愛は消えたけど友達ができた話
「それにしても……あの後大丈夫だったんですか?」
アイシャ・フォトウーシュ伯爵令嬢のどこか気遣うような眼差しに、フェリシア・ノーガンディウム侯爵令嬢はにこりと微笑みこたえた。
「えぇ、問題ないわ」
実のところこの二人、つい最近までは友人ですらない関係であった。
家同士の繋がりがあるわけでもなく、また友人関係での繋がりも特にない。普通に過ごすだけでは接点などほとんどなかったのだ。
身分だけならどこかの派閥繋がりで知りあえそうだが、アイシャは少し前まで男爵令嬢だった。
彼女の母が幼い頃に家族と生き別れ、家族は必死に捜索していたもののアイシャの母は事故で記憶を失い、流れ流れて自分の家がある領地ではない、遠く離れた土地へ辿り着いてしまったのである。アイシャの母の周囲の人間は幸いにも親切な人ばかりだったようで、記憶を失っていても生活にそこまで不便を感じなかったようだ。
そうして過去の事を思い出せないまま成長し、結婚相手が男爵家の人間であった。
記憶を失ってからは平民として過ごしていたアイシャの母だが、男爵家とはいえ貴族の家に嫁いだことで今まで無縁のものだと思っていた社交の場に出る事になり、そこで生き別れていた家族と再会――とはいかなかった。
アイシャの母には兄がいて、彼は今でも生き別れた妹を探している、という話はそれなりに有名だったので、少しだけフォトウーシュ伯爵に似た面影を持つアイシャの母を見た知り合いの貴族が、フォトウーシュ伯爵に話をしたのが切っ掛けだった。
お互いが暮らす土地が少しばかり離れていたために、すぐさま確認に向かうという事はできなかった。
手紙を送り、そうしていざ出会う事が決まった前日、なんとアイシャの両親は馬車の事故に巻き込まれ亡くなってしまったのだ。
本来ならば身分的にアイシャの両親がフォトウーシュ家へ行くべきだったのかもしれない。しかし伯爵は自らこちらへ足を運ぶと言っていた。
結果、伯爵が辿り着いた時には葬式真っ最中だったのである。
一人残された男爵令嬢アイシャは、当主となった兄の目から見てもかつての妹と瓜二つでアイシャの母が自分の妹だと疑うべくもなかったのである。
妹の子であるならば、自分にとっても我が子も同然。
そんな理屈でもって伯爵はアイシャを養子に迎えたのである。
伯爵家に行くまで、男爵令嬢であったアイシャだが実際は限りなく平民に近い暮らしをしていた。野を駆け回り泥だらけになる事もよくある事で。
貴族令嬢というイメージからはあまりにもかけ離れていたのである。
一応、畏まった場ではそれなりに猫を被ったりもしていたけれど。
アイシャとフェリシアが出会ったのは、王都にある貴族たちが通う学院である。
勉強に関しては家庭教師で事足りる。しかし人間関係ばかりは机の前に座ってお勉強してどうにかなるものでもない。幼い頃に親の繋がりで知りあった友人たちとの茶会などで得られる情報だって限りがある。新たに友を作るにしても、夜会などでいきなり知り合って友達に、なんてなれるはずもない。
それに家の名がいくら知られていても、次代と定められている相手が必ずしも優秀であるとも限らない。人々の噂から得られる情報は真偽が混ざりすぎていて、結局のところ何を信じるべきかを決めるのは自分自身だ。
学院は小さな社交場であり、人を見る目を養え、というある種の温情でもあった。
アイシャとフェリシアはその学院で知り合ったのである。
だがしかし、知り合った経緯はある意味で最悪だった。
フェリシアには婚約者がいた。
クロフォード・セレネイト。公爵家の一人息子である。
将来的にフェリシアはセレネイト家に嫁ぐことが決まっていた。
フェリシアも幼い頃から漠然と将来はクロフォード様のお嫁さんになる、とまだ婚約の意味がわかっていなかったころから思っていたこともあり、二人の仲は悪くはなかった。いや、はずだった、とつけるべきなのかもしれない。
