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四章 いにしえの英雄

 インジュから連絡を受けたラスは、リティルをエーリュに任せてそっと応接間を出た。

まったく、雷帝夫妻の寝室に入って家捜ししろなんて、インファの許可があってもやりづらいことこの上ない。ラスは、誰も廊下にいないことを確認すると、さっと部屋に入った。

インファもインファだ。8年いなかったのだ。セリアがこの部屋をどんな使い方してるのか、知らないだろうに。セリアがもし、知られたくないモノを持ってたら、どうするんだ?と気が気じゃなかった。

この部屋の主ではないのに、部屋はラスを迎え入れてくれ、パッとランプに火を灯してくれた。

 深い森のような部屋だなと思った。

深い藍色の壁紙には、暗い緑色の木々が描かれていて、とても落ち着いた内装だ。天井で輝く小振りなシャンデリアには、星々が散りばめられていた。2人がけのソファーと机の奥、扉のないアーチの先に、天蓋からレースのカーテンが引かれたダブルベッドが見えて、ラスは慌てて視線を右に向けた。そこには、教えられたとおり、ガラス戸の嵌まった大きな木製の本棚があった。

ああ、この本棚か?といけないことをしているような気分になりながら、ラスはそのガラス戸をゆっくりと開いた。

 上は……手が届かないので、下から順番に確かめるかと、ラスは膝を折った。

インファは、いろいろな本を読むんだなと、きっちりジャンルわけされている本の背を順に見ていた。創作、歴史書、魔道書、図鑑――様々なジャンルの本が隙間なく並んでいた。

その中で、手の平サイズの、小さな本が置かれているのに気がついた。背を読むと『ワイルドウインド』とあった。

あった、これだと、ラスは恐る恐る丁寧に引き出した。深緑の厚い表紙には、金文字で背に書かれていた名と同じ名が、当然だが書かれていた。

 リティルの生い立ちが書かれた本だとインジュは言っていたが、なぜそんなモノが出版物になっているのだろうか。この本の存在は、風一家ならば誰でも知っているらしい。堂々と読んでいても、大丈夫と言っていたが……リティルの前では読みづらかった。ラスは、これくらいの本なら、2時間もあれば――と思い、意識を集中すると、城の地下にいるインジュの音を探し、それに向かって話しかけた。

ラスの固有魔法・心音の共有だ。音の力と相性がよく、ラスとの信頼関係がある者と心で会話ができる魔法だ。現在ラスと繋がっているのは、エーリュとインジュだけだった。

『インジュ、ワイルドウインド、見つけたよ。たぶん2時間もあれば読めるから、このままインファの部屋で読んでもいいかな?』

『2時間で読めるんです?凄いですねぇ。待ってください…………いいそうです。読み終わったら教えてください』

『わかった。じゃあ、後で』

ラスは遠慮がちに、2人がけのソファーに腰を下ろした。応接間にあるワインレッドのソファーと形状は似ていたが、張られている布の色が深い落ち着いた緑色だった。目の前のテーブルは木製だが、天板には薄い青色のガラスが使われ、木の割れ目に小さな光の宿った色とりどりの蛍石の原石が散りばめられ、まるで水の底に沈んでいるようだった。

 ラスはこの本に、リティルとシェラ夫婦の馴れ初めも書かれていることを知らなかった。途中で気がついたが、読み切らないわけにはいかず読み切ったが、インジュに、先に言っておいてくれ!と怒鳴る羽目になったのだった。

『あはは。そっちに驚いたんです?そんな過激でもなかったでしょうに』

『そういう問題じゃない!……リティルがグロウタース出身の精霊だってことは知ってたけど、まさか、あんなふうに造られた精霊だとは知らなかったよ。融合の秘術……先代風の王は、自分が蘇る為には使わなかったんだ……』

『そうなんですよねぇ。14代目風の王・インは、本来の使い方なら、グロウタースの民と融合してすべてを奪い、自分が復活する邪法・融合の秘術で、産み出したリティルに魂と作り直した体あげてるんですよねぇ。それで、今回問題になってそうなのが、グロウタースの民のほうです。ウルフ族の英雄・レルディード』

『名前だけで、これといって記述はなかったけど?……ん?あれ?』

『何か思い付きました?』

『ゾナ……レルディードのこと、知ってるんじゃ?ゾナは元々、リティルを風の王に教育する為に作られた魔道書だった。それを作った賢者は、レルディードと同じ、英雄の1人だ!』

『青い業火の賢者でしたっけ?違いましたっけ?あの人魔道書なのに、炎の魔法の使い手なんですよぉ?知ってましたぁ?』

『魔導士なのは知ってるけど、そんな異名の賢者だったのか……インジュ……』

『何です?』

『リティル……あんなグレてたんだ……ケンカ三昧で、酒とその、女性って……』

『今でもケンカ上等ですけどねぇ。それに一家は結構乗っかります。ボクもお父さんも乗っちゃいますよぉ?それと、女性関係はさほどでもないって言ってましたよぉ?』

『聞いたのか!』

『だって、気になるじゃないですかぁ!今のリティル、シェラ一筋ですよぉ?あんな脇目も振らない人が、取っ替え引っ替えしてたなんて、信じられますぅ?』

もの凄い気になって、質問攻めにしましたと、インジュはケロッとした声で言い放った。

しかも、インジュはわざとシェラの前で質問攻めにした。リティルは焦ったが、シェラが「是非とも聞きたいわね」と余裕の笑みで笑い、リティルは「怒るなよ?」と言い置いて、話してくれた。

リティルの女性遍歴、結論は、ほぼなかった。『ワイルドウインド』に出てくるシェラ以外の女性との濡れ場、あれは知り合いの娼婦だった。その後も数回遊びはしたが、恋愛関係になかった。リティルとシェラは、初恋を貫いた形だったのだ。

シェラは「そう」と言って笑っていた。リティルは巨大な魔物を、10体くらい相手にしたような疲労で、グッタリしていた。そして「大昔の話、しかもそこを突くなよ!」とインジュは怒られたのだった。

『そ、それにしたって……そういうことしても許されるインジュが、たまに羨ましいよ。はは、思いの外壮絶で、もっとリティルを労りたくなったよ……』

10才で絶対的だったインの庇護を失い、13才で養父を殺され、2年の暗黒時代を経て、15才で6歳の魔導士の少年を引き取って育てた。そして、19才で風の王だ。その道は決して平坦ではなかった。

