70.旅のルーン
ᚱの効力とは如何に!?
「【――気に食わない】」
重なって聞こえた声に未だ重い瞼を持ち上げれば、私をじっと見詰めるアークと目が合う。
左目は存在せず、右目だけしか存在しない。けれども視線があるのと無いのとでは、彼の感情を読み取る上で大きな差がある様です。
驚きに丸くし、ついで逸らし、そしてまた私を見詰めて細められる彼の血の様に赤い右目を見ていると『あぁ、そういえば貴方は表情が豊かだったね』なんて覚えが無い懐かしさが込み上げて――どうやらまだ寝惚けている様ですね。
「……アーク、私にも新しいルーンを教えて下さい」
【最初の文字もまだ極めてない癖に何を言ってんだか】
確かにアークと比べれば、私はまだまだᚨの文字を使えこなせているとは言えません。
けれど、だからといって他の文字を覚えちゃいけない理由も無いと思うのです。
極めずともそこそこ使えるのであれば、新しい手札を増やしていくべきではないかと。
「なので隻眼のルーンと権能を教えて下さい」
【仕方ないから教えてやるが、どちらか片方ずつな】
ベッドから起き上がり、いつもの様にアークに着替えなどの身支度を手伝わせ、動き易い服装に着替えたら前と同じく【神核のダンジョン】の上部にある城の訓練場へと《配置》で自らとアークを移動させる。
髪をポニーテールに一纏めにして屈伸などの準備運動も終えたところでアークへと向き直り、さぁ教えて下さいと無言の催促をする。
【はぁ、しゃあねぇな】
「……」
夢の中の彼と全く同じ動作をしながら、アークは空中に文字を書き出す。
【――ᚱ】
次の瞬間アークの姿が目の前から消え失せる。
一度隻眼のダンジョンマスターが使っていたのを見ていたからか、動揺はせず背後へと振り返るも――そこにもアークは居ませんでした。
【――背後に現れるとでも思ったか?】
視界を大きな手で塞がれると同時に、耳元で囁かれる勝ち誇ったような声にほんの少しの悔しさと苛立ちが募る。
「こうして結果的には背後を取った様ですが?」
【お前が勝手に振り返っただけだろ? 俺様はお前を中心に周囲をグルりと回っただけだぜ?】
「……そのルーンの効果は転移では?」
隻眼のダンジョンマスターを使っている場面を見るに、自らや対象を任意の場所へと飛ばす転移の様な事が行えるルーン文字だと認識しておりました。
ですがアークの口振りから察するに、このルーンが持つ能力はそれだけではない? もしくは似ているようで違う?
【このルーンは“旅”を意味する文字であり、人や物の移動を何事にも妨げられずにスムーズに行う為のものだ】
「では転移ではなく、瞬間移動だと?」
【いや違う――妨げられない移動だ】
「……何が違うんですか?」
転移や瞬間移動とは、そういう物ではないのでしょうか? いえ、地球にもそんな力は存在しなかったので強くは言えませんが。
【時間に妨げられず――】
【距離に妨げられず――】
【あらゆる障害に妨げられず――】
【望むモノを目指す座標へ――】
そう言ってアークはもう一度ᚱのルーンを書き出し、そして私の手を取る――されるがままにされていると、彼はそのまま私を横抱きにして跳躍した。
このままでは天井にぶつかってしまうと反射的に考えた私の予想に反し、私達はいつの間にか雲と同じ高さまで跳んでいました。
酸素の薄い空気と、纏わりつく雲由来の冷たい湿気、吹き荒ぶ風に急速に体感する重力の強さ。
【――それが、結果的に転移や瞬間移動に見えるのさ】
「なるほど」
ᚱのルーンもまた、どれだけの力を秘めているのかは分かりました……分かりましたが、この高さは流石に今の私でも落ちれば即死です。
ダンジョンの領域が及ぶ高度まで落ちた瞬間に《配置》などで勢いを殺しつつ、何処かに転移と着地をすれば助かるかも知れませんが、自由落下の速度でタイミングを見切れるとは思いません。
必然的に身体が固くなり、不本意ながらアークに強く抱き着く形になってしまいました。
【お? なんだ? 俺様の主は高いところが苦手か?】
「黙りなさい。自分の意思でもないのに、急に経験した事のない高度に放り出されて反射的に力が籠っただけです」
【説明が丁寧だな――あいだっ!?】
自らの主人を揶揄って遊ぶ駄目悪魔の顔を無言で殴り、親指で下を指し示す事で『さっさと降ろせ』と主張する。
【それ言外に別の意味も含まれてねぇか?】
「さっさと降ろせ以外に深い意味はありませんよ」
今まで魂を食べて来た人々の記憶を見る限り、ここに地球と同じジェスチャーがある訳ではないようです。
なのでこの世界に置いて、他人に向けて親指を下に振り下ろす動作に深い意味など無いのです。
そうだと決めたらそうなのです。勇者に対してする訳ではないのですから、通じなければ無いのと一緒です。
【へっ、空中デートはお前にはまだ早かったようだな】
「……」
【いでっ、あたっ! 分かったからキレんなって!】
お前にはまだ早かった――その言葉は、私を誰と比べて発せられた言葉だったのかは分かりません。もしかしたら私のジェスチャーと同じく深い意味は無かったのかも知れません。
けれど、何となく……無性に気に食わなかったので無言で腕を伸ばしてアークの頬を拳でグリグリと削り取る。
【それ地味に痛えからよ、表情も無く無言でやるの止めてくんねぇか?】
「……」
【分かった分かった! 俺様が悪かったよ! 今後は二度としねぇから!】
「……そうは言ってません」
【あぁ?】
何となく自分が大人気なく感じてしまい、彼から目を逸らしつつも小声で抗議する。
「……私の同意を得れば構いません」
そう言ったきり、黙り込んだアークがじっと私を見詰めてくる。常に彼の視線を、見られているという気配を感じる。
何か、そんなにおかしな事を言ってしまったのか、それとも本格的に呆れてしまったのか、そこまで言葉も出ないほど変な発言はしていないと思うのですが。
【――フッ、我が侭なお姫様の言う通りに】
その失礼な表現の仕方に抗議しようと口を開くよりも前に、アークはᚱのルーンを空中に書き出した。
「このっ――……」
悪戯っぽい笑み浮かべながら行われたそれ――わざと地球の絶叫アトラクションを何倍も酷くしたような速度と道筋で地上に戻る際に、私は不本意ながら……そう、本当に不本意ながら今までで一番強くアークに抱き着きました。
勿論ᚱのルーンも術者や刻み込む対象によって効き目が違って来ます。それは全てのルーン文字で共通です。




