96.視てる
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「はっ――! はっ――!」
一人の男が山を駆け下りていた。彼はここいらでは有名な盗賊団の頭だった人物である。
これまで多くの人間を不幸に陥れ、奪い、踏み躙ってきた男は何者かから逃げる様に走っていた。
その顔は恐怖と嫌悪でくしゃくしゃに歪み、吹き出る汗、滲む涙、垂れたままの鼻水と唾液で塗れ、彼が自分の醜態に気にかける余裕すらない事を表している。
(悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ悪魔だ――)
彼はほんの数日前に化け物に遭遇した。いつも通りの仕事……いや、いつもより簡単に終わる獲物だと思って老人と少女の二人組に手を出した。
それが失敗だったのだ。そのせいで彼は悍ましい光景を目にしてしまったのだから。
ボコっと内部から破裂する様に頭部が膨れ上がり、重さを支え切れずに転倒する部下達。まるで手鏡のような、人体としてはバランスの悪いシルエット。
誰もが自分の頭を持ち上げられず、地に足も届かず、嘔吐しながら手足をバタつかせ、混乱と狂騒の絶叫が木霊する。
そんな彼らを作業の様に殺していく悪魔の少女――見慣れない細身の剣を側頭部へ突き刺し、そして脳漿と一緒にズルリと引き抜いていく姿に胃がひっくり返る思いをした。
自分はああはなりたくない。その一心で彼は殆ど休みなく何日も駆け続けた。あの悪魔から出来る限り遠く離れた場所に行きたい。
そもそも休もうと思っても、目を瞑った瞬間にあの地獄が脳裏に浮かんで眠れない。この程度の距離じゃあちっとも安心できない。
「うわあああぁぁ!!!!」
後ろを振り向けない。すぐ後ろにアイツが居る気がしてならない。
走っている最中も見えない影に追いかけられている様で、男は時折絶叫を上げる。あまりの恐怖に正気ではいられなかった。
それだけ一般人にはルーン魔術という、純粋な悪魔の力に対する耐性がなかった。
「邪魔だどけぇぇええ!!!!」
「なっ!? と、止まらんか!」
半ば狂乱しながら、男は道の途中で出会した一団に襲い掛かる。
豪奢な馬車に、周囲に侍る騎兵の護衛。見るからに貴人の移動だった。本来ならば絶対に襲う事のない一団に対して、冷静さを失った男はたった一人で突撃した。
「邪魔なんだよぉぉおお!! どけよぉ!! アイツが来るだろおぉぉお!!??」
「狂ってるのかコイツ!」
「取り抑えろ!」
実力で集団の長になっていたとはいえ、たかが野盗でしかない。たった一人で正規の訓練を受けた騎士達に敵う筈もなく、男はあっという間に取り押さえられた。
「隊長、コイツ手配書にあった顔ですよ」
「なに?」
男の素性を知った男が面倒くさそうな顔をする。
今現在、大事な護衛任務の最中ではあるが、立場上この指名手配された罪人を放置する訳にもいかない。
しかし偉い人間の中には、罪人と一緒に移動する事を嫌がる者も多い。部下に任せて別れようにも、捕縛されても未だに叫び暴れる者を護送するにはそれなりの人手が取られる。それでは護衛任務の方に支障が出てしまう。
ここは自分が護衛対象に事情を説明するしかないだろうと、疲れたように溜め息を吐いた――その時である。
「――もし、何か問題でも?」
「! これは聖女様!」
正に相談しようと思っていた相手が馬車から降りて来た。
金糸で刺繍を施された真っ白な法衣を身にまとい、目元を赤黒い聖骸布で覆った金髪の女性。
身に纏う法衣に露出など全く存在せず、使われている絹も何枚も重ねられているのにもかかわらず、その豊かな胸部と臀部が布を押し上げ、メリハリのあるシルエットを生み出していた。
貞潔でありながら、男を惑わせる色香を無意識に放つ聖女と呼ばれた妙齢の女性は、自らの護衛である騎士に状況を問いただす。
「……なるほど、なるほど……悪魔という言葉が気になりますね」
「ですが、事実かどうかは……」
「盗賊団の頭目であった者が部下の一人も連れず一人で逃げ惑い、あまりの恐怖に思考能力を奪われてしまっている……それだけで悪魔の存在を疑う理由にはなりませんか?」
「それは、確かに」
騎士から事情を聞いた聖女はふと身体の向きを変え、視界を遮られている筈なのに真っ直ぐに野盗の男へと歩み寄った。
「私が直接話を聞きましょう」
「危険です! それに聖女様がお声を掛ける価値などこの男にはありません!」
「私が必要だと判断しました。貴方は後ろに控えなさい」
「……承知しました」
聖女にそこまで言われては騎士も引き下がるしかない。彼はそのまま聖女の傍に控え、野盗の男が何か怪しい動きを見せたら即座に斬り掛かるべく剣の鯉口を切る。
「もし、貴方は何故そこまで怯えているのですか?」
「悪魔だ! 悪魔が……悪魔じゃなかったら何なんだ!?」
騎士には、男の返答はマトモなものとは思えなかった。
「大丈夫です。大丈夫ですよ……神が貴方を見守っています」
「神!? カミだと?! 神なんて居たら俺はこんな風になってねぇッ!!」
なんという無礼、不敬だろうか。高位聖職者である聖女様を前にして、神の存在に疑義を投げ掛ける様な発言をするなど、騎士には信じられない言動だった。
瞬間的に殺気が漏れ出る周囲の様子など気にした様子もなく、聖女はただじっと野盗の男を見詰めた。
「神なんて! 神、なんて……居たら……あんなやつ……」
ただ、ただ、じっと見詰め続ける。
「あっ……あっ……視てる……視られてる……神様、カミサマ……」
男の目には涙が溢れ出ていた。全身をわなわなと震わせて、聖女を、その更に奥に居る存在を感じ取った。
「はい、神は貴方をずっと視ていますよ」
縛られたまま、男は懺悔するように地に額を擦り付ける。
嗚咽を漏らし、生まれて初めて感じた〝畏怖〟の感情に脳みそがパチパチと音を立てた様な気がした。
「なるほど」
数十秒ほど見詰め続けた後に、廃人となった男から視線を切った聖女は小さな声で呟く。
「――ダンジョンマスターとなった勇者様ですか」
その頬は薄く色付き、紅潮していた。
あっ……あっ……視られてる……