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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

カルト病院

作者: 近藤ロン

語りきれていない部分もありますが、楽しんで頂けたら幸いです。

 それは、梅雨も終わりに差し掛かった7月半ばのことだった。私はいつものように、早朝の車通りの少ない通勤路をスクーターで走っていた。ただほんのちょっぴり疲れていたのと、職場に着いた後のことを考えて憂鬱になっていたことを除けば、本当にいつも通り、何の変哲もない道のりのはずだった。


「あっ」


 と思った時にはもう遅かった。信号が黄色になり、赤へと変わりつつあるのは見えていた。にも関わらず、私の手はブレーキを握ろうとしなかった。どうしてなのか自分でもわからない。「赤信号だなぁ」と思っていたことは確かなのに、ブレーキをかけるという当たり前のルールを守ることをやめてしまっていた。

 その後、赤信号を通り過ぎてから慌てて止まろうとして、左足首を歩道の縁石とスクーターの間に挟み、全治2ヶ月の骨折を負った。派手に転倒したので、検査も兼ねてとある病院へ数日だけ入院することになった。そこで体験した恐ろしい出来事のことを踏まえると、この事故は前触れだったのかもしれない。いわゆる『魔が差した』という状態に陥って、見えない力に運命を操られていた、そんな気さえするのだ。






 元々、自意識過剰というか、考えすぎる性格ではあった。些細なことで悩んだり、他人の目を気にし過ぎて縮こまってしまったりする。それでも自分は普通に生きていける人間だと、何となく思っていた。

 しかし、最近は仕事のことで頭がいっぱいで、ろくに家の中の整理も出来ていない。早朝に出勤し、夜中に帰宅する。車を買うほどの貯金はないので、知り合いから安く譲ってもらった古い原付で通勤している。この乗り心地が大層酷くて、お尻が常に痛い。

 そうした通勤時のストレスに加えて、最近慣れ始めていた職場の雰囲気も一変してしまった。仲の良かったパートの主婦達が次々と辞めていき、代わりに学生のような若いアルバイトや外国人の研修生が大挙して入って来た。別に、私は外国人や年下だから不満を抱いている訳ではない。ただ、私にはない若さのエネルギーというか、眩しいほどの陽気なオーラが彼らから放たれている、と感じて気後れしてしまうのだ。

 私だって年寄りというほどではないが、もう30半ばに近づいた身で未だに良い相手も見つからず、ただただその月の家賃や保険料の支払いに半分以上消えていく給料のために、必死に働いている自分をふと省みてしまうことだってある。

 そんな時、目の前で「今度の休みにどこへ行こう」とか「○○さんって彼氏いるの〜?」といった若者達の会話を聞いてしまえば、心がざわついても仕方ないではないか。

 さらにベテランのパートが辞めてしまったこともあって、上から要求されるハードルも高くなっていった。新人の教育をしながらリーダー職の勉強もこなさなければならないのに人手は足りない。

 私は心身共に疲弊しきっていた。一度、精神科のカウンセリングを受けて話をしてみたのだが、医者が言うには


「それだけ物事を整理して話せるのなら鬱病ではありませんね」


 まるで自分の仕事とは無関係とでもいうように見放されてしまい、それ以来誰にも相談すら出来なくなっていった。

 事故を起こしてしまったのは、これら様々な事柄が、疲労した私の精神をジワジワと蝕んでいた矢先のことであった。






 入院の手続きを待合室の椅子に座って待つ。本でも持って来れば暇つぶしができたのに、今の私には本を開くことさえ億劫に感じるほど、心に余裕がなく、意識はぼんやりとしていた。

 すると、いつの間にか私の目の前に誰かが立っていることに気づいた。顔を上げると、病院には似つかわしくない、まるで修行僧のような出で立ちの男が仁王立ちで見下ろしていた。


「あの、何かご用でしょうか」


 私が尋ねると、男はニヤリと笑って、


「お前だ、お前に決めた」


 と低い声で呟くと、左手に持った金剛杖を、カンッと床に打ち鳴らした。






「イサナさ〜ん、ご気分はどうですか〜?」


 女性の声で私はハッとした。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかったが、天井に下がるカーテンと、私の顔を覗き込む看護師の顔で、病院のベッドに仰向けに寝ているのだと気づいた。


