みのり
搬入口で待っていると、入ってきた鬼塚明菜はぎょっとした顔になった。待ち伏せされたみたいで不快だったのかもしれない。しかし不快なら不快でやむをえない。今後二度と関わらないようにする。
「あとで少し話せる?」
俺がそう尋ねると、彼女は眉をひそめた。
「いいけど……。先にコレあるから」
弁当の入ったビニール袋を持ち上げて見せると、そのまま通路の奥へ行ってしまった。
やがて彼女は二往復して戻ってきた。
「お待たせ。ここで話す? それとも外で?」
「外行こう」
本当は外出禁止なのだが、ドアを守っている警備員もなにも言ってこなかった。俺が脱出しないことを理解しているのだ。
夕闇が山々を飲み込もうとしていた。
いくら春になったとはいえ、日はさほど長くない。
バイクのところまで行くと、彼女は振り返りもせず、遠くの山を見つめながら言った。
「ここ来るときさ、農家のおじさんが、職員さんにめっちゃ怒ってたけど、なんかあった?」
「まあちょっとね」
「畑に車あるし」
「えーと、その……何人か脱走したんだ」
「危ない研究なの?」
「もしそうなら俺も逃げてるよ」
とっさに嘘をついてしまった。
すると彼女は振り返り、アルミホイルのかたまりを押し付けてきた。
「忘れないうち渡しとくわ。おにぎり」
「ありがとう。梅?」
「梅干し」
逆光で翳になっているせいで、彼女の表情はよく見えない。
俺はその場でアルミを開き、おにぎりを口にした。団子のような丸いおにぎりだ。祖母が作ってくれたものを思い出す。
噛むと酸味の溢れ出す柔らかい梅だった。種はない。とってくれたのかもしれない。
食べていると、彼女はせっつくようにこちらを見た。
「話ってなに?」
「ああ、そうだった。失礼を承知で聞くけど、鬼塚さん、結婚してる?」
「は?」
リアクションがキツい。
俺の聞き方が悪かったのかもしれないが。
「気を悪くしたなら謝るよ」
「べつにいいけど……。いまはしてないから。ていうかしてたけど、もう昔の話だし……。誰に聞いたの?」
「いや、指輪してるからさ」
「ただつけてるだけだし」
彼女はぐりぐりとねじりながら指輪をとり、ポケットにねじ込んだ。なにも外すことはないのに。
ともあれ、元ではあるが、既婚者というのは間違いないようだ。
「じゃあ、子供がいたり……」
「いない。ていうか、さっきからなんなの? それが聞きたいこと?」
「そう。そして、もしフリーなら、そのうち食事にでも……と思って」
「……」
なぜか無言になった。
間が持たなかったので、俺はふたたびおにぎりを食った。なつかしい味がする。
一通り食い終えたところで、彼女はぼそりとつぶやいた。
「いつ?」
「えっ?」
「食事……。言っとくけど、あたし、別にこだわりないから。ファミレスとかでもいいし……」
オーケーということか。
やたら緊張していた反動で、俺は思わず飛び上がりそうになってしまった。だが、ここはあえて冷静に。
「えーと、じゃあ……とりあえず研究が終わったら」
「だから、それはいつなの?」
「予定では、あと二日で終わる。だから三日後とか……」
つい探るような物言いになってしまった。
すると彼女はつまらなそうに「ふぅん」と背を向けた。
「分かった。三日後ね。でも昼間はダメだから。お弁当の仕事あるし。だから夜とかになるけど、それでよければ」
「いいよ、何時でも」
「あ、あんまり遅いのはダメだから……。次の日の仕込みもあるし……。ご飯だけだから……」
本当に中学生みたいだ。三十近い男女のやり取りではない。だが、俺は背伸びするつもりもなかった。苦手なものは苦手だ。それでも人を好きになってしまう。仕方がない。
「じゃあそのときにね」
「うん。だから連絡先……」
「そうだった。教えてもらってもいいかな?」
*
もはや隠すまい。俺は超ウキウキで自室へ帰った。佐々木双葉がドン引きするくらいに。
「うわ、マジか……」
「中学生みたいだって言いたいんだろ? いいぜ、べつに」
「中学生どころか、小学生みたい」
「いいさ。なんとでも言ってくれ。いまの俺はなんでも許せそうだ」
「ん? なんでも?」
「限度はあるぞ」
ホントになんでも許すわけない。
佐々木双葉は、それでも満足そうに笑みを浮かべた。
「でもよかったじゃん、オーケーしてもらえて。どこ行くの?」
「まだ決めてない」
「ま、どこ行くにしてもさ、あんましソッコーすぎると、さめるのも早いから気を付けて。あたしに言えるのはそれだけ」
「分かった」
なにをどうソッコーするのかは分からないが、たぶんメシ食って解散というのがせいぜいだと思う。こっちもあまり強引に行くつもりはない。
ともあれ、今日はいい夢が見られそうだ。
*
だが深夜、俺は悪夢を見た。
餅の四肢が黒い花々に抉られ、泣き叫びながら助けを求めてくるという最低最悪の夢だ。しかも胸部が圧迫されているかのように呼吸が苦しい。