そして今でも、苦労と笑顔の絶えない王だ。なぜ笑っていられるのか。インジュが、リティルは色々麻痺してると言っていた意味が、やっとわかった。

『あはは。真面目君が絆されたところで、破壊神降臨は阻止しましょう!ゾナ、巻き込むかどうかはラスに任せますよぉ。鬼籍の書庫は、お父さんの名前出せば、シャビさんもファウジもいろいろしてくれるんで、お願いします』

『わかった。……ゾナにも来てもらうよ』

ラスは心音の共有を切った。本をきちんと戸棚に戻すと、廊下に誰もいないことを確認し、足早に応接間を目指したのだった。 


 応接間につくと、暖炉のそばの定位置の椅子で、ゾナは分厚い本を広げていた。ゾナは大半、魔導書の姿で椅子にいる。人の姿をしているのを見るのは、ラスには珍しかった。

「ゾナ、ちょっと付き合ってほしいんだ」

緊張して、単刀直入になってしまった。ゾナはゆっくり顔を上げた。その瞳が、意外そうにラスを見ていた。ラスはその瞳に怯んで、思わず視線をそらしてしまった。

ゾナは思わぬ者からの誘いで首を傾げたが、何も聞かずにゆっくりと立ち上がった。

「インジュかね?」

「……うん」

「リティル、少し席を外すがいいかね?」

ゾナは、2、3メートル離れた、聳えるような窓際に置かれたソファーに向かって、声をかけた。この応接間は、大型のドラゴンが優に舞えるほど広いが、声を張り上げないでも風がお互いの声を届けてくれる。ソファーでデスクワークしていたリティルが頭を上げ、こちらを振り返った。

「ああ、いいぜ?」

リティルも何も聞かなかった。もう暴走はしないといっても、男性恐怖症のラスがゾナを誘うなど不自然だ。だが、リティルは何も聞かないでくれた。そんなリティルに話せないことが、ラスにはとても心苦しかったが、ゾナは応接間から殆ど出ず、ノインはルキルースから戻っておらず、リティルが応接間を離れることはよほどのことがないかぎりない状態だった。悠長にしていられない事態で、リティルの前でゾナを誘うしかなかったのだった。

「行くとしよう。武官殿」

言葉少なく、ゾナは先を促した。ラスは、リティルに深く頭を下げると、城の奥へ続く扉を出たのだった。

 廊下を行きながら、ラスはゾナに詫びていた。

「ゾナ、急にごめん」

「それはいいが、何かね?インファ絡みなのは察するが、君にしては軽率だったと言わざるを得ないよ」

君がオレを、しかも、インファ絡みだとわかる状況で、リティルの前というのは……とゾナは容赦なく難色を示した。そういう彼だから、リティルは時計塔に帰さないんだろうなと、ラスは思って再び詫びた。そして、言いにくそうに切りだした。

「……ゾナは、リティルの過去を知ってる?」

「あの本かね?読んだのならば、確かめるまでもないと思うがね」

14代目風の王・インがリティルに後を託さねばならなくなった事案、すべてを腐敗させる闇の王。闇の王を完全に滅するため、ゾナは、未来に目覚めるリティルの教育係として作り出された。当時は、魔書・ゾナデアンという存在で、時の魔道書ではなかった。

養父を殺され、わかりやすく道を踏み外したリティルを、1番そばで守っていたのは彼だ。

「レルディードのことは?」

「……ずいぶん、古い話を蒸し返すものだね」

「ごめん。でも、大事なことなんだ。ミリスの予言、リティルを破壊神にするのは、彼かもしれないんだ」

「……とうの昔に死んだ者が、今更リティルに何ができると言うのかね?」

ゾナは、隠さず不快感をあらわにした。気持ちはわかる。共に命を賭けて戦った仲間のことを悪く言われているのだ、気分が悪くて当然だ。

「リティルの殺戮の衝動は、2つあるんだ。1つはオオタカ、もう1つは、オオカミ。インファが、融合が失敗している可能性はないか?って。レルディードがどんな人物だったのか、それを調べてほしいって頼まれたんだ。レルディードは先代風の王の契約者だった。そして――」

「リティルを造る際、体を提供した。しかし、その儀式の時、彼はすでに死んでいたよ?戦いには勝ったが、生き残ることはできなかったのだよ。オレを作った賢者は、遺言に従い、儀式を行い、リティルを造る手助けをしたにすぎないのだよ」

「どんな人物だったんだ?」

「人を惹きつける魅力のある、正義感の強い若者だったと記憶しているよ。もっとも、オレにとっては他人の記憶だがね」

どこに行くのかと聞かれ、ラスは鬼籍の書庫にと答えた。

「インファもノインも、リティルは正しい風の王で正義とはほど遠いって。正しいことと、正義は違うのか?」

「君はどちらかというと、正義の側に立つ者だね。ただし、気をつけたまえ。心の中に揺るがない1つを持たなければ、風としてグロウタースに関わることは危険を伴うと、心に留めておいてくれたまえ。君がリティルを、永遠に慕いたいというのであればね」

「それはもちろん。リティルを裏切るようなことはしないよ。そんなことをすれば、ジャックに殺されてしまう」

今ここに、精霊として生きていることは、ラスにとっては奇跡だった。消えてしまった半身、殺人鬼のジャックが、風の王の下へ帰りたいと願い、リティルはそれを叶えてくれた。リティルを裏切ること、それは、ラスを信じてこの心に同化してくれたジャックを裏切ることにもなる。ジャックも、ラスにとっては恩人だ。彼がいなければ、ラスはここにはいないのだから。

「君は、罪もない者を感情なく殺せるかい?」

「え?まさか!」

「では、その者が敵対する者に仕える兵士だったとしたら、どうかね?」

「リティルの敵ならオレの敵だ」

「リティルは、そんな理由ではその兵士を決して殺しはしないよ。なぜだかわかるかね?」

「………………風の獲物ではないから?」

「わかりやすく言えば、その者は、ただ敵対する者に仕えているというだけで、風に狩られるような罪を犯していないからだね。リティルは、罪なき命は奪ってはいけないという、至極単純な正しさに従って風の王を遂行しているのだよ。正義という言葉は、強烈な光のように目を眩ませる。正義を試行する為だと信じれば、自分の心すら偽ることを可能にしてしまう。正義は裏を返せば悪だということを、知らねばならないのだよ」