学院に通うようになってから、クロフォードはフェリシアと距離を取るようになってきた。それがたまたま身近な男友達とつるむのが楽しい、とかそういうのであれば良かったが、一人の女生徒と仲睦まじいという噂が立つようになったのである。
その噂の相手がアイシャだった。
フェリシアからすれば、自分の婚約者に近づく女。いい印象を抱けるはずもない。
けれども、だからといっていきなりあの女ッ、身の程を弁えさせてやるッ!! と血気盛んな事を思ったわけではない。
聞けば男爵家から伯爵家へ養子に入ったという事だし、今まで平民としてそう変わらない生活を送っていたという噂も聞いていた。だからこそ、もしかしたらまだ貴族としての常識が身についていないのかもしれない。そうであるならいきなり怒鳴り込む――実際に怒鳴るわけではないが――わけにもいかない。
まずはやんわりと話し合いをして、それでだめなら次の手を。
ある意味で貴族らしい考えでもって、フェリシアはアイシャと顔を合わせた。
クロフォードには婚約者がいる事を伝え、だからこそ彼とは関わらないようにと忠告をした。知らないのであれば仕方がないが、今こうして知ったのであれば、その上で近づくのであればアイシャ自身の評判にも関わる。もし、クロフォードが婚約者がいながら彼女をそういう目で見ているのであれば、フェリシアもこの話し合いで終わるとは思っていなかった。けれども、何も知らないのであれば、こうして教えたなら距離を取るだろう。クロフォードがフェリシアではなくアイシャを選ぶのであれば、その時は婚約に関しても見直さなければならない。穏便に解消といきたいところだが、場合によっては破棄となりうるかもしれない……
もし破棄となれば、色々といらぬ噂も駆け巡り面倒な事になるだろう。
そんな風に内心で煩わしいと思いつつも、フェリシアはアイシャとの話し合いをしたのだ。
アイシャもクロフォードに婚約者がいるという事を聞いて「えっ!?」といった反応をしていたので、てっきり婚約者がいないどこぞの令息、それも跡継ぎではない、今後の身の振り方に悩んだ相手だと思っていたのだろう。フォトウーシュ家は当主がそもそも生き別れた妹を探す事に心血注いでいたためか、伯爵本人が結婚をする事を良しとしていなかった。いずれはどこかから養子をとって跡を継がせるのだろうと思われていたのだが、そこにアイシャがやって来た。生き別れていた妹の面影がありすぎる娘を手放す事はしないだろう。であれば、婿入り、そして伯爵家の一員として働けば今後の人生はそれなりに安泰である。
アイシャにまだ婚約者がいないという事もあって、そういった令息たちから密かにアイシャは目をつけられていた。
ところがいざ蓋を開けてみれば、アイシャに近づいてきたのは婚約者がいる令息。
アイシャが驚くのも無理はない。
いくら平民に近しい生活をしていたとはいえ、それでもアイシャは両親から貴族として一応礼儀作法を学ばせてもらっていた。だからこそ、フェリシアの言い分は真っ当である事はわかるのだ。フェリシアの家の力を使えば、こんな穏便に警告をせずともいきなりアイシャを亡き者にするくらいは容易なのだから。とはいえもしそれを実行すれば養父となった伯爵が泣き寝入りするとも思えないので、無駄な争いの火種を作る事になりかねない。フェリシアもそれくらいは理解していたのだろう。だからこその穏便な話し合いである、とはアイシャもよく理解していた。
とはいえ、困ったことにアイシャからクロフォードに近づいた事は一度もないのだ。
今までの接触は全てクロフォードから。
アイシャがこの後クロフォードから距離を取って関わらないようにしようとしたとして、それでクロフォードが納得して諦めてくれるか、となると……アイシャはとてもそうは思えなかった。
むしろ相手が逃げた事で逆にクロフォードの心にいらぬ火をつけるのではないだろうか。
