二百年前に僕らの先祖が行っていた信仰は、もっと多様で、そのありようと言おうか、神仏を礼拝する所作、作法なども含めた、信仰にかかる様々な習俗は、画一的な現代のやり方とは、かなり異なっておりそれぞれの独自性を保持していた筈である。そのことに、僕らはもっと自覚的であった方が良いように思う。
<了>