87.ある老兵の郷愁
誰かな?
あぁ、私がこの世界に落ちてもう三十年になるのか――
「……老けたな……」
最近では鏡に写る自分を目にする度に、そんな事ばかりを考える様になった。
色の抜け落ちた頭髪、刻まれた皺と小さくなった身体……そして日本に居た頃よりも深く大量に刻まれた傷跡。
顔付きも大分変わった。人だって殺した。自分に刻まれた時の長さが相貌から滲み出て、もう自分は暴力とは無縁な日本人には戻れないのだと突き付けられているかの様だ。
「帰れない……娘に会えない……」
まだ小さかった娘にまた会いたい。けれども三十年の歳月は重すぎた。もう最愛の娘の顔は朧げで、あの子の声すらどんなものだったか思い出せない。
私が居なくてあの子がどう生きていくと云うのか? 妻はとても問題のある人物であり、彼女一人で子育てなど出来るとは思えない。
義実家から半ば押し付けられる様に無理やり娶らされた妻だったが、義実家が資産家で上流階級だったせいもあって彼女は結婚後も中々生活水準が下げられないでいた。
その上よく分からないスピリチュアルな物によくハマり、悪い大人に騙され、身近な親しい人物よりも経歴も実績も不明な誰かの言葉を信じて散財を加速させ、あまつさえまだ幼い娘の貞操を危険に晒し、そしてそれら自らの行動に自覚がない。
彼女の様々な言動のせいで職を失い、多額の借金が判明して……娘を連れて妻から逃げようと決心した矢先に私は落ちた。
それは本当に〝落ちた〟としか形容できない現象だった。
踏み出した足が空を切り、一瞬の浮遊感の後にそのまま景色が変わった。
最初はマンホールに足を滑らせたかと思ったが、周囲を漂う雲海に自分は遥か上空から自由落下しているのだと気付いた。
やがて森の中の湖が視界に入ったが、あの高さからの衝撃では水面はコンクリートとほぼ同じ――即死するだろう。そう確信したが、私は生き残ってしまった。それもほぼ無傷で。
訳も分からないまま森を彷徨っていたところを傭兵に拾われ、言葉が通じないながらも身振り手振りで意思を伝えて世を渡り、そして会話が出来るようになった頃には自らも立派な傭兵になっていた。
傭兵として異世界を渡り歩きながら、元の世界に帰る方法を探した。地球からコチラの世界へと落ちたのだから、この世界から地球へとまた戻れるのではないかと考えた。そう思わないとやってられなかった。
そうして判明した事と言えば異世界へ渡る術は神の御業であるという事であり、勇者召喚でもなければ有り得ないという事実だった。
気が狂いそうだった。現に私がこうして異世界に渡っているのだから、他にも方法がある筈だと、もしくは私が落ちた現象に神々が関わっているのではないかと疑った。
「あともう少し……もう少しで届く……」
今年に入って何千年振りかという勇者召喚が行われ、それに呼応するかの様に各地でダンジョンが活発になっている。
異世界間の移動が出来るとしたらこれら超常の存在に他なく、そして勇者召喚が行われたばかりであればまだ世界の穴は塞がれていない筈だ。
今まで触れる事すら叶わなかった神々という存在が積極的に人の世に干渉し、手を伸ばし、声を掛ければ届きそうな距離に来ている。
私はこれまで五つのダンジョンを攻略している。どれも【肉片】や【骨片】、【欠片】と呼ばれる権能すら持たない弱小の存在ではあるが、ダンジョンはダンジョンだ。
この実績から私の敵意が皆無であること、そして忠誠心を示し、ここいらで神々が最も警戒する権能を保持するダンジョン――【大迷宮】と呼ばれる存在を攻略し、褒美として元の世界に帰して貰う交渉をする。
あまりにも分の悪い賭けだ。けれどもこの三十年間で最も勝率の高い瞬間でもある。
「この世界の事など知るものか、神々も悪魔も勝手に争えばいい――」
私はただ会いたいのだ。
「――娘に、悠里に会いたい」
会って、そして……詫びなければならない。
いったい誰のパパなんだ……!?
次章の開始はもう少し待っててね(ごめんね)
 