アイシャの言い分にフェリシアは否定できなかった。
確かに、逃げる獲物を追いかけるという本能的なものがありそう……と普通に思えてしまったので。動物じゃないんだから……と思ったけれど、しかしそれでもフェリシアはアイシャのその言葉に納得してしまったのだ。
最近流行りの恋愛小説の中にも、逃げられると追いかけたくなる、という場面があったので完全に否定はできなかった。
アイシャは言った。
むしろ自分から近づいた事は一度もなく、であるならばまずはそちらが婚約者と話し合いをするべきだと。こちらがいくら回避し続けたとしても向こうがやってくる以上、限界は必ずやってくるのだと。
セレネイト家のご令息と関わらないようにするためだけに、自分はこの学院を去るつもりはない。
そう言われてしまえば、フェリシアも確かに無茶を言ったな、と思えてしまった。
とはいえ最近めっきりフェリシアはクロフォードと会う事がなくなっていた。今までフェリシアと会っていた時間をアイシャに費やしていればそれは勿論そうなる。
けれども話をしないという選択肢を選ぶわけにもいかない。手紙を出しても返事がすぐにくるわけでもないし、更には周囲の噂でクロフォードがアイシャと仲睦まじいなんて言われているしでクロフォードに話を聞こうにも聞ける状態でもなさそうだし、何よりもしフェリシアなどどうでもよくてアイシャが良いのだ、と言われたらと考えるとフェリシアもクロフォード本人に問いただす勇気が足りていなかった。
セレネイト家には過去何度か王族が嫁いだり婿入りしたりしているので、低いながらも王位継承権がある。とはいえ、現状次期王は第一王子で確定しているだろうけれど。
現在王家には王子が三人いる。彼らは自分の立場をよく理解していたし、立ち回りも上手かった。だからこそ、市井で流行りの恋愛小説のように身分の低い女性を見初めて己の婚約者を捨て真実の愛を見つけただとかの戯言を口にするような事はないと言える。
演劇などであのシーンを見ているだけなら虐げられていたヒロインに感情移入したりして、中々に楽しめるのだけれど流石に現実でそれをやるのはいただけない。
王子たちもそれくらいは理解しているようだし、だからこそ自ら廃嫡を言い渡されるような事をするはずがない。なので、王位継承権がかろうじてあるとしても、セレネイト家がその件に関してどうこう言うような事はない。
ない、はずだ。
物語に出るような目先の事もロクに見えず、ましてや自分の人生が安泰だと信じて疑わないようなお花畑であったなら、どうだかわからないが。
いや、しかしクロフォードはそこまで愚かではないはずだ。
けれどもこのままでは……無駄に醜聞めいた噂ばかりが駆け巡り、お互いの家にとってもあまりよくない事になるだろう。
「その、クロフォード様を呼び出すのを、手伝っていただけますか……?」
きっと自分が呼び出したところでクロフォードはすぐに応じてはくれないだろう。だからこそ、フェリシアは申し訳なさそうにアイシャに頼んだのだ。
アイシャも思うところがあったらしく、フェリシアのその言葉に即座に頷いてみせた。
――結論から言うと話合いは拗れた。
フェリシアは穏便にアイシャと話し合いをして事態を解決させるつもりだったし、アイシャもやましい事など何もないからこそフェリシアの呼び出しに応じた。
そうして話し合って、とりあえずクロフォードと話をする事は確定事項となった。
そんな二人の話し合いに第三者はいなかったけれど、それでもフェリシアがアイシャを呼び出した事そのものはどこからともなく噂になったようで。
アイシャと共にクロフォードを待っていたフェリシアに対して、クロフォードは開口一番のたまったのだ。
「アイシャ嬢は何も悪くない」
と。
それどころか、アイシャの呼び出しに応じてみればそこに何故かいるフェリシア、という状況に明らかにクロフォードは機嫌を損ねていた。