「あの、私、いつの間に?」

「待合室でご気分が優れない様子だったので、入院の手続きは一先ず置いて、病室に運ばせていただきました〜」


 看護師は穏やかな口調で説明してくれた。


「ありがとうございます。すいません、迷惑をおかけして…」

「いえいえ、良いんですよ〜。寝心地が悪かったらいつでもナースコール押してくださいね〜、何しろ古い病院なので、色々と不便があると思うんですよ〜。でも、立地はとっても良いんですよ〜?ここ、何階だと思いますか〜?」


 さっぱりわからないが、窓から銀杏の木のだいぶ高い枝が見えることから、2階以上ではあるのだろう。


「ここね〜、4階なんですよ〜。4です、シですね〜、死体のシ」

「え!?」


 突然の不吉な言葉に、私はギョッとして看護師の顔を見た。看護師は、確かに優しい笑顔だったが、途端にそれが貼り付けられた能面のような笑顔に見えて気味が悪くなった。


「な、なんでシと立地の良さが関係あるんですか?」

「え〜?だって人間いつかは死ぬじゃないですか〜。シは縁起が良いんですよ〜、それに、ここは西の端の病室なんです〜。丑寅の門のすぐ近くで、行き止まりなんです〜。行き止まりは、死んだ魂の吹き溜まりになってぐるぐると混み合ってるんですよ〜」


 看護師は能面のような顔を近づけてきた。


「イサナさんも、早めにあっちへ行きたいでしょ〜?」


 私は声が出なかった。看護師は表情を全く変えず、病室から出て行った。

 何だったのだろう?病院で患者に死の話をするなんて、不謹慎ではないのだろうか?別に悪いことをしたわけでもないのに、叱られた後のように私の心臓は早鐘を打っていた。


「あなた」

「ひっ」


 看護師に緊張させられたせいで、私は病室に他にも患者がいる可能性を失念していた。なので、突然の声に飛び上がった。恐る恐る横を見ると、隣のベッドに人が寝ていて、こちらを見ていた。

 高校生くらいだろうか、黒髪の少女が、全身を包帯で巻かれた状態で横たわっている。痛々しい姿だが、少女は特になんでもなさそうな様子で声をかけてくる。


「あなた、どうしてこんなところにいるの?」


 少女は、左の目も包帯で覆われているので、右目だけで私を見ている。その瞳は澄んだ深い茶色だが、まるで人形のように無機質な印象も受ける。


「ここがどこだかわかっているの?あなたの来る場所ではないわ」

「あ、あの、脚を折っただけだから、長く入院する予定じゃないんです。気分を害したならごめんなさい」


 私はいつもの癖で、特にこちらに非はないと心のどこかで理解しながらも、頭を下げた。


「…そう、そういうこと。いえ、別にあなたに怒ってるわけじゃないのよ。少し混乱しただけ。こちらこそごめんなさい」


 少女は納得し、少し逡巡した様子の後、ギプスをした右手を私の方へ伸ばした。


「お詫びの印に、これを受け取ってちょうだい」


 受け取ると、それはいわゆる般若心経の書かれた薄い経本だった。実家の仏壇の側にも置いてあるのですぐにわかった。しかし、なぜそんな経本を少女がくれるのかが不可解で、私は彼女を見つめ返す。


「…さっきの看護師が言ってたことは、半ば本当よ。ここは4階の西の端にある病室。あまり縁起の良い場所ではないわ。いざとなったら、そのお経を使って」

「あ、ありがとうございます…」


 私は、幽霊とか心霊とか、そういうものは半信半疑だったが、少女が私を心配しているのは何となく感じ取れたので、好意として受け取ることにした。


(退院する時に返せば良いし)


 少女は「夜型だから今のうちに寝ておく」と言って、私に背中を見せて寝てしまったので、病室はまた静かになった。私も、ここしばらくまともに睡眠時間を取っていなかったので、すぐに微睡みの中に意識が落ちて行った。






 次に目が覚めたのは夜だった。妙な不安でなかなか寝つけなかった私は、廊下から聞こえる足音で目が覚めてしまった。


 カラン、カラン、カラン、カラン


 下駄の音だろうか。普通の靴では鳴らない硬く乾いた音が、やけに大きく響く。しかも、それは段々と私のいる病室の方へ近づいてくるように思えた。


 “行き止まりは死んだ魂の吹き溜まりになっていて〜”


 私は昼間の看護師の話を思い出して、背筋が寒くなった。枕元の時計を見ると、もう夜中の2時を過ぎている。こんな時間に、下駄を履いた人間が廊下を歩く事情など思い浮かばない。


 カラン、カラン、カラッ


 音は、私の病室の前で止まった。思わず息を潜め、布団を顔までかけて身構える。扉は開かず、音はそれっきり止んだ。


(部屋の前にいるのかしら)


 私は扉の様子を見ようと、ベッドから体を起こそうとした。


(え…?)


