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文体基礎演習  作者:
2/4

002.『君たちはどう生きるか』




 まだ夏が始まって間もない日のことでした。その日、コペル君は叔父さんのうち(、、)を訪ねるため、東京メトロ丸ノ内線の座席にその小さな体を折りたたむようにして座っていました。というのも、電車の中はサラリーマンや近場の学生などでごった返していて、ちょっと足を伸ばして見ればすぐにでも人にぶつかってしまうのでコペル君も足をきっちりとしまっておく他有りません。

 「おい! 邪魔だよ。お前の鞄。」

 突如車内に声が上がりました。銘々に辺りを見回す人たちにならってコペル君も声の主を探します。

 すると、どうでしょう。コペル君から少し離れた所に堆く積まれた鞄の山が聳えているではありませんか。辺りのサラリーマンから一回りも二回りもでかいその鞄の山は、電車が動く度にふらふらと揺れています。

 「聞いてるのか、おい!」

 先程の声は、どうやら鞄の山に向かって放たれた声だったようです。とすると、あの真黒な簔のようになった鞄の中には人がいるのでしょうか。コペル君は気になってしまって、隣に座る人と肩がぶつかりあうのも厭わないほどです。しげしげと眺めていると、

 「…………ぁす。」

 鞄が応じます。そうか、鞄が邪魔で声が届かないのかとコペル君が推測する間にサラリーマンが大声で怒鳴りました。

 「おうい! 聞こえているのか! 鞄だよ、カバン!」

 コペル君はまるで自分が叱られでもしたかのように肩に力を入れました。

 「確かに邪魔かもしれないけれど、そこまで言うことは無いじゃないか。」

 コペル君は心の中でそう呟きましたが、満員の車内では聞こえる由も有りません。コペル君が肩を揺らしていると、やっと鞄の中から声が上がりました。

 「すみません。後三駅もすれば降りますので。」

 「三駅もじゃねェぞ!」

 サラリーマンが怒鳴るのと、コペル君の目的の駅に着くのがほとんど同時でした。コペル君はなんだか後ろ暗い気持ちを抱えたまま、辺りの人に「すみません、降ります。」と頭を下げて地下鉄を後にしました。

 

 「ふうむ、そんなことがあったのかい。」

 叔父さんの家に着いたコペル君は、早速電車の中であったことについて話しました。叔父さんはじっと腕を組んで物を考えるようにしています。

 「ひどいだろう? いくら邪魔ッ気だからって、あんな風に言うことないや。」

 「うむ、そうは言うがね。」

 叔父さんはコペル君に一枚の硬貨を差し出して先を続けます。それは丁度、一昨年に流通し始めた新五百円玉でした。

 「以前、君は僕に人間分子説を話したことがあったね。人間は一つの硝子コップに入れられた水の分子のようだという話さ。」

 「うん、覚えてるぜ。」

 叔父さんは取り出した硬貨をヒョイッと投げ上げると、表も裏も判らないように手の裏に隠してしまいました。

 「生産関係にも見られるように、人間は一つの分子にも言い換えられる。確かにそれはその通りだ。君は『人間はどれだけの事をして来たか』を熟読しているだろうから、量子力学の確立解釈についても少しは理解している事だろうね。人間が分子に見える一方で、人間は粒子の一面も兼ね備えているんだよ。」

 叔父さんはコインを抱えた手の甲をコペル君の前まで持ってきて、「表か裏か。」と問いかけます。

 「表だ。」

 「粒子の一面。それは、実際に会って確かめてでも見ない限り、その人が居るか居ないか、有るか無いか。あるいは善い志を持った人か、そうでない人か。それが全く定まらないって事なんだ。」

 それは咄嗟の出来事でした。叔父さんは手の中に有ったコインを思い切り放り投げてしまったのです。コインはコペル君の視線を払いのけ、遠くの畳まで転がって行ってぱたり(、、、)と倒れました。

 「ちぇッ、なんだよう。予想させておいて。あれじゃあさっきまで表だったのか裏だったのかわかりやしないじゃないか。」

 不満げなコペル君のぼやきに叔父さんは頷きます。

 「うん。そうなんだよ。その通りなんだよ、コペル君。このことはようく考えてみることだ。すぐにどうこうという訳じゃない。ようく、考えてみることだよ。」


 コペル君が帰りの電車に乗るために四ッ谷駅に着くと、見慣れない大量の鞄が散乱しているのが目に付きました。

 「この鞄、どこかで見覚えが有るぞ。」

 コペル君がそう思っていると、その鞄のすぐ近くに立っていた男の人たちが笑っているのが耳に入って来ました。

 「また随分持ってきたなあ。」

 「そうだろ。そうだろう。」

 どうやらさっき電車の中で怒鳴られていた鞄の御仁に相違有りません。コペル君は切符を買う振りをして、男の人たちの顔をちらり(、、、)と盗み見ました。鞄を見て頷いている背の高い男と、満足げに腕を組んでいる背の小さい男とが居ます。声から察するに、背の小さい方が先程電車の中で怒られていたその人で有るようです。

 「中々男前じゃないか。」

 呟くのに合わせて男達が顔を上げた気がして、コペル君は身のすくむ思いがしました。

 「荷物をどかしてくれますかねえ。他のお客様もいらっしゃいますので。」

 でも問題ありません。実は駅員さんが大量の鞄を見かねて注意しにやって来たのでした。

 「これは失礼。すぐに退けます。」

 男達が慌てて鞄に手を付けるのに、コペル君は焦点を合わせたまま一つのことを考えていました。

 

 このことはようく考えてみることだ。すぐにどうこうという訳じゃない。ようく、考えてみることだよ……




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