ハッと目を覚ますと、今度は心臓と呼吸が同時に停止しそうになった。
暗闇の中で、誰かが俺を見つめていたのだ。そいつは俺の上に馬乗りになっている。
「だ……餅? いや……」
「五代まゆ」
見慣れた少女の顔。悪戯っぽく微笑する表情は、幼さのせいで愛らしくも憎らしくもある。
身体は餅のものだろう。しかし触れ合ったところから流れ込んでくるサイキック・ウェーブは、衛星に飛ばされた少女のそれであった。
「なぜここに……」
「連れて来られたの」
「誰に?」
「鐘捲さんだよ。脱走した人を探すんだって。どこかの誰かが仕事を断ったから、代わりに私と鐘捲さんが出ることになっちゃった」
なっちゃった、って……。
それはいいとして、壁の時計によればまだ午前二時。こんな夜中にいったいなんの用だ。
彼女はぐっと顔を近づけてきた。
「ね、ドキドキした?」
「したよ。ビックリしたせいでね」
「いいよ、それでも。あなたのこと、いっぱい苦しめてあげるから」
「殺すのか?」
「んー、どうしよっかな……」
愉快そうに体をゆする。
こっちは息苦しいだけだ。心臓も激しく鼓動したまま。悪夢で飛び起きて、いるはずのない子供に乗られていたら、誰だってこうなる。
彼女の指先から、ニョキとなにかの芽が突き出した。血豆のようだ。それが寄生虫のようにぐにゅりと伸びて、うねりながら黒い花を咲かせた。
餅の身体を抉っていた凶器だ。
「待て。俺が憎いのは分かった。都合のいい命乞いもしたくない。君を苦しめたのは事実だしな。それでも、なにか誤解があるなら解いておきたい」
いや、これこそ都合のいい命乞いだ。しかし誤解を抱えたまま相手を死なせたとあっては、殺したほうだって気分が晴れまい。せめて殺すなら、本当にそれが正しいと思った上でやって欲しい。
彼女はまたくすくす笑った。
「ヤバ、面白過ぎる」
「命で遊ぶな」
「違うよ。殺すつもりじゃない。ひとつになりたいの」
「そいつで俺の頭を抉ったら、間違いなく死ぬぞ」
「違うって言ってるでしょ」
ふわりと花が開き、そこへピンポン玉ほどのドス黒い果実がみのった。ハリがあって瑞々しい、ぷるぷるとした実だ。
彼女はそれをぐっと近づけてくる。
「食べて?」
「はっ?」
「とってもあまくておいしいんだから。食べて?」
オメガ種の肉なら山ほど食ってきた。が、さすがにこれは異質すぎる。しかも餅の体だ。
彼女は愉快そうに果実を押し付けてきた。
「ね、食べて? そしたらひとつになれるから」
「噛んだら痛くないのか?」
「痛くないよ。あ、でも痛いフリしたほうがいい? そのほうが萌える?」
「バカなこと言うな」
とはいえ、それで気が済むなら付き合ってやらないこともない。彼女の本体が爆発したとき、その一部は俺の体にも突き刺さった。いまさらだ、なにもかもが。
だが、俺がそれを口にすることはなかった。
物音を立てず、刃を手にした女がすーっと部屋へ入ってきたからだ。
「寝なさいって言ったよね?」
鐘捲雛子だ。日本刀を餅の背に突き付けている。というより、少し刺したのだろうか。餅は苦しそうに表情を歪めている。
「な、なによ。ちょっとからかっただけで……ぎひッ」
刃がズブリと突き刺さり、餅の胸部から突き出した。その拍子に、血液が俺の顔にも飛んできた。
本当に刺すとは……。
鐘捲雛子は静かに告げた。
「誰が反論を許可したの? 私は寝なさいって言ったの」
「待って。許してお姉ちゃん」
「妹はもう死んだ。あなたも死にたいの?」
「冗談だから、抜いてよそれ」
「……」
鐘捲雛子が刀を抜くと、すぐさま傷口がふさがった。再生能力は高い。だからといって刺すのはどうかと思うが。
彼女がアゴで戻れとジェスチャーすると、餅はおとなしく部屋を出て行った。
「二宮さんも、あんまりあの子を甘やかさないでね」
「甘やかす? こっちは殺されるところだったんだぜ?」
「首でも絞めてやればおとなしくなるんじゃない?」
「侮辱はよしてくれ」
「どうかな。あの子、あなたに殺されたいって口癖みたいに言ってるけど」
「……」
想像以上にイカレているようだ。
しかし俺は、絶対に彼女を傷つけたくなかった。少女の華奢な首をへし折るときの、不快な感覚がいまでも手に残っている。電車の手すりをつかんだ瞬間や、硬めのモノを欠いたりした瞬間、あのシーンが脳裏をよぎる。
それは壊すべきものではなく、守るべきものだった。
鐘捲雛子は言葉もなく部屋を出た。
ベッドには小さな血痕だけが残されている。
思わず、俺は口元についたものをぺろりと舐めてしまった。しかし意外というべきか、味も臭みも感じられなかった。ただ質感だけが濃厚なペーストだ。
あの果実も、そんな感じなのかもしれない。
いや、ダメだ。俺にそんな趣味はない。
ティッシュを手繰って顔を拭い、丸めて床へ捨てた。朝になればうまい弁当が食えるのだ。あんな怪しい果実を口にする必要はない。
(続く)