 私の体は、ピクリとも動かさなかった。見えない縄で縛られたかのように、腕は胴体にくっついて離れない。両足も同様にくっついて膝を曲げられない。


(何よ、これ!?)


 私は未知の体験にパニックを起こしかけていた。目だけが動かせるが、手足が全く動かせないというのは窮屈で恐ろしかった。なんとか指だけでも動かせないかと思いながら、ふと扉の方を見て、さらに戦慄した。

 扉が、いつの間にか開いていたのだ。横にスライドする扉が、全開になっていた。廊下の先は真っ暗で何も見えない。いや、その暗闇そのものが何かの生き物にすら思えて、今にも襲いかかってきそうな気さえした。

 しかし、本当に注意すべきは廊下の方ではなかったのだ。扉が開いているということは、誰かが既に病室に入ってきたということなのだ。それに気づいたのは、廊下からベッドの上の天井へと視線を移した時だった。

 誰かが、ベッドの上にいる。私の上に誰かが馬乗りになっていたのだ。どう見ても、同じ病室の誰かではない。天井が見えないほどの大柄な人物など入院していない。そもそも、人間にすら見えない異様な体型だ。影になっていて顔はよく見えないが、確かに幻ではなく、誰かが見下ろしていた。

 私はとっさに、少女に貰った般若心経を思い出して、震えながら声に出そうとした。般若心経は実家でもよく仏壇の前で唱えているため、ある程度は暗唱できた。ところが、お経を読もうとした途端、喉にものすごい圧力がかかり、声を出せなくなるばかりか、息も出来なくなった。


「そんなものが俺に効くか」


 ゾッとした。それは地の底から響くような低い男の声だった。この病室にいるのは私とあの少女だけのはずだ。本来居てはならない男の声は、イヤホンを通しているかと思うほどはっきりと、私の鼓膜を震わせた。


「お前は院長のところへ連れて行く、ひひひひひ」


 男は私の喉を押さえたまま、気味の悪いことを言って笑う。助けを呼ぼうにも、声が出せず、息苦しさでもがくことしかできない。こんな訳の分からない男に生殺与奪を握られているという恐怖が、私に涙を流させる。このまま死んでしまうのだろうか。


(ああ、でも死んだら、楽かもしれない)


 生きていても楽しいこともなく、誰からも認められない。そんな人生をこのまま続けるよりは、ここで死んだ方がマシなのかもしれない。自殺をする勇気はないので、誰かが殺してくれるのなら都合が良い。もう疲れた、他人のために尽くすのは。


「そうだ、お前など生きていても仕方ない。誰もお前を好きにならない。ただ生きているくらいなら、その命を我々の役に立てて死んでゆけ」


 男は私の心を見抜いて、嘲りの笑みで私の命を否定する。


(そうよ、どうせ私なんか生きてても…)


 私の心が生きることをやめようとした、その時である。


「役に立つ必要なんかないわ」


 突然、ベッドのカーテンが勢いよく開けられた。そこにいたのは、隣のベッドに寝ていたはずの、あの少女である。ただし、グルグルに巻かれていた包帯は解け、彼女の手に握られて床へと長く垂れていた。少女は全く重傷ではなく、自分の足で立っている。


「人間は役に立つために生きているわけじゃない、増して死に損ないの外道のために命を使うなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある」


 男に向かってそう言うと、少女は包帯を持った右手を前に出し、まるで空中に何か文字でも描くかのように素早く動かした。すると、信じられないことが起きた。

 床まで垂れていた包帯が、少女の手の動きに合わせて空中に浮かび上がったかと思うと、たちまち私の喉を押さえていた男の腕に巻きついたのだ。男は苦しそうな叫び声を上げた。蛇のように巻きついた包帯には、何か黒い文字のような模様が描かれている。