「……リティルはずっと、正しかった?」

ゾナは、知的な瞳にフッと優しげな微笑みを浮かべた。

「抗い続けて、守り通したよ。風の王となる前、リティルは法を犯すようなことは一切行ってはいないよ。組織の者とのケンカなど、取るに足らない。オレは殺す殺すと物騒なことを言われ続けたが、リティルの刃がオレに届いたことは、一度もなかったと記憶しているよ」

「そんなに、酷かったのか?」

「本心ではないよ。反抗期だ。……今にして思えば、あれは、殺戮の衝動に抗っていたのだね?オオカミとオオタカ……オオタカは風の王の側、インの導いた正しさだとすると、オオカミの正体は?インファがそういうのも無理はないね」

ゾナは小さくため息を付いた。

「もし、レルディードがリティルを乗っ取るのだとしたら、あなたはどうする?」

ゾナは立ち止まり、ラスを見た。その微笑みすら浮かべるコバルトブルーの瞳には、愚問だねと言いたげな色が浮かんでいた。

「リティルを取り戻し守ることを、選択するだろうね。もっともオレは傍観者なのでね。あまり手助けしてやれそうにないがね」

「未来が、見えているのか?」

「ミリスには共有するなと言ってあるのでね。オレには見えはしないよ。ただ、旧友が正義を振りかざしリティルを貶めるのだとしたら、そんな哀しいことはないね。オレの目から見て、リティルは優しく気高い風の王だ。慈愛の王というのは、少々言われすぎのような気もするが、彼の精神が異常なのだとしても、あのままのリティルでいてほしいと、思ってしまうよ」

たとえその心が引き裂かれ、血を流すのだとしても、その優しさで救い続けてほしいと無責任に思ってしまう。そんな皆の心を背負って、リティルが生きていることを知っていても。

「どんなときも、笑っていてほしいと、リティルに言ってしまったことがあるんだ。そのことを、今でも後悔してる。オレは、リティルが笑っていられるようにしたい。オレにとってリティルは、大事な王なんだ」

「それには同意するが、オレはリティルの笑顔が嫌いなのだよ。憎しみも、怒りも、哀しみも、隠さず晒せばいいではないか。インファの事が悔しいのだと、泣いてほしかったよ」

ゾナは、うつむき辛そうに微笑んだ。

「ゾナ……」

「息子の死を悼むことも許されず、リティルは風の城の希望であり続けたのだよ?ノインとシェラ姫がいなければ、リティルはとっくに押しつぶされていたのではないかね?ラス、インファは元気だったかね?」

「うん。変わらずインファだったよ。そういう意味じゃ、インファの方が感情豊かなんだな。インファ、自分がパワーアップできると知って、明らかに動揺してたよ」

「強くなれるのにかね?」

「リティルを越えてしまうと知って、戻ってもいいのか?と悩んでいたようだったかな?」

「風の王を脅かすとでも思ったのではないかね?彼らしいではないか。なるほど、リティルが落ち込んでいたのは、インファに追い返された為だったのだね?」

ゾナは、インファは狩り対象ではなかったと聞いていたが、それにしてはリティルが落ち込んでいた。どうしたのかと気にはなったが、音楽夫妻がそばにいたため傍観していたのだった。

「インファはもう、躊躇ってないよ。必ず戻ってくる。それで、リティルの世話を焼いてくれるよ」

「そう願うがね。インファでなければ、どうでもいいことに気を使って勝手に追い詰められるリティルを、引き揚げてやれないのでね」

「ははは。インファ、死んでる場合じゃない。あっちはインジュに任せて、オレ達は」

「リティルを守るとしよう」

2人は、ハゲワシの刻印された鉄の扉を開き、地下へのらせん階段を降りたのだった。


 狭いらせん階段を降り、飾り気のない鉄の扉を開くと、桃の香りのする温かな風と、花曇りの柔らかな光が差し込んできた。

明るさに目を細めながら部屋に足を踏み入れると、足の裏が柔らかな草を踏んだ。

「ほう、話には聞いていたが、これは美しい部屋ではないか」

ゾナは思わず感嘆の声を上げていた。ラスも、インファと共に数回しか訪れた事のない部屋だ。相棒のインジュは、ここにはあまり入ってはいけないと言われていると言って、ラスが一緒ならいいという許可が出ていたが、入りたがらなかった。

こんなに綺麗で、時間を忘れてしまいそうな部屋なのに、なぜインジュはここが苦手なのだろうかとラスは未だに謎だった。そう思うラスも、まだ数えるほどしか入ったことはなく、滞在時間は本当に短かったが。

 鬼籍の書庫――死者の一生が書かれた本が眠る、死神の庭。

城の地下にありながら、どこか異国の屋外の庭園にいるような作りの部屋だ。

この部屋は、部屋の主である無常の風の2人の故郷の風景を模していると、ノインが言っていた。リティルは、この部屋を作るにあたって、彼等が人間として生きていたころのその場所を調べ、2人の話を聞いたらしい。多少の理想とリティルのセンスを加え造られた、風の城の中でも指折りの美しい部屋だ。

天井には疑似の太陽があり、月や星も浮かぶという。

緩やかな起伏のある床を緑の草の絨毯が覆い、中央に蓮の花の咲く池があり、小川が流れこんでいた。宝形造りの屋根の乗った、六角形の水榭と呼ばれる、壁のない東屋が池の畔に佇み、ジグザクの歩道が向こう岸にある水榭と繋がっていた。

白と赤の花桃が咲き乱れ、青々とした柳や桃を実らせた木々が植えられている。

「ラス、ゾナ、珍しいのう。何用じゃ?」

ハゲワシの骨の翼を羽ばたき、浅黒い肌の精悍な老人が舞い降りてきた。白く膝裏まである長い髪をポニーテールに結った、軽装の金の鎧を身につけた武人然とした精霊だった。

この書庫の主の一人である、無常の風、門番・ファウジだった。

「ファウジ、インジュの代わりに来たんだ」

「インジュ?あやつ、具合でも悪いということはあるまいのう?」

ファウジはインジュと聞いて「最近のあやつは、雷帝殿にますます似てきて落ち着かんのじゃ」と顔をしかめた。

「ファウジ、報告したいことがあるんだ。シャビも呼んでくれないか?」

ファウジは「良い事柄を期待するぞ?」と言いながら相棒の風を呼んでくれた。

すぐさま飛んできたシャビは、病的に白い肌、落ちくぼんだ瞳の、幸薄そうな中年の男だった。黒い膝裏まである長い髪を、ファウジと同じようにポニーテールに結っていた。

彼も腕は相当に立つのだが、ひょろ長いこの外見と、白い、刺繍のオオタカの羽根の舞う、サイドに深いスリットの入った長衣に、長ズボンを合わせた見慣れない服装も相まって、武人には到底見えなかった。