そして聞こえてきた噂。
その時のクロフォードには、フェリシアがアイシャに対して嫌がらせをしているようにしか見えなかったのだ。そんな事実はどこにもなかったというのに。
いるはずのない相手がいた事で機嫌を悪くしたクロフォードはアイシャへ場所を変えようと言ったけれど、アイシャは別にクロフォードが恋しくて呼びだしたわけではない。フェリシアの手助けをするためと、正直自分に付きまとうのをやめてほしいと伝えるためにここにいるのだ。
フェリシアを置いて二人で場所を変えて、そこでそんな話をすれば今の冷静さを欠いたクロフォードは、フェリシアがアイシャに本当に嫌がらせをしていたのだと思い込みかねない。
どうにか話し合いをしようとしたものの、結局話し合いはそれらしいものにもならずフェリシアにキツイ言葉を浴びせクロフォードは立ち去ってしまった。
後に二人は語る。
アイシャ嬢は何も悪くないのは当然です。悪いのはそちらではございませんか、と。
ロクな交流もなかった令嬢二人が意気投合し、友情が芽生えた瞬間であった。
クロフォードが事の次第を吹聴したわけではないだろうけれど、しかしこの一件は密やかに噂として駆け巡った。結果として学院で二人を知る生徒たちは婚約者に近づかれて仲睦まじくされたら流石にいい気分はしませんよ、なフェリシア派と自分から近づいたわけでもないのにそれは流石に言いがかりが過ぎる、なアイシャ派とに分かれた。
それでなくともアイシャは男爵令嬢から伯爵令嬢になった事で貴族として覚えなければならない事が増えたのだ。日々苦労しつつも努力しどうにか貴族令嬢として相応しくあろうとしているアイシャを見ている者たちのアイシャ擁護っぷりは激しかった。
実際にアイシャが男を漁りにきました、みたいなものであったならこうはならなかっただろう。
風当たりは若干フェリシアにとって悪い方へと傾いていた。
穏便に話し合いで解決しようとしただけなのに、何故こんなことに……フェリシアは嘆いたしアイシャもまさかの事態に眩暈がしたほどだ。
クロフォードの態度が原因だというのになんでか周囲は女二人の確執としてこの一件の行く末を見守っている。糾弾するならクロフォードの方ではあるまいか。そう思いはしても一応王家の血筋が多少なりとも流れている公爵家の人間相手にズバッと厳しい事を言える者は中々いない。言えるならそれは彼よりも上の――例えば王子たちだろうか。けれども王子たちはこの一件に何の関与もしていないし、関わろうともしていなかった。むしろ下手に首を突っ込まれたら余計事態が悪化しかねないので王子たちの反応はフェリシアとアイシャにとっては助かるものであったのだが。
学院で話し合いをしてどうにかこの一件を解決しようとした二人であったが、いかんせん善意の第三者たちがそれぞれお互いを守れとばかりに行動してくれるので二人で会える機会が減った。それぞれがフェリシアやアイシャの事を心配してやんわりと二人を遠ざけるのだ。
別に二人きりになったところで、フェリシアがアイシャに危害を加える事はないし、その逆もまた然りだというのに。事が起きてからでは遅いのだとばかりに、二人は学院で近づく事すらできなくなってしまったのだ。
だからこそ、不便ではありながらも学院での授業が終わった後、家に帰り使用人を使い手紙でのやりとりをする事となった。どちらかの家にお邪魔して話し合おうにも、途中で学院の生徒に見つかればまた面倒な事になりかねないと思った結果だった。
このまま学院を卒業していざ社交界! となった時、この一件が解決しないままであったなら間違いなく二人に確執があるという噂はさながら真実のように広まって面倒な事になる。正直学院内での出来事である今の時点で面倒なのだから、それは間違いない。早急に事態の解決をする必要があった。
結果として、クロフォードの心変わりに思えたそれは、実のところ心変わりではなかった。
