小章四 風の王夫妻の寝室
シェラは大きなベッドの上で目を覚ました。ここは、風の王夫妻の寝室だ。
部屋は真っ暗だ。まだ、夜明けまでは時間があるらしい。寝返りを打ったシェラは、愛しい気配が変わらずあることにすぐに気がついた。隣で寝ているはずのリティルだ。
シェラは手を伸ばそうとして、その手を止めた。
リティルが、ベッドの上に体を起こして座っていたからだ。微動だにしないリティルは、ジッと暗闇を見つめていた。闇で表情が見えないはずなのに、シェラの目にはリティルの暗い輝きの瞳がハッキリと見えていた。
「リティル!」
シェラはゾッとして、名を呼んでいた。その声にビクッと体を震わせて、闇の中のリティルがこちらを向いた。
「シェラ?起きてたのかよ?」
「どうしたの?」
「へ?オレ、変だったか?」
「自覚があるの?」
「自覚……か。君に呼ばれるほんの一瞬前に、オオタカの鳴き声を聞いた気がしたんだ。オレ、いつからこうやってたんだ?」
リティルは手を伸ばすと、サイドチェストの上のランプに明かりを灯した。リティルの瞳は、いつもの金色の炎のような光が立ち上るような生き生きとした虹彩だった。
リティルの姿がハッキリ見えて、シェラは咄嗟にリティルに抱きついていた。体が震えていた。こんなに震えていては、リティルが気にしてしまうのに、抱きしめることも、震えることも止められなかった。
「余っ程おかしかったんだな?ごめんな、何を考えてたのか、それすらわからねーんだ」
「インファは……あの子はあなたのために戻るのよ?あの子は、あなたを裏切らないわ!絶対に!」
「はは、何言ってるんだよ?そんなこと、わかってるぜ?あいつはオレの副官だ。ケロッとした顔で戻ってきて、オレのそばにいてくれるさ」
そう言って、シェラを抱きしめたリティルの瞳は、ランプの光の届かない闇を見ていた。
――深淵――
深淵は、地下にあるために時間がまるでわからない。
だが、ゴーニュもインジュも、時間がわかるかのようにグーグー寝ている。インファは、魂でしかないために眠くなることはなく、ずっと起きていた。それでも、今まで時間がいくらあっても足りないと思っていた。ゴーニュに、精度が下がっているから休めと言われて、最終的には「ワシが寝ている間は何もするな!」と言われてしまっていた。が、インジュが来てから、いくらでもやれ!と方針が変わった。インファも感じている。インジュがここにいるようになって、なぜか心に余裕ができた様な気がしていた。
インファは炉に向かい、ユラユラと揺らめくイヌワシの胸に手を当てて、意識を集中していた。その瞳が、フッと開かれた。
気配を感じた気がしたのだ。
『……セリア?』
インファは、ここにいるはずのない妻の名を、無意識に呼んでいた。その名が口から出たことを自分で驚きながら、自嘲気味にフッと笑った。
『セリアが、ここに来られるはずがないというのに、オレは、そんなに、彼女が恋しいんですかね?』
聞く者のいない、答える者のいない、ただの独り言のはずだった。
『インファ、それ本当?』
え?とインファは耳を疑って、静かな深淵を見回した。そして、透明な壁の向こうに視線を奪われた。キラリッと、硬質な光が瞬いた。その光は気のせいかと思われるような煌めきだったが、ジッと見つめていると、また瞬いた。その輝きは様々な色に輝き、次第に人の姿に落ち着いた。
『行っちゃダメって言われたんだけど、来ちゃったわ』
透き通った微笑みを浮かべ、彼女は笑った。
『セリア……セリア!』
それは意識体ですか?どうやってここへ?聞かなければならないことがたくさんあるのに、この口から出たのは彼女の名だった。インファは隔たれた壁に、ドンッと手をついていた。セリアは、インファと同じ透き通った姿でスウッと空を滑るように近づいてきた。
『これ、越えられるかしら?フフ、絶対に怒られると思ってたわ』
セリアは透明な壁に気がついて、触って大丈夫かな?と恐る恐る触れた。その手は壁を突き抜けていた。壁のこちら側に突き出てきた手を、インファは掴むとグイッと引いていた。セリアが驚いた顔をしたが、そんなことに気取られている暇はなかった。インファは、乱暴にセリアを抱きしめていた。
『インファ?え?どうしたの?』
――逢いたかった……
絞り出すように、耳元で囁かれ、セリアは驚いて瞳を大きく見開いたが、ああ、この声!と込み上げてきた想いのままに、ギュッとインファの背中に腕を回した。
『わたしも、わたしも逢いたかったわ!インファ!8年よ?8年も行方眩ませて!もおおお!もう逢えないと思ったわよ!』
『オレも、逢えないと思っていました。もう、城から出ているだろうと……』
『出る気なんてなかったわよ!悪夢にうなされて、仕方なく……ルキルースへ行ったら、ルキ様に捕まっちゃうし……。ルキルースは寂しいのよ!あなたの、気配がしないから……』
『風の城に、オレはまだいるんですか?もう、薄れてしまったと思っていました』
インファは、顔を上げた。確かめるようなその表情が冷静に見えて、セリアはイラッとした。リティルとインジュがどれほど泣いてきたのか、知らないから!と。
『消えないように守ってるのよ!リティル様とインジュが必死に!インジュったら、インファに似てきちゃって、本当にもう心配だったんだから!』
あの子は役者だから!とセリアは怒っていた。そんな、真っ向から感情をぶつけてくれるセリアが、インファは愛しかった。彼女は、雷帝を恐れない。退かないと決めたら、王をも恐れるインファのイヌワシの瞳を、真っ直ぐに見つめ返してくる。