彼は、この書庫で司書を務めている。

「ラス殿、ゾナ殿、ご機嫌麗しゅう。こんなところまで出向かずとも、呼んでくだされば応接間に赴きます故、そうしてくだされ」

ここへ来ることは、気が進まないでしょう?と魂の抜けそうな眼差しに、優しい笑みを浮かべシャビは物腰柔らかく言った。

「ありがとう、でも、仕事できたんだ」

ラスは、インジュがインファのところにいることと、彼に頼まれたことを告げた。

「インファ、無事じゃったか。空白のページは未だ追加され続けておるが、ひとまずホッとしたわい。して、イン王?なるほどのう、応接間では都合が悪いわい」

「大変な事態になっているようでありまするな。では小生は、ウルフの英雄・レルディードの鬼籍を探してまいりまする」

そうシャビはどこか生き生きとして、水榭へ引き返していった。

 相棒を見送り、さてとファウジは2人に向き直った。

「わしの呼び出す者は、鬼籍に宿った死者の心じゃ。記憶を覗くこととは違う故、質問せよ」

「わかった」

ラスは緊張気味に頷いた。本人ではないとしても、伝説の風の王と対さなければならないことに、さすがに不安があった。

ファウジは、硬い表情のラスに「そう緊張するでない」と笑い、サッと手を振り上げた。

暗い、夜だとわかる風が渦巻いた。日が一瞬で翳り、風に花桃の花びらが攫われるように舞い散った。死を身近に感じ、ラスは思わず寒そうに身を抱いていた。そんなラスの、隣に立っていたゾナは「しっかりしたまえ」と声をかけてくれた。

 暗い、夜風が去ると、そこにはインファによく似た、彼よりも少しだけ年上の、彫像のように美しい精霊が立っていた。しかしその瞳は冷たく冷えて、無表情だった。

「あなたが、14代目風の王・イン?」

「いかにも。我を呼び出した理由を問う。ハヤブサよ」

この声、どこかで……とラスは思い、ああ、ノインの声だと思い至った。そうだった、彼はノインでもあるのだったと思いながらラスは、それにしては雰囲気が違うインを前に居住まいを正した。

「失礼しました。オレは旋律の精霊・ラス。15代目風の王・リティルの配下の精霊です」

ラスは深々と頭を下げた。リティルの名を聞き、無表情だったインの目元に、かすかに笑みが浮かぶのをゾナは見た。

「ラス、かしこまる必要はない。会うことは叶わないが、リティルは元気にしているか?」

「元気なことには元気だけど……イン、リティルは殺戮の衝動が不完全なのか?」

殺戮の衝動を聞いて、インは眉根を僅かに潜めた。

「……未だ封じられたままのようだな。不具合が起きてしまったか?」

「起きそうと言うのかな?実は――」

インにも予想外だったようだ。リティルを造るその時まで話が遡り、インは押し黙ってしまった。

 そして、重く口をやっと開いた。

「レルディードは、正義感の強い男だった。その正義が、リティルを脅かすかもしれないというインファの読み、あながち外れてもいないかもしれない」

「君の目から見て、兆候があったのかね?オレには、レルディードがリティルを脅かすとは、到底思えないのだがね」

「リティルは誰の味方でもない。と、同時に、すべての者の味方だ。リティルは常に傍観者であり、導き手だ。我は、罪もない多くの命も奪ってきたが、リティルはそれを救ってきた」

「善行のように聞こえるけど?レルディードの正義と相容れないのか?」

「リティルの救った命が、例えば大量の殺人を犯していたとしても?」

ラスはハッとした。そして脳裏には、今はいない半身、ジャックの事が思い出されていた。彼は紛れもなく殺人鬼だった。理由はあったが、殺人鬼であることには変わりなかった。それをリティルは、救ってくれた。ジャックは、滅せられることなくラスの中に帰ることができたのだ。なぜ、リティルがジャックを許してくれたのか、ラスが存在することを許してくれたのか、ラスにはわからなかった。ただ、拾われた命を無駄にはしないと、風の王に忠誠を誓っていた。

「風の王が裁く事柄は、世界に仇なすかどうか。その者の倫理観が歪んでいようとなかろうと、その裁きはその者が暮らす世界の者が下すべきだ。我らは、ある1つの正義に組し、この力を試行しているのではない。世界を、この姿のまま存続させる為、この力を使う。故に、その場に暮らす者にとって、有益である者を狩らねばならないときもある」

「そのことが、リティルとレルディードが合わない理由?」

「いいや。そんなとき、リティルが取る行動はおそらく、命を奪わないという選択だ」

「矛盾しないか?リティルは正しいんだろう?それなのに、狩るべき者を狩らないのか?」

「世界に仇なしたという行為を正し、別の道を指し示す。その為に、大いに、迷いながら」

「ずっと死んでいたというのに、リティルの事を未だによくわかっているのだね。君のそういう所、腹立たしくて嫌いだよ。イン、そろそろ本題に入りたまえ」

ゾナはいつもよりも早口に、インに先を促した。

「ゾナ、そなたは少し雰囲気が変わった。我に対しては、敵意しかなかったと思うが」

「フッ、来世の君とこれでも上手くやっているのだよ?オレを過去の記憶から解放してくれたのは、ノインなのだからね。君と違ってよく笑う、ノインは良い友人だよ」

「ノインが未だ、願いを叶え続けてくれ、我は安心して眠れる。本題に入るとしよう。本来、殺戮の衝動は風の精霊を守るための本能だ。不完全な目覚めを強いられたリティルは、それを制御することができず、封じ込めてしまった。それは、一時的な封印になるはずだったが、風の王として覚醒した時にも解けることがなかった」

「封じているのはリティルなのかね?それにしては、シェラ姫に左右されているように見えるのだがね」

「リティルは、怒りと憎しみが希薄だ。それは、他者を傷つける力となりうるその2つの感情を、極度に恐れたせいだ。しかし、姫の命が脅かされるとそれが沸き起こってしまう。普段抑圧されている感情だ。ひとたびあふれ出せば止まらない」