クロフォードは婚約者であるフェリシアを愛していた。
では、何故あのようなキツイ態度になったのか。
それについては少しばかり時を遡る必要がある。
かつて、フェリシアは侯爵令嬢でありながらも、とてもお転婆でじゃじゃ馬で元気いっぱいの令嬢だった。もっと言葉を選ばなければ山猿のようであったと言っても過言ではない。男に生まれていたらまぁ腕白なのね、で済まされそうだが女に生まれた事でそれは貴族の――それこそ淑女としてみれば到底看過できないものであった。
幼いながらに婚約者であるクロフォードとの仲は良好だった。何せ二人が共にいればそれこそ泥だらけになって駆け回るようなものだったので。
けれども、いつまでもそれを良しとされるはずもなく。
侯爵家の令嬢、そしてゆくゆくは公爵家へと嫁にいく淑女としての教育はかなり早い段階で行われる事となった。あまりのお転婆っぷりにこのままではマズイと周囲の大人が危機感を抱いたのも原因である。誰が見ても淑女として問題はない、と思えるまでにしておかなければ……! 時間が経過して大人になればおとなしくなってくれる、とは到底思えないほどに幼いフェリシアは野生に生きていた。
クロフォードもまた貴族としての教育を早々に行う事になったとはいえ、こちらは別におしとやかであれ、なんて事はない。令嬢ではないのだからそれは当然だろう。けれども、その頃から内心で不満ではあったらしい。
クロフォードからしてみれば、フェリシアがいかに山猿のような腕白っぷりを披露していようとそれは何の問題もなかったのだ。むしろそのじゃじゃ馬っぷりが楽しかったのに、気付けばそんな過去はありませんでしたよとばかりにおしとやかになってしまって、クロフォードは内心とてもガッカリしていた。
勿論最初のうちは貴族令嬢としては仕方のない事なのだろう、と頭では理解していたようなのだ。
けれども心は納得していない。
そんな時に学院でアイシャと出会ってしまったのである。
クロフォードがアイシャの存在を認識したのは、たまたま彼女が次の授業の教室が変更になった事を忘れていてこのままでは次の授業に遅刻する! という状況であった。
人目につかないルートをアイシャは脇目もふらずに全力疾走したのである。その勢い、まさにイノシシ。うっかり眼前に誰かが現れていたならば、間違いなくあの時のアイシャはその誰かを跳ね飛ばしていた事だろう。それくらいパワフルな走りであった。
もうこれくらいの年齢になったらあの頃のようなお転婆っぷりも何もかも、失くしてしまうものなのかもしれないな……と諦めが芽生えつつあったクロフォードの前に、よりにもよって希望の光のような存在としてアイシャは現れてしまったのだ。
どうにかしてかつての元気一杯なフェリシアを取り戻したかったクロフォードは、アイシャにその秘訣を教えてもらおうとした。まさかあの全力疾走を見られていたとは思わなかったアイシャも困り果てた。教える事なんてありません。ないです。ないの。ないったら!
そんな感じで全力で否定していたけれど、一度目にしてしまった現実を無かったことにはできない。
何か、何か手はあるはずだ。そんな感じでクロフォードはアイシャに付きまとっていたのである。
一連の出来事を知ったフェリシアのその時の気持ちをどう表せばいいだろう。
確かに自分が思っていたような、どころか周囲が噂していそうな仲睦まじいとは異なっている。クロフォードがアイシャに想いを抱いているなんて事はないとわかったけれど、真相を知った今、平民風に言えば「マジか……」という反応になるのだ。
フェリシアがクロフォードと和解すればこの一件、ほぼ解決できる。できるのだが……
それはつまり、彼の目の前でかつてのお転婆っぷりを披露する事に他ならない。
彼と二人きりの時ならまだしも、下手に周囲に人がいる中でそれをやれば、周囲はフェリシアの気が触れたと思うかもしれない。
できるか!!