「立って!」


 男の力が緩んだ隙に、少女は私をベッドから引き摺り下ろし、肩を貸してくれた。包帯は、少女の手を離れてもなお、男の腕や首に巻きついて締め上げている。


「そんなに長くは保たない、こっちよ」


 少女に連れられて廊下に出ると、私は自分の目を疑った。

 廊下はまるで廃墟のような有様で、床のタイルや壁の塗装はボロボロに剥がれて、鉄筋とコンクリートが剥き出しになっていた。どう見ても人の出入りする病院の様相ではない。


「これは、どうなってるの…?」

「やっと正しく認識したみたいね。ここは10年以上前に病院だった廃墟よ。本来は生きた人間なんか1人もいないはずなの。だから、あなたが突然現れて『入院した』なんて言い出した時は焦ったわ。また生贄を攫ってきたのね」


 少女は1人納得しているが、私は全く事態が飲み込めず頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 確かに私は、普通の地元の病院に入院するために待合室で座っていたはずなのだ。それから少し意識が飛んだが、目覚めた時も普通の病室のベッドにいた。

 なのに、夜になって全く別の場所に移動してしまったようだ。廊下の割れた窓から見える景色は、真っ赤な月光に照らされた血のような曇り空だけだ。

 廊下を足早に歩いて、エレベーターと階段のある広い空間に到着すると、少女は私を壁にもたれさせて一息入れた。廊下の向こうからは、男の叫び声がまだ響いている。私は恐怖と混乱でまだ震えていたが、とりあえず少女にお礼を言った。


「あ、ありがとう…でも、どういうことなのか、私全然…」

「そうでしょうね。納得できるかどうかわからないけど、説明するわ。まず、ここは平坂病院跡。10数年前に、患者や看護師が何人も失踪する事件が起きて閉鎖された場所よ。そして、ここでは未だに人が行方不明になってる。原因は、ここに巣食ってる悪霊よ」


 少女の言うことには、かつてこの病院の院長がカルトに嵌り、入院した患者を夜中に拉致して、悪魔的な儀式の生贄として殺害していたという。院長までもが失踪して閉鎖された後も、ここに入った人間が失踪したまま帰ってこないということがあったそうだ。


「で、私は調査を依頼されてやってきた、まあ幽霊退治屋ってところよ」

「はぁ…」


 どの話も、私には全く理解の及ばない内容だけど、少なくとも今、私が危険な場所に連れ去られていることだけは確かなようだ。喉には、まだ男に肘を押し付けられた感触が残っている。

 少女は喉を触る私を見ながら、こう言った。


「あなた、あんまり抵抗しなかったわね?悪霊は心の弱った人間をつけ狙うわ。あなたが狙われた理由は、恐らくあなたが襲いやすそうだったから」

「………」


 それは何となく察していた。私は別に、自殺願望があるわけではない。でも、さっきの男に「生きていても仕方ない」と言われた時、確かにこのまま死んだ方がマシかもしれない、と考えてしまっていた。誰かに命を奪われることに、抵抗する気力が湧かなかった。


「何も言わなくても、顔を見ればわかるわね。あなた、気苦労を解消するのが苦手で抱え込んでしまうタイプでしょ?そして、それを誰にも打ち明けられない」

「…お祓い屋さんは心まで見通せるってわけね」

「心がわかったところで何もできないけれどね。私にできることは、悪霊を祓うことだけ」

「立派な仕事じゃない?私なんかとは大違い。あなたは、あんな大男にも物怖じせず立ち向かったけど、私は…ダメなの。何もかも上手く行かないし、もう全部捨てて逃げ出したい、それができないなら…」


 この世から消えてなくなりたい、という言葉だけは飲み込んだ。私を助けてくれた少女の前で、そんなことは口に出せない。


「でも、それが今一番重要なことよ」

「え?」

「あの悪霊は強力すぎる。並みの人間ではまず殺されてしまうわ。だから、全力で逃げなさい。そうすればあなたの助かる可能性も高くなるし、私も仕事がしやすくなる。あなたに今できるのは『この場所から逃げる』一択よ」


 逃げることは、弱い人間のすることだと、そう思っていた。しかし、少女は逃げて良い、むしろ逃げるしかないという。


「ごく当たり前の選択肢よ。自分の安全を脅かすような場所から離れることは、野生動物にだって基本中の基本として備わっているわ。人は誰しも、ドツボにハマって逃げられないと思い込むものだけれど、そんなことはないのよ」