インジュもリティルも、とっくに諦めていたのに、それでも2人は”インファ”を消さないように守ってくれたのだと、インファは偽りのない事だったのだと確信した。インジュが頑張ったと訴えたことを、信じていなかったわけではない。しかし、風の城の最上級の風の精霊2人が諦めていることを、一家が知れば”インファ”という存在は、とたんに思い出に変わる。ノインや無常達がいくらインファの生還を信じてくれていても、王とインジュが諦めればそれで終わってしまうのだ。
ああ、しょうのない2人だな……応接間が涙でいっぱいになるくらい泣いた!と憤っていたインジュの言葉が思い出された。
――オレの為に、地獄の中にいるのなら、忘れてくれて構わなかったんですよ?居場所は、自分でもぎ取りに行きますから。ですが、父さん……インジュ……ありがとうございます
インファは、取り戻しに来てくれた2人に、再び感謝した。
そしてはたと、妻に怒られるようなことを思わず口にしてしまった。
『あなたの中のオレは?消えなかったんですか?』
『試してるの?』
恨めしそうにセリアはインファを遠慮なく睨んだ。
『音沙汰もなく8年です』
覚悟していたとインファは言った。わたしの愛を、信じてくれなかったの?とセリアは哀しくなったが、精霊としても8年は決して短い時ではない。そして、インファは、自分が死んでいると認識されていたことを理解していた。8年あれば、そろそろ前を向いていてもおかしくない年月だ。
でも!と、セリアはインファの腕から逃れ、透明な壁の向こう側へ立った。
『そうね、8年よ。忘れられたら、楽だったわ。でも、忘れられなかったわよ!インファはどうなの?わたしが忘れてたら、どうしてたの?』
『上へ戻って、あなたがいなければ、迎えに行こうと思っていました』
『わたしが忘れたとしても?』
『もう一度、奪いに行きましたよ』
『あなたの中のわたしも、消えなかったの?』
『消えませんよ?あなたが城を出ていることを考えて、何度か落ち込みましたね』
インファは当然の様に言うと、寂しそうに視線を床に落として小さく笑った。
『インファ……思い出にしなくてよかった……』
『セリア、もう少しで戻れます。待っていてくれますか?』
インファは、セリアの左手をとった。左手の薬指、そこにあったはずの婚姻の証は、なくなっていた。精霊の一部を使って作る婚姻の証は、作った精霊の死と共に消えてなくなってしまう。インファの肉体の消失で、セリアに贈った婚姻の証もなくなってしまったのだった。
『イヤよ!』
『セリア……そこはハイと言ってくれませんか?』
傷つきますねと、インファは苦笑した。
『ずっとは無理だけど、明日また来るわ!ルキ様に止められて、風のお城に帰れないのよ。もう、インファと離れてるのはイヤなのよ!』
『気持ちはわかりましたが、どうやってここへ来たんですか?今のあなたは意識体ですよね?危険はないんですか?』
『インジュの夢からここへ繋いだの。もうここへ意識を繋げたからいつでも来られるわ。でも、今わたし、ちょっと不調だから長くは意識を飛ばせないのよ』
『不調なんですか?』
『来るなって言わないで!わたしが衰弱してるの、インファのせいなんだから!わたしのこと心配してくれるなら、早く戻ってきて、ルキルースまで迎えに来て!』
『わかりました。善処します。セリア、キスしていいですか?』
『えっ!え、ええと…………はい……』
インファはこの壁を越えられない。セリアが拒めば、彼にはどうすることもできない。セリアは、このまま逃げてもよかった。だが、セリアはもう一度壁を自ら越えて、インファの前に立ったのだった。
愛しそうに、インファの透き通った瞳が、僅かに見下ろしてくれていた。変わらない愛情を感じて、セリアは頑なに風の城を出なくてよかったと思った。
風の城を、セリアは出ようと思ったことがあった。それも、1度や2度ではなかった。
どこにいても、インファの影から逃れられなかった。城での生活が幸せであったことが災いして、インファはもういないと常に突きつけられた。哀しくて、寂しくて、どうしようもなかった。
一家の前では、あいつは帰ってくるさ!と笑っているリティルとインジュが、インファがいない!と泣いていることを知っていた。2人の苦しみを癒やしてあげられなくても、2人のそばにいようと思った。
そうやって、セリアも葛藤していた。
雷帝・インファ――たった1人、彼がいなくなっただけで、風の城は崩れ落ちそうな危うさに見舞われた。風の王・リティルと共に、大きな存在。それが雷帝・インファだ。
わたしの夫。わたしは、こんな大変な精霊の妻なのだと、セリアは何度目か自覚した。
セリアは、見つめるばかりで、一向に口づけしてくれないインファの首を捕らえると、自ら唇を重ねていた。インファが驚いたような気がしたが、構うもんか!
ああ、体はないのに、インファは温かい。もっとインファの風を感じたくて、セリアは思わずギュッと抱きしめていた。そうして、気がついたらインファを押し倒していた。
『――セリア……意識体なのに、なぜ押し倒せるんですか?』
こちらは魂で、体重がないのにとインファは困って笑っていた。
『それだけ想いが強いのよ!わたしの8年間の重み、感じなさいよ!』
『このまま、あなたと溶け合いたいですね。苦しみも地獄もすべて、オレに教えてほしいですよ』
座り込んだまま、インファの腕がセリアの体に絡まってきた。
『イ、インファ、また、あなたって人は……!でも、知らなくていいわ。これから先、わたしに喜びをくれるでしょう?あなたの笑顔が戻るなら、わたし、その方がいいわよ』
『了解しました。その願い、叶えますよ。セリア……愛していますよ』
『わたしも、愛してるわ!インファ!』
唇が、再び重なった。そして2人は、再び分かたれた。