考えるまでもなく即答だった。
幼い頃、立場も身分も柵も何にも気にしなくていい頃ならともかく、今はもうそれらをわきまえている年齢だ。そういう立ち居振る舞いが許される場であるならまだしも、そんな場は恐らく存在しない。茶会だろうと夜会だろうと社交場でそれは完全にアウト。折角ノーガンディウム侯爵令嬢は淑女の鑑のようね、なんていうところまで登り詰めたのに、下手をすればその評判、一瞬で地の底である。
醜態というのは一度晒してしまうとその後いくらマトモな事をしていても、でもほら、ねぇ……? みたいな反応がついて回る。堂々と振舞っていたとしても、延々その噂がついて回ればいつかどこか、重要な場で足を引っ張ってこないとも限らないのだ。
まだ何も知らない幼い頃ならともかく、そういったあれこれを理解した年齢になってしまえば何度考えてもクロフォードの願いでもあるちょっとやんちゃなフェリシアちゃんが戻ってくる事は不可能だ。
二人きりで誰の目にも触れないのであればまだしも、どちらかの屋敷で二人きりになったとしても使用人の目があるし、多分クロフォードの望みが叶う場を想定するならばそれこそ二人きりで無人島にでも流れつかなければ無理だろう。生きるか死ぬかのサバイバル。そんな状況で淑女がどうとか言ってられないもんな。
逆に言えばそれくらいの状況じゃないと無理なのだ。
しかし実際は人間社会の真っただ中である。
昔のようなお転婆な部分を出すと社会的に詰む。
それでなくとも学院の善意の第三者たちがせっせと燃料投下してるような状況なのだ。どうにか上手くおさめないと、忘れた頃に禍根ですらなかったものを禍根として引っ張り出されそうな気がして恐ろしい。
事態はじわじわと悪化している中で、しかし二人の令嬢は決定的な解決策が浮かばず無駄に手紙のやりとりだけが重ねられていく。
事態が解決したのは、学院の創立記念パーティーの日であった。
王家やそれ以外の貴族の家が主催で行うような大規模なものではなく、あくまでも生徒たちだけでのささやかな催し。
そんな中で、フェリシアはクロフォードに対して茶番を行う事になったのだ。
友人たちと談笑しているところへフェリシアが足を運び、話があると切り出せばクロフォードはこちらには特に話す事などないと冷たく言い放った。そこにアイシャもやってきて、話を聞いてほしいと口添えする。
最近距離を取られていたアイシャまでもがそう言ってきた事でクロフォードも流石にバッサリと切って捨てる事はできなかったらしい。
何かを言いたげな表情でもってクロフォードはアイシャを見つめていたが、確かによくよく見ればその瞳に熱はない。アイシャの話を聞かなければフェリシアはきっと今でもクロフォードがアイシャの事を愛してしまったのだと思っていたに違いなかった。
以前であれば、嫉妬していただろう。
けれどもアイシャから真相を聞かされてしまってからは、何というかクロフォードに対する想いが少しばかり冷めてしまった。山猿みたいにやんちゃっぷりを晒していた当時の事は今思い出すと黒歴史みたいなものではあるけれど、それでもクロフォードとの楽しい思い出でもあった。
けれどももう、あの頃のようにはなれないのだ。
大人になるってそういう事なの。
アイシャとフェリシアが共にやって来た事で、クロフォードが一体何を思ったのか。
もしかしたらかつてのお転婆フェリシアちゃんが戻ってきたとでも思ったのかもしれない。
その目には僅かな期待が含まれていた。
ないです。
そう言いたかったが、端的にそれだけを言った所で納得なんてされるはずもない。
だからこそフェリシアは静かに語り始めた。
「クロフォード様はわたくしが変わってしまった、と仰いますけれど。
そうなるしかなかったのです。
覚えていますか? 昔のわたくしはお転婆で、それでいて泣き虫でもありましたね。あの頃クロフォード様はわたくしが泣いているとよく慰めてくれていました。わたくしの事は自分が守るから、と」
