68.脳髄
一方その頃――
「〜♪」
ガリア聖王国によって召喚された勇者の一人――石神透は供もつけずに単独で何処かの長い螺旋階段を鼻歌を唄いながら降りていた。
楽しげに、まるでこれからの新生活に夢と希望を抱き、期待で胸を膨らませるように、その足取りは軽かった。
「……っ、せっかちだね? 気持ちは分かるけど、今この瞬間の愉しみという物もあるんだよ?」
時折頭痛に顔を顰め、頭の中に響いて来る呼び声に苦言を呈しながらもその歩みの速度は変わらない。
通常であれば、頭の中で巨大な鐘を鳴らされているかの様な言葉にならない声に突き動かされ、痛む自身の頭を抑えながらフラフラと呼び出しに応えて目的地へと急ぐ筈だったが、彼にそんな様子は一切見られなかった。
「もう少し、そう……もう少しで着くからさ」
そんな苦笑混じりの言葉が示す通り、そう間を置かずに石神透は目的地に辿り着く――そこには成人男性よりも大きな瓶に入れられ、厳重な封をされた存在が待っていた。
紅い葉脈が走った漆黒の頭蓋骨という名の杯に、ラピスラズリのように青く燃え上がる大脳が納められており、頭蓋よりはみ出て、下へと長く伸びる脳幹は泡のように膨れたり弾けて消えたりを繰り返しながら、細長い人型を取っている。
【……】
そんな、生きている異形が……いや、かの大悪魔の一部がジっと石神透を見詰めていた。
「やぁ、久しぶりだね? 僕が召喚されて以来だから……もう結構経つね」
【……】
「初対面の時からずっと僕を見てたでしょ? 最初は桜庭くんに興味があるのだと思ってたけれど、あれからずっと頭の中で呼び掛けられるものだからとうとう来ちゃったよ」
【脳髄】は黙して語らず、ただ最初に出会った時と同じ様に彼へと要求を突き付ける――早く自分を解放しろと、そしてマスターとなれと。
石神透の長話が終わる気配が無いと察するや、言葉にならない声を大きくする。
「わかったわかった、僕の負けだよ」
まぁ、千年もの間封印されてたんじゃ気も急くかと、石神透は溜め息を吐きつつ【脳髄】が納められた瓶に触れた。
「へぇ」
内側から【脳髄の悪魔】が、外側から【消失の勇者】である石神透が女神の封印を侵食していく。
最初こそ強烈な抵抗があったものの、悪魔はともかく、勇者に封印を解かれてしまう事を想定していなかったのか、次第に何かが割れるような音が響き渡る。
これまで耐え忍んでいた悪魔の攻勢と、石神透が徐々に自らの力の扱いに慣れ始めた事によって音の間隔が短くなり、そして――まるで空間ごと砕けてしまったかの様な破砕音と共に【脳髄の悪魔】がその身を現世に曝す。
【ご苦労】
「え? それだけ?」
【未だ栄養が不十分なれば】
「ふーん、封印で力が弱ってるってこと?」
【左様】
まぁ、千年間も仇敵の力によって封印され続ければ弱りもするだろうと、一応は納得する事にした。
【我がマスターとなるか】
「なるよ」
【宜しい】
勇者が人類を裏切り、優勝候補である【脳髄】のダンジョンマスターに成るというのに酷くあっさりとした問答だった。
ダンジョンの悪魔が女神の尖兵たる勇者に助けを求めるのも、その勇者が悪魔の手を取る事など女神だけでなく、古の大悪魔本人ですら想像しなかったに違いない。
「それで? どうすれば僕は君のマスターに成れるのかな?」
【滅びた我がダンジョン、その最奥に座すのだ】
「……活動を停止した、昔の【脳髄のダンジョン】に向かえば良いんだね?」
【左様】
「なるほどね〜、またスニーキングミッションかぁ」
厳重な監視やら守りやら、そういうの突破するの疲れるんだよね〜などと軽い調子で言いつつ、現状この世界で最も警備が厚かったであろう脳髄に封印地まで辿り着いた男は頭の中で次の予定を立てる。
鍵や罠の類いは自らの勇者の力で消せるが、肉眼による監視や、自分が暫く姿を晦ます事の言い訳などの対策をまた考えないといけないと。
「僕がダンジョンに向かうまでの間、君はどうするの?」
【マスターと共にある】
その短い返答の後、脳髄は石神透と重なるようにして消える。
(真にマスターとなるまで、其方の力を存在維持に使わせて貰う)
「ふーん、なるほどね……わかったよ」
確かにちょっと疲労感があるかな? などと考えながら石神透が踵を返したその瞬間――ちょうど見回りに来ていた兵士が現れる。
「ゆ、勇者様!? これはいったい……」
「あ〜……」
タイミングが悪い事に、決められた時間以外の、完全にランダムで見回る瞬間に立ち会ってしまったようだ。
その事に面倒そうな声を出しながらも、ふと警戒した眼差しを向ける兵士へと思い付きを口にする。
「女神様から神託があってね、どうやら本当に【脳髄】が封印を破って逃げ出したようだ」
「なんと!」
「これから僕は仲間と一緒に活動を停止したかつてのダンジョンに向かうから、国王陛下達には君から連絡して貰えるかな?」
「了解です! 大至急陛下へと報告に向かいます!」
そう言って少しばかり躊躇しつつも、兵士は報告が先だと自分に言い聞かせ、石神透に背を向けた――
「――嘘に決まってんだろ」
「がァ!?」
一瞬で間を詰めた石神透は、そのまま兵士の後頭部を鷲掴みにしながら、自らが持つ【消失の勇者】としての力を行使する。
「あっ、がぁ……!! あぁ……!!」
石神透の手を振り解こうと暴れる兵士を硬い床へと押し倒し、そのまま頭を抑え付けながら記憶を消去していく。
「君はここで見聞きした事は全て綺麗さっぱり忘れるんだ……いいね?」
「あっ……」
次第に抵抗は弱くなり、一度大きく身体を跳ねさせたかと思えば兵士は口の端から涎を垂らしながらフラフラと立ち上がり、覚束無い足取りで何処かへと消えていく。
少し歩いたところで正気に戻り、いつの間に現在地までの見回りを終えたのかと不思議に思う事だろう。
「勇者と女神の肩書きは強いなぁ……いや、それとも【脳髄】の封印が解けているのは事実だからって事で、僕への不信感も一緒にとりあえず報告する事を優先したのかな?」
(だとしても視線を切り、背を向けるのは悪手であった)
「そうだね、あまり頭がよろしくなかったんだろうね」
【脳髄】なんて名前を冠している悪魔の監視を担っている一人が、あんな頭の出来では遅かれ早かれ自分の助けが無くても封印は解かれていただろうと、石神透は兵士が去った後の空間へと侮蔑と哀れみの籠った視線を向ける。
「さて、じゃあ君の完全復活までもう少し頑張ってみよう」
(油断はするな)
「分かってるよ、君こそ僕を退屈させないでよね?」
人類の一番の敵は女神でも悪魔でもない――〝退屈〟だよ。
そんな事を言いながら石神透はその場を後にした。
勇者兼脳髄のダンジョンマスター爆誕!