「!それが暴走の原因?でも、それとレルディードとどんな関係があるんだ?」

「レルディードは、その生い立ちから、怒りと憎しみに支配されがちだった。それを制御していたのは、彼の信じる正義だ。言わば、怒りと憎しみはレルディードを象徴する力と言えるかもしれない」

「だが、リティルはそれを蔑ろにした。半身を、否定してしまったのか?そう言えばインジュが――インジュは、インファの息子だよ。彼がよく言うんだ。殺戮の衝動はさみしがり屋だって」

「さみしがり屋?面白い表現をする」

「インジュは、殺戮の衝動が強くて、殺さないようにするのが大変だったって言ってた。それで、それを管理してくれる人格を作ったんだって言ってたよ。本当にしょっちゅう喋っているんだ。構わないと拗ねるからって」

「リティルに封じられて、殺戮の衝動が怒っているとそういうのかね?そんな理由で一家を皆殺しに、世界を壊すというのかね?それは、正義とも、正しさとも、かけ離れていると思うがね」

「そうだな。リティルを乗っ取る者は、正義を語ったと言っていたな。もしや、殺戮の衝動はリティルを裏切ってはいないのかもしれない。彼を守ろうとした結果、道を違えてしまうとしたら?」

「一家が……いや、インファがリティルを脅かすと思い込んだのか?それで、インファを排除しようとして、それができないリティルを乗っ取ってしまう?インファが敵じゃないとわかればいいのか?」

「インファと話をして、彼が風の獲物でないと、わかったはずではないのかね?」

「インファのパワーアップ。いや、クラスチェンジだ。インファはこのままだと最上級になって、リティルよりも強い力を手に入れるんだ。インファ本人が、リティルを脅かすかもしれないと、そう心配していた」

「疑心暗鬼かね?リティルが、インファを疑うというのかね?」

あり得ないと、ゾナは首を横に振った。ラスもそう思うが、インファが危惧している以上それを念頭に置いておくしかない。インは思案するように口を閉ざしていたが、おもむろに口を開いた。

「ラス、ゾナ、幻夢帝に夢の監視を要請しろ。何かが起こるとすれば、それは夢の中だ」

「わかった。イン、リティルの中に、レルディードの心が眠っていると思うか?」

「それに関しては、我の意見では否定的だ。あるとするならば、リティルの心が作り出してしまった、人格のようなものではないかと思う。インファを連れ戻せ。彼ならば正体を見破れる」

「君までインファに期待するのかね?彼は確かにやってくれる男だが、過度に期待するのはやめたまえ」

「我は死した身だ。リティルに干渉することはできない。インファならば、臆せず踏み込める。リティルもそれを許すだろう。あの親子には、何者にも代われない絆がある」

「……インファが、禿げるとか過労死するとか言われてた理由が、今切実にわかった気がするよ。今回のこれ、過労死っぽいし……」

「ラス、インファに疲労を感じたら歌えと、伝えてほしい。風の奏でる歌には風の精霊を癒やす効果がある。風にとって歌うことは、己自身を守る為に必要な行為だ」

「ラス、君たち夫婦の責任は重大ではないか」

「オレ達のせいってこともあるんじゃ……責任感じてるよ……」

ゾナの言葉に俯いたラスは、視線を感じて顔を上げた。インに見つめられていることに気がついて、ああと頷いた。

「オレと歌の精霊・エリュフィナで、音楽を司っているんだ。オレ達は、リティルとインファ、インジュに救われて、今、音の力を支配しているんだ。そのせいで、インファの殺戮のイヌワシに傷を負わせてしまった。インファが深淵に落ちてしまったのは、オレ達のせいなんだ」

「リティルの我が儘か。仕方のない息子だな。そなた達は、リティルの我が儘に答えてくれただけ。感謝こそすれ、責める者はいない。我からも感謝を、我が息子のそばに集ってくれたことに礼を言う」

インは優雅な動作で、右手を胸にラスに一礼した。その動作はノインとそっくりで、ずっと無表情だったインが浮かべた笑みは、インファに似ていた。

ノインはインの生まれ変わりだ。

インファはインの血縁だ。似ていて当然なのだが、ラスは伝説の風の王に頭を下げられ、尊敬する2人に似ていることで、さらに混乱していた。

 ラスが混乱していると、シャビが舞い戻ってきた。

「ラス殿ー!写本、完成いたしましたー!」

普段は枯れ落ちそうな花のような雰囲気なのに、シャビはどこかハイで、どこかインジュに雰囲気が似ていた。

「しゃ、写本?シャビ、わざわざ?」

ズイッと突き出された鬼籍の写本を、半ば反射的に受け取りながら、ラスはますます混乱していた。

「?鬼籍は持ちだし禁止故、写本にせねばインファ殿に見せられませぬが?」

当然と言いたげな態度に、ラスは頭が上がらない気分だった。

「シャビは優秀だ。では、ラス、健闘を祈る」

インは、再び無表情で、名残惜しい素振りもなく、風に返ろうとした。

「イン!絶対にリティルとインファを守ってみせる!必ず」

両手を広げて空を仰ぎ、自身の体を形作っていた風を解放し始めていたインは、ラスの言葉に視線を戻した。そして、あの微笑みを浮かべた。

『期待している。旋律の貴公子』

インの姿は、荒々しい風となって消えていった。

 渦巻いた風が、花桃の花びらをラスとゾナの上に降らせていた。

「まったく、あざとい男だ」

伝説の風の王との邂逅の余韻に浸っていたラスは、ゾナの言葉に我に返った。見ればゾナは、明らかに不機嫌そうだった。

「ゾナ、インと仲が悪いのか?」

大人なゾナが、感情を露わにする様を見て、ラスは意外そうに問うていた。

「……合意の上だったとは言え、インを魂だけの存在にしたのは他ならない、オレを作った賢者なのだよ。インが言っていた、罪もない多くの命を狩ったという話、彼にとっては地獄の不本意だったとは思うが、やられた方はたまったものではないよ。英雄達はインを理解していたが、オレを作った賢者は、最後までインを憎んでいたよ。それすら当然と受け止める彼の姿が、己の器の小ささを突きつけられるようで、いちいち癇にさわっていたようでね。ノインと出会った頃は、その記憶のためにオレは一方的に険悪だったのだよ?」