突然の思い出話に周囲は微笑ましさ一割困惑三割ここからコイバナに発展する!? という期待三割、まさかここで婚約破棄とかしないよね……? と修羅場の気配に怯える者三割とに分かれた。
クロフォードは困惑している三割の中の一人だ。
確かに幼い頃、フェリシアはお転婆でじゃじゃ馬でなんだったらガキ大将なんて言葉も似あいそうなほどであった。けれども、ふとした瞬間に泣き喚いたりもしていた。男友達のような感覚もあったけれど、それでも確かに女の子なのだな、とクロフォードが思う事はあったのだ。
何が切っ掛けだったかは忘れてしまったが、王子たちが王位を継がなければ場合によってはクロフォードにも王位継承権があるので、もしそうなったら色々と大変な事になるかもしれない……なんて話が出た時に、もしそうなったらフェリシアとクロフォードの婚約は無かったことになるかもしれない、となって。
幼いながらも漠然と将来はクロフォードのお嫁さんになる、というのだけは理解していたフェリシアはそれで泣いたのだ。
王子たちは誰が王になっても問題のなさそうな人たちだったのでクロフォードに次の王に、なんて話がやってくる時はそれこそ王子がいずれも死んだ時ではあるのだが、もしそうなればこの国の治安は大分危うい事になる。そうなれば国の存続の方がむしろ危ぶまれる。
そういったもしもの未来を想像して余計にフェリシアはびゃあびゃあと泣き喚いたのだ。
その時にクロフォードは慰めというよりはほとんど本心でそんな事にはならない、大丈夫だと伝えた。
そんな事にはならないし、だからフェリシアはぼくのお嫁さんになるんだ。心配しなくていい。
そんな感じの事を幼いながらに言った覚えはあった。
何があっても守るから。
幼子の気休めにもならない言葉ではあったが、それは確かにフェリシアの胸の内に希望の光のように灯ったのだ。
とはいえ、それはもう随分昔の話だ。
今その話をして何が言いたいのだろうか、クロフォードの困惑は消えなかった。
けれどもそれを気にした様子もなく、フェリシアは言葉を続ける。
「あの時の言葉はわたくしに勇気と希望を与えてくれました。けれども同時にこうも思ったのです。
わたくしの事をクロフォード様が守ってくださるとして、では、クロフォード様の事は一体誰が守るのだろうか、と」
フェリシアの胸のあたりにあった手が、ぎゅっと握りしめられる。
「だからこそ、わたくしは決めたのです。わたくしが、クロフォード様を守ろうと。そのためにはいつまでも子供ではいられなかったのです。
ですが、わたくしのその想いはクロフォード様にとって余計なものだったのかもしれませんね。もし、もしも不要であるのならそう仰って下さい。今一度、わたくしたちの関係を見直すいい機会となるでしょうから」
そこまで言うと、フェリシアの瞳からはポロリと一粒の涙が零れ落ちた。
と同時に、クロフォードはまるで稲妻に打たれたかのような衝撃を受けたのだ。
思えばあれ以来、フェリシアが泣いた所を見た事がなかった。
同時に今までのお転婆さが鳴りを潜めたのもあったけれど、それより以前はよく笑いよく泣いていたのを覚えている。感情を押し殺すような、押し込めるようなフェリシアの姿にどうして変わってしまったのだと内心で失望さえ抱いていたというのに、けれどもそれらは全てが自分のためだったと言われて。
気付かなかった自分に。
気付こうともしなかった自分に。
己の不甲斐なさを悟ったのである。
仮にここでお前との婚約を無かったことにしたい、と言えばきっと彼女は笑ってそれを了承するのだろう。笑って、けれども同時にとても泣きそうな心を隠し通そうとして。
脳内で今までの己の行動が目まぐるしい速度で思い起こされる。
何が守るだ。
傷つけていたのは自分ではないか!
それでもなお、彼女は自分の事を思って行動してくれていた。
かつての彼女が懐かしいと、過ぎ去った思い出ばかりを振り返って今を見ようとしなかった自分のために手を尽くしてくれていたというのに――!!
