88.混濁
半島制圧編開始!
【誰だお前たぁ、随分な挨拶じゃねぇか】
「……アーク?」
【おう】
聞き慣れた声を発する存在をまじまじと見詰める。
アークを名乗るその存在は、一言で表現するならば醜悪な獣――そうとしか喩えようのない見た目をしています。
あんなに美しかったラピスラズリのような青い頭髪は見る影もなく色褪せ、斑にくすみ、そして頭部の左半分が禿げていました。
左の空っぽな眼孔からは腐った筋繊維がささくれ立ち、唯一残っている右目も瞼が存在しないせいで剥き出しのまま充血しています。
老いた犬と人間を混ぜ、そして毛皮を剥いだような顔面に、羽をむしり取られた鶏のような肌、骨と皮だけの細い肉体に、異常に発達した手足の指。
見た目は悍ましく、嗅覚を刺激する腐臭まで漂ってくる――けれど、何故か愛おしい。
「■■■■■、来て――」
無意識の内に何かを呟き、アークの細い身体を両手で抱き寄せる。
困惑した様子の彼が優しく覆い被さってくれて……私は、彼の胸にそっと額を押し付けた。
アークは仕方なさそうに、けれど嬉しそうに私を抱き締めてくれた。
【またこの腕に抱く事ができるとは――】
万感の思いが込められた呟き。
「どうしました?」
上手く聞き取れず、けれど気になって問い掛ける。
【ん? 俺様なんか言ったか?】
しかし望んだ回答は得られず、本人ですら分からない様で首を傾げていた。
「……いえ、何でもありません」
頭痛がする。何かを思い出せそうで、けれど意識して忘れた記憶を拾い上げようとすると何かに邪魔されてしまう感覚。
彼の姿を見て、匂いを感じて、言葉を交わす度に胸に鋭い痛みが走って、あまりの悲しみに涙を零しそうになって、持て余した憤りに叫びたくなる。
どうしてそうなってしまうのか、自分のこの衝動が何処から来ているのかが全く分からない。
原因も正体も分からない濁流に呑まれ、怖くなって……知らず知らず彼へとさらに強くしがみつく。
【どうした? 何に怯えている?】
「……分からない、分からないんです。今の貴方を見ていると、何故か感情が強く揺さぶられるんです」
悪寒がする。風邪を引いて、高熱に魘されている時のように、寒くて寒くて震える。
自分の感情の原因を探ろうと、自らの記憶を浚おうと魂の奥底に手を伸ばすほど、私の身体は不調を訴える。
これ以上はダメだ、自分の奥深くに踏み込んではならない……根拠もなく、そう察した。
【――今はまだ、思い出さなくていい】
アークに視界を遮られ、私は自意識が混濁したまま再度眠りに落ちた。
「……まだ少し気分が悪いですね」
目が覚めたのは日が昇る少し前の時間帯。
私はズキズキと痛む頭を抑えながら呻き、眠りに就く前にどんな会話をしていたのかを思い出そうとして……本能の警告に従ってそれを止めた。
何だか自分と、自分ではない自分が混ざり合って溶け合おうとしていた様な……そんな不思議な感覚だけが残っている。
【なんだ、もう目覚めたのか?】
「えぇ、二度寝するのも気持ち悪いのでこのまま起きます」
いつもの私と、いつものアーク……それで良い筈です。
「今日は新しい権能やルーン文字について教えて貰いますね」
【あぁ、それはいいが……ま、いっか】
「なんですか? 懸念があるなら今ここで言ってください」
含みのある言い方をされると余計に気になるのですが。
【あ〜、なんだ、やってみりゃ分かる】
面白可笑しそうに私にやってみろと促すアークを睨み付けながらも、仕方ないと気持ちを切り替えて権能を発動するべく意識を集中させる。
【――悪魔の心臓】
最初に発動させるのは神核の権能です。
一番馴染みがあり、習熟度も高いこれを意識してゆっくりと丁寧に行使する。
そして得たばかりですが、この権能と相性の良さそうな【悪魔の羽衣】を発動して――
「――おぅえっ、ゲホッ、ゴポっ」
視界が反転し、急に立っていられなくなる。
脳みそが細胞単位で破裂し、ドロドロの体液となって鼻と口から溢れ出す。
地面に手を着き、口元を抑えながらDPで必死に身体を治すも追い付かない。
【ヤベぇだろ? 土壇場で無理して自爆しねぇように、今のうちに経験して良かったな】
「……っ、……」
【そう睨むなって、早いうちから気合いで何とかするのは無理だって分かりゃピンチになった時に賭けに出ねぇだろ?】
理屈は分かりますが、それでも謀ったアークに対する憤りは消えません。
全ての権能を解除し、血と吐瀉物で顔を汚しながら彼を睨め上げる。
【複数の権能を同時に発動するには処理能力が足りねぇのさ】
「つま、り……」
【そう、つまり俺様の脳髄を取り込むしかねぇ】
神核と同じくらい重要なパーツだとは思っていましたが、これは早めに取り返しに動いた方が良さそうですかね。
どれだけ他のダンジョンを取り込み、新たな力を得ても、それらを使いこなす事が出来ないのですから。
【だからまぁ、今は――】
未だに立ち上がれない私の様子に苦笑しながら、アークは空中に上下逆さまのᚨを描き出す。
【――逆文字のルーンで我慢しとけ】
一応頑張ったんだけど、ルーン文字を逆さまに表示するのは出来なかった……(あまりの悔しさに唇を噛み締める)