フーと、ゾナは深く息を吐いた。本当にイライラしているようだった。

「インは、無表情だっただろう?笑ったことなど、なかったのだよ。それが、リティルが絡むとあの笑顔だ!あんな顔もできるのではないか!作り笑いでも浮かべておけば、あそこまで恐れられることもなかっただろうに。不器用な男だと言わざるを得ないよ」

「無表情だった分だけ、あの笑顔の破壊力が……インファに会ってきたばかりだけど、また会いたくなったよ。ゾナ……」

「何かね?」

「貴公子って、言われてしまったよ……育ちはよくないんだけど……」

「あざといと言っただろう?ああやって、惚れさせるのがヤツの常套手段なのだよ。今更名を呼ばれても、もう、君はいないではないか。君にしたことを、償うことは、もうオレにはできないのだよ?狡いではないか、イン……」

「ゾナ殿、僭越ながら申し上げまする。イン陛下を害したのはあなた様ではありませぬ。イン陛下も、わかっているのではありませぬか?それに、あれはイン陛下の策略だったではありませぬか」

「シャビ、違うのだよ。インを1人にしなければ、リティルに対して起こったことのいくつかは、回避できたかもしれないのだよ。インもあの頃は、魔道書とオレを呼んでいた。意図的に遠ざけることで、オレが混乱しないようにしてくれていたのだよ。インとリティルの親子の時間を奪ってしまったのは、オレなのだよ。君を想うとき、なぜ、リティルのそばにいるのが君ではないのか思ってしまう。オレは、一度リティルの手を放しているのだよ?逝かねばならなかった、君とは違うのだよ?」

ゾナは帽子の鍔を掴みながら、花曇る疑似の太陽を見上げた。

「時の精霊の証を奪ったとき、リティルに、永遠の時の重さを覚悟しろと言われたよ。過去からは逃れられない。後悔を消すことは、未来永劫できないのだよ。インは、オレの後悔その者だ。遙か頭上にいて届かない鳥その者で、実に腹立たしい男だよ」

そう言って、ゾナはフッと寂しそうに笑った。

「ん?ああ!」

「ラス殿?どうされたので?」

「ゾナ!インの関係者ってことにならないか?会ってはいけなかったんじゃ……」

「それは、肉親や親しすぎた者のことを言うのだよ。オレとヤツは宿敵だ。オレは未来永劫、その関係に甘んじてやるのだよ!ヤツは、伝説の風の王なのではない。赤き風の返り血王、史上最悪の風の王なのだからね!」

戻ると言って、ゾナは怒りを露わに先に行ってしまった。

赤き風の返り血王?それに史上最悪の風の王?ラスは、インの異名を初めて聞いた。ラスが知っている、リティルの父である先代風の王は、伝説の風の王だった。精霊達がそう言っていたのだ。それを、信じて疑っていなかった。伝説の風の王の息子だから、リティルは強くて優しいのだと思っていた。

「気がついたかのう?」

「うわっ!ファウジ?いつからいたんだ?」

物思いにふけっていたラスは、ファウジに声をかけられ、驚きのあまり、今し方考えていたことが飛んでしまった。

「すぐそこにおったぞ?無防備じゃなぁ。そんなでは、後ろから抱きつかれても文句は言えぬぞ?まあ、それはよいとして、イン王は、リティルは元気かとは聞いたが、まったく案じている素振りはなかったじゃろう?」

ラスは青ざめて「抱きつかないでくれ!」と飛び退いていた。ファウジは「誰がするか!男なんぞに」と呆れていた。

「ああ、そう言えば。滅びの予言を聞いても、そういう風には感情は動いてなかった」

「それはのう、自分が心配せずとも、リティルの周りにおる者が何とかすると信じておるからじゃ。そして、予言を知っているリティルは、己の手で回避できると信じておるのじゃ。ゾナに、託しておるのじゃ。イン王は、潔く聡明なお方だった故な」

ファウジはしみじみと、噛み締めるように頷いた。

「同時に孤独なお方でありました。あのお方の笑顔を、小生は初めて見ました。リティル殿が、イン陛下を救ってくれたのでありましょう。ラス殿、此度のこと、無常の風には手出しできませぬ。我らは、リティル殿の風を得て精霊となった身の上にございます。リティル殿とは剣を交えることはできぬのです」

「うむ。あやつの殺戮形態は異常な強さじゃ。策なく対してはならぬ。あやつに殺されるのだけは回避せよ。我に返ることがあったなら、その所業にリティルは耐えられぬ」

「わかった。正義を語る以上、降伏すれば命までは奪われないと思う。何とかしてみせるよ。オレは、代理だけど四天王の1人だから」

「風五人衆と呼ばれるのを期待しておるぞ?」

「やめてくれ!オレはインファの戻る場所を守ってるだけだ。インファが戻ったら、煌帝・インジュの武官に戻るよ。ありがとう、無常さん。オレも戻るよ」

そう言ってラスは、深々と頭を下げるとハヤブサの翼をはためかせて飛んで行ってしまった。

 ラスを見送りながら、ファウジは自分の両手に視線を落とした。

「この固有魔法、罪じゃなぁ」

「そうでありまするか?」

「1番必要としている者に、会わせてやれぬではないか」

「リティル殿に、イン陛下を、でありまするか?どちらも望まぬような気がいたしますが?ファウジは過保護なのでありまするよ。小生も言えた義理ではありませぬが、リティル殿は立派に王でありまする」