「……すまないフェリシア。私が不甲斐ないばかりに、君には今まで相当な苦労をかけてしまっていたのだな……どうか、許してほしい」
「はい! これぞ雨降って地固まるってやつですね! まったくもう恋愛相談はこれっきりにして下さいよお二人さん!」
そしてタイミングを見計らってアイシャが声高に言えば。
周囲で見ていた者たちはつまりはそういう事なのね……? と多少強引でも納得するほかなかったのである。
婚約者に言い寄っていたアイシャ、というイメージはここで払拭された。
フェリシアと仲が良かったとは特に思えなかったアイシャが何故、という疑問は残れどもそれももしかしてクロフォード様から見たアイシャ様がかつてのフェリシア様に近しい感じだったからかしら……? と周囲はどうにかこの状況に納得のいく理由をつけようとして各自で勝手に自己完結させていく。
アイシャもフェリシアもお互いいがみ合っていたわけではなかった、と知って、勝手にそれぞれどちらかの派閥に属していた第三者たちもそこはかとなく気まずい笑みを浮かべながらも、けれども事態は一件落着したのだと言う事で良かった良かったとその場を取り繕う。
本人たちが既に解決したような状況で尚も二人の事を持ち出して争うなど、最も状況を読めていない愚者であると宣言するも同然なので。
かくして、なんだか勝手に周囲が盛り上がっていたこの一件は。
どうにか無事に収束したのである。
――それから数日後。
アイシャとフェリシアは二人きりで、この一件についての話をしみじみとしていたのだ。
すっかり変わってしまった、と思っていた婚約者が実は自分のために色々と頑張っていたという事実に、クロフォードはコロッとやられたらしい。今までは冷たい態度で距離もあったというのに、あれ以来かつて一緒に泥だらけになって遊んでいた時のような距離の近さを発揮しているらしい。
勿論今この年になって泥だらけになるまで遊ぼうなんて言い出したりはしていないが、今までのよそよそしさが嘘のようにここ連日はデートのお誘いがあるのだとか。
「言っちゃなんですけど、そちらの婚約者様ちょろくありません?」
「そうですね。わたくしもびっくりです」
「今日もデートだったんでしょう?」
「貴女とのお茶会があるのでと断りました」
「わお」
今までだったら、クロフォードからの誘いは何があっても受け入れていただろう。けれども、拗れていたあの一時期で少しばかりフェリシアのクロフォードに対する想いは冷めてしまっていたのもあって、何を犠牲にしてもクロフォードを優先するといった事はなくなってしまった。
嫌いになったわけではないけれど、それでも以前のような身を焦がす程の熱量は消えてしまった。
好き、と言えるけれど愛している、とは言えそうにない。
少し前までなら、愛していると言えたはずなのに。
それよりも今は、案外話が合うアイシャと二人でいる方が楽しいくらいだ。他の友人たちといるのも勿論楽しい。けれどもかつてお転婆であった、という共通部分で思った以上に盛り上がってしまっていた。
いかにヒールに負担をかけずに全力疾走できるか、とかそういう話題は他の令嬢とは流石にできないし。
前ならあれくらいの木に登るの余裕だったけど流石にドレス着てる時はもう難しくなってきたわね、とか他の令嬢に言おうものなら困惑されるの目に見えてるし。
一度だけ、二人だけの茶会をしている時にちらっとクロフォードが様子を見に来た事があったらしいのだが、あまりにも楽しそうにしている二人を見て割り込める雰囲気でもないと察したらしく早々に立ち去っていったらしい。使用人からの情報である。
二人だけの時はそろって淑女の仮面をかなぐり捨てているので、ある意味で貴方の望み通りじゃありませんか、とは思ったが流石に口には出さなかった。
いつか、この冷めてしまった熱量が再び愛と呼べるようになったなら。
その時はきっと――そう思うものの、それがいつになるかは……フェリシアにもよくわかっていなかったのであった。