 考えの凝り固まって病んだ頭は、その少女の言葉によって揉み解され、当たり前の本能を思い出したようだった。


「…そう、よね、逃げるしかないわよね。でも、私、脚が…」


 頭は冴えてきたものの、肝心の逃げるための脚が骨折しているのだ。すると少女は、病室から持って来た松葉杖を手渡し、彼女の腕に巻いていた添え木と包帯を私の脚に巻いてくれた。


「これで少しはマシに動けると思うわ。途中までは私も手を貸すから、一階まで辿り着いたら、あとは1人で出口まで走って」


 遠くの病室から聞こえていた男の叫び声は既に止んでいる。私は少女に肩を借りて、4階の階段を降り始めた。

 階段もやはり、廃墟のように壁の塗装が剥がれ、鉄筋が剥き出しになっている。天井からは、配線とは明らかに違う、ヌルヌルと光る気味の悪い物体が垂れ下がっている。階段の床はザラザラと埃っぽく、滑らないように気をつけて降らなければならない。

 3階までは順調に降りられた。しかし、2階の入り口のある踊り場に差し掛かった時、入り口から奇妙な音がした。


 ショキ


「なに!?あの音は!?」

「…まずいわね、急ぎましょう」


 ショキ、ショキ


 何か金属音のようなものが、2階の廊下から近づいてくる。少女と私は急いで1階への階段を降りていく。

 しかし、音は遠ざかるどころか、耳元まで近づいているような気さえした。


 ショキ、ショキ、ショキ


「振り向いちゃダメよ。絶対に」


 ショキ、ショキ、ショキ、ショキ


 少女は私に忠告した。私もそれに従おうと努力するが、まるで振り向かせようとするかのように、音は早く、激しく鳴り響く。

 ついに1階の廊下に辿り着き、あとは数十メートル先の玄関から外に出るだけだ。


 ショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキショキ


 玄関は目と鼻の先だった。

 しかし、私はうっかり、玄関の扉の横にある姿見で、後ろから迫る音の正体を見てしまった。

 ()()と、目が合ってしまった。


「イサナさ〜ん、ダメじゃない、勝手に病室から抜け出したら〜」


 それは、私に不吉なことを言ったあの看護師だった。しかし、そのあまりに悍ましく変貌した姿に、私は背中から冷や汗がどっと噴き出すのを感じた。

 看護師の顔は、口が耳まで裂け、顎が虫のように左右にパックリと割れていた。目玉は飛び出し、瞼の下から垂れ下がっている。


「包帯を替えましょうね〜、足首ごと。アハハハハ!」


 そう言って笑いながら、右手に持った異様に大きく長いハサミをショキショキと鳴らして追いかけてくる。


「私がなんとかするから、あなたは外まで走って!」


 玄関まで3メートルほどになったところで、少女はそう言って、私を玄関に押しやり、後ろを振り向いた。


「振り向かずに外へ!」


 私は少女が心配だったが、彼女自身がそう強く叫んだので、左足を引きずりながら、松葉杖でなんとか外へと出た。後ろの様子は全くわからないが、とにかく病院の敷地外へと急いだ。






 病院を出ると、そこは山道だった。平坂病院は山の上に建てられていたらしい。外は赤い月の光に照らされ、現実とは思えない不気味な世界と化していた。

 松葉杖をついてなんとか坂道を降りていくと、途中に公衆電話のボックスが設置されているのが見えた。


(そうだ、助けを呼べば…!)


 ポケットを探ると、たまたま10円硬貨も4枚ほど入っていた。財布はいつもバッグに入れて持ち歩くのだが、今日はなぜか小銭をポケットに入れていたらしい。電話ボックスに入り、実家の番号をプッシュする。程なくして、電話が繋がった。


「もしもし、お母さん?私!ミコト!今すぐ平坂病院ってとこに来て欲しいんだけど!」

「………」


 返事がない。私は唐突過ぎたかと思って、一度深呼吸をしてから話した。


「いきなりでごめんね、でも、自分でもよくわからないことになってて。平坂病院ってところ、山の上の病院なんだけど、そんなに遠い場所じゃないはずだから、すぐに」

「イサナさんは引越されました」


 私は心臓が喉から飛び出すかと思うほど驚いた。

 電話の向こうから聞こえてきた声は、母の声でも、父の声でもない、全く別人の老婆の声だった。


「えっと…すみません、間違えました…」


 そう言って、私は受話器を置いた。

 おかしい、間違いなく実家の番号を押したはずなのに、別のところへ繋がってしまったようだ。いや、ほんの僅かの押し間違