「わかっておるのだがのう。リティル……時に危うく見えてのう……しかし、してやれることはないのじゃがのう……」

「地上には、皆がおりまするよ。我々は我々の仕事をいたしましょう」

「それもそうじゃな。では、仕事するとしよう!」

そう言って2人は、水榭へ戻っていったのだった。


 ラスがゾナと応接間に戻ると、ノインが戻ってきていた。

「ノイン、リティルは?」

ソファーに一気に飛んだラスは、リティルとエーリュの不在に気がついた。ラスの問いに、どこか疲れた様子のノインは苦笑を漏らした。

「勝手にすまない。エーリュと狩りに行かせた。インファに追い返されたと落ち込んでいたのでな」

「顛末は聞いた?」

「おまえに聞こうと思っていた」

ノインの答えにそうかと頷いて、ラスは深淵と鬼籍の書庫でのことを報告した。

「……インファは、リティルに帰れと言わねばならないほど、動揺したのか?」

「インジュの話だから誇張してるかもしれないけど、追い返されたのは確かだよ。リティル、そんなに落ち込んでたのか?」

「ルキルースから戻ったら、机に突っ伏していた。エーリュが困っていたな。ラス、ゾナを誘ったろう?軽率だったな」

ノインは苦笑しながら、腕を組んでソファーに深く腰掛けた。

「何を調べてるのか聞くこともできずに、悶々としていたようだ」

「ごめん……ゾナにも怒られたよ。インのことは話せないけど、この写本のことは話してもいいかな?」

ラスはそっと、奏でるような風の中から、糸で丁寧に閉じられた本を取り出した。

「ウルフの英雄・レルディードか。ゾナ、よくインに会ったな」

「もう怒りは湧かないと思っていたのだがね。ヤツには怒りしか湧かないらしいことが、よくわかったよ。君は?レルディードのことを覚えているのかね?」

不機嫌そうにしながら、ゾナはノインの隣に腰を下ろした。そしてソファーの後ろに立ったままのラスに「君も座りたまえ」と言った。

「覚えている。長生きできないタイプの正義の味方だ」

ノインは、涼やかに微笑みながらサラリと言った。それを聞いたラスは、思わず吹き出していた。インと瓜二つの容姿で、インとはだいぶ雰囲気が違うノインが面白かったのだ。

「ご、ごめん。インは、リティルの中にレルディードはいないと、言い切っていた。ノインもそう思う?」

「インは、リティルが双子の風鳥島の事案を解決し、イシュラースへ引き揚げる直前までリティルの心にいた。インが見落とすとは思えない。ラス、君は何も感じないか?」

「何を?」

「オレは殺戮の衝動が暴走した後から今も、彼の存在を身近に感じている」

「彼?……殺戮のオオタカの存在がわかるのか?本当に?」

ノインは頷いた。

「もう少し深く繋がれば、何かしらできそうな気がする。インファのイヌワシが意志を持って抵抗しているように、殺戮の衝動には元々意志があるのかもしれない。ゴーニュがここにいるのは5代目からだということだが、君は精霊として目覚めた時から、ジャックと共にいたのか?」

「ジャックは、オレの逃避が生んだ人格なんだ。エンド君と似た存在だよ。オレが作り出したから、殺戮形態として呼び出されるのか、古参の精霊時代からあったのかはわからないけど、その当時はなかったんじゃないかな?4代目までは殺戮の衝動を持ってなかったんだろ?王が持ってないモノを、他の風の精霊が持ってるとは思えないよ」

ラスは元古参の精霊だ。古参とは精霊史が始まった頃からいる精霊のことを指す。殺戮の衝動を持つ風の王は、5代目から。となると、それよりも古い時代を生きていたラスには、当時なかったと考えるのが妥当だ。

「確かに。リティルをゴーニュのところで、診てもらった方が良いのではないのかね?」

「炉は、今インファのイヌワシが占拠しているよ。凄く綺麗な炎みたいな風だったよ。思わずこうやって、手をかざしたくなるんだ」

ラスは、たき火や暖炉の火で暖まろうとするかのように、手をかざした。

「インファのような存在ということか。と、すると、リティルのあの形態は不自然だな」

「ノインは見たことがあるのか?」

「両方に関わっている。最初の暴走時、全身を切り刻まれた。インファを殺す気かと言ったら、我に返ってくれたが、あの赤い風は、リティル自身をも傷つけていた」

ラスはゾッとしながら、気を取り直して問うた。

「2度目の暴走は?」

「無常の風2人と太陽王を一撃で退けた。止めたのはシェラの歌だ。リティルの暴走の引き金になったのは2度とも、シェラの命が脅かされたためだが――」

「わたしの命がどうかしたの?」

 フワリと花の香りが鼻腔をくすぐった。ラスが振り返ると、紅茶色の瞳をした、黒髪の可憐な美姫が、ソファーの後ろにいつの間にか立っていた。

風の王妃・シェラだった。

「シェラ!その……リティルのことで……」

ラスが言い淀むと、シェラは首を傾げた。「紅茶を淹れるわね」とシェラは微笑み、シラサギの持ってきたワゴンに向かった。手伝おうとラスが腰を浮かすと、シェラに「あなたも座っていて」と笑顔で先手を打たれていた。ラスは仕方なくソファーに腰を下ろしたのだった。

 背に生えたモルフォチョウの羽根。それは、彼女が花の姫である証だ。綺麗だなと見とれていると、シェラが振り返った。ラスは慌てて前を向いていた。その様子を見ていたノインが、苦笑交じりに忠告した。

「気持ちはわかるが、見とれすぎだ。そもそもエーリュは嫉妬しないのか?」

「え?ええと、エーリュもシェラに見とれてるんだ……」

エーリュは、シェラを眼福の極みだと言っていて、彼女とお茶できるのを毎日喜んでいた。

シェラはリティルと同い年で元人間と言っていたが、あんな可愛い人がよく19年も売れ残っていたなと思ってしまった。その疑問は『ワイルドウインド』を読んで解けた。

だが、リティルがシェラを追いかけたのではなく、シェラがリティルを追いかけていた事実に、ラスは驚いていた。しかも本の中のシェラは形振り構わず一途で、リティルが気後れするほどだった。

「平和な夫婦だな。ケンカにならないのならばいいが」

「わたしが何かしら?」

紅茶を配りながら、シェラは再び首を傾げてラスを見た。意識してしまったらもう、動揺するしかなかった。

「ご、ごめん……未だに気がつくと、あなたに目が行ってしまうんだ」

「あら、まあ、ウフフ」

シェラは花が綻ぶような笑みを浮かべた。その笑顔に見とれながら、これでリティルと一緒に戦える戦姫だなんて、信じられないよとラスは思った。

「ラス……それはリティルの前では言わない方がいいと、オレは思うがね」

ゾナは「接近禁止令を出されると思うがね」とやれやれと呆れながら、シェラのくれた紅茶を飲んだ。

「うっ……言っていて、オレは何を言っているのかと思ったよ……ごめん、本当に……」

「ラス、インファは頭は使える状態だな?この写本、届けてやれ。それから、インジュは通信球を持っているか?」

レルディードの写本に目を通していたノインが顔を上げた。

「持ってるけど、深淵は特殊な閉鎖空間で、通信できないって言ってたよ。インジュとならオレが話せるから、とりあえずこの写本を届けてくるよ」

ラスが立ち上がろうとすると、隣に腰を下ろしていたシェラに腕を掴まれた。

「深淵へは、風以外入ってはいけないの?」

ジッと見上げてくる彼女の瞳は、真剣その者だった。シェラも、インファに会いたいんだと、ラスは唐突に理解していた。

「……聞いてみるよ。…………ごめん、風の精霊以外は、どんな影響があるかわからないから、ダメだって言われてしまったよ」

「そう……引き留めてごめんなさい」

シェラは瞳を伏せると、そっとラスの腕から手を放した。その姿が痛ましくて、ラスは胸が苦しくなったが、どうすることもできなかった。じゃあと後ろ髪を引かれながら、ラスは深淵を目指して飛び出していった。

