003.『世界でいちばん透きとおった物語』
八月の、とある日のことだった。
地下鉄に乗り込むと、むっとした空気が体を包む。
電車は超満員で、僕は荷物を抱えて吊革につかまる。
「おい! いい加減にしろよ!」
不意に怒鳴り声がして、そちらを眺める。黒く大きな影だ。
なんだ? あれは。目を凝らして、その影を見つめる。
──ああ。わかった。
「お前だよ、お前! その鞄、邪魔なんだよ!」
そうだ、鞄だった。
一人の男が鞄をいくつも身に纏ってジッと立ちつくしている。
僕がこっそりと聞き耳を立てていると、鞄男が口を開いた。
「すみません……もう三駅もしたら降ります」
「冗談じゃねえ!」
「上手くやったな」
「おう、そうだろう。かなり苦労したからな」
僕が用事を終えた帰り道、何やら聞き覚えのある声がした。
行きの電車で見かけた鞄男だ。連れ合いと思しきヤツもいる。
さらに声が上がる。
「お兄さん方ちょっと。鞄どかしてくれるかね」
顔をそちらへ向ける。
駅員が難しそうな顔で手を振っていた。それもそうだ。
床に広げた大量の鞄は明らかに他の客の迷惑になっていた。
「すみません、すぐどかします」
男は萎れた声をあげて鞄をかき集める。ざまあみろ。
人の迷惑も考えられない人間ばっかりで嫌になる。
僕は溜息を吐いて電車を待った。