 ラスの後ろ姿を見送ったシェラは、ノインに視線を向けた。その瞳は戦姫のそれだった。

「ノイン、わたしの命と言っていたわね?」

「ああ。リティルが殺戮の衝動に乗っ取られるのは、君が死んだときだ。身代わり宝石を肌身離さず持っていろ。インが夢を監視しろと言っていたらしい。ルキに観測を頼んでこよう」

すぐ戻ると言って、ノインは背後に聳えるガラス窓の端に設けられたガラス戸から、中庭へ出て行った。ルキとは通信球を使えば話ができるが、わざわざ足を運ぶのはセリアの様子を見に行ったのかと、2人はノインの背を見送った。

「姫、思うところがあるのかね?」

ハアと哀しげなため息をついたシェラの様子に、ゾナは「リティルの事かね?」と問うた。しかしシェラは、意外にも首を横に振り「インファの事よ」と言った。

「インファは、花の姫の固有魔法を使って、わたしが作ったの。あの子がリティルよりも弱いのは、リティルに守らせるためだったのよ。リティルは、守るべきモノがあれば絶対に命を諦めないから。インに似てしまったのは、わたしの不安が表れてしまったのだと思うわ。そのせいで、あの子には今までとても苦労をかけてしまった……」

「それは、どこまで操作できるモノなのかね?」

初耳だった。リティルとシェラの2人の子供は、血が確かに繋がっている。故に、インファとインリーが故意に造られた存在だとは、考えたこともなく思いもよらなかった。

「わたしから与えられるモノだけよ。あの子の体は、わたしがリティルの力と合わせて作ったのだけれど、予想外のことが起こってしまったわ。リティルは、わたしが思うよりもずっと強い力を秘めていたの。それを、わたしは見誤ってしまった。リティルは、無意識に惜しみなく力を与えてしまった。その為に、インファは幼い頃、よく霊力を暴走させていたわ。やむを得ず、力の大半をイヌワシに封じたの」

「それをしたのは誰かね?」

「リティルよ。それで無理なら力を切り離すと言っていたわ。実際にリティルは、無理だと思っていたみたい。けれども、イヌワシは封じてくれたの。わたしが、あの子の体をもっと丈夫に作っていれば、こんなことにはならなかったのに……」

俯いたシェラは、ギュッと膝の上の手を握っていた。

「インファに会いたいわ……とても会いたい……」

 インファが消えてしまったあの時、ゾナは、エンドというインジュのもう1つの人格に初めて会った。あの時ゾナは、時計塔の調子がおかしいと2頭のドラゴンが知らせてきて、応接間にいなかった。

戻ってみると、リティルが泣き崩れていた。リティルからは感じたことのない絶望と慟哭。ゾナは、動けなくなった。そんなリティルを、抱きしめて壊れないように守っているかのようなインジュが顔を上げた。

――君は、エンドかね?

インジュの物ではない、鋭い瞳だった。雰囲気も、彼の纏う木漏れ日のような柔らかな暖かさがなくなり、すべての命が死に絶える極寒のような空気を纏っていた。

――魔道書の賢者!陛下を眠らせろ!深くだ!深く!

必死なエンドの声にも、ゾナは動けなかった。リティルの絶望の深さに、何が起こったのか頭が容赦なく分析を始めていた。ゾナの心は、悟ることを拒絶してせめぎ合ってしまったのだ。インファがこの世のどこにもいないことを、認めたくなかった。

――やれやれ、何があったのかな?

ルキの声だった。エンドの見上げたその空間が歪み、ズルリと落ちるようにルキの上半身が現れた。そして、彼の小さな手から紫色の霧が放たれ、エンドに押さえられるように抱きしめられているリティルを包んだ。ゾナは、エンドがホッとするのを感じた。そして、こちらを向いた彼の瞳が、インジュのそれに戻っていることに気がついた。

――すみません……エンド君……ルキ……

ゾナは、弾かれたように移動時間をゼロにして、瞬間移動でソファーまで駆けつけた。インジュの宝石のような瞳から、涙が、止めどなく流れ始めたのを見たからだ。

――何があったのさ?

フンッとルキが、静かに泣くインジュの目線にフワリと浮かんで問いかけた。そして、ゾナとルキは、インファの死を告げられたのだ。あの時、始終不遜な態度のルキが取り乱す様を初めて見た。「嘘だ!」と繰り返すルキに、インジュは止まらない涙をそのままに、強制的に眠らせられ、インジュの膝に突っ伏して動かなくなったリティルの頭を、ゆっくりと、撫でていた。無意識なのだろう。インジュの手つきは、まるで慰めるようだった。

ルキは「おまえじゃ話にならない!」とルキルースへの扉を開き、行ってしまった。

程なくして目を覚ましたリティルは、気落ちしていたが取り乱すことはなかった。そこへ狩りを終え、戻ってきたノインの姿を見て、リティルはこう言った。

――インファは行方を眩ませただけだ。そのうち帰って来るさ!

ノインはインファの守護精霊だ。守護精霊は主人の死と共に消えてなくなる。彼が存在しているということは、インファは生きているということだと、リティルは哀しみに沈みゆく一家の心を守った。死を導く、風の王の本能に逆らって、一家の皆の心を死の悲しみから守る為、リティルは息子の死という地獄に全力で蓋をした。

ゾナはそれを知っていながら、リティルの心を守ってやることができなかった。魔道書であるゾナには、慰め方がわからなかったのだ。

「オレも会いたいよ。シェラ姫、彼が戻ることを信じようではないか」

「ええ。無事なことがわかったのだから、暗い顔をしていてはダメね」

そう言ってシェラは、無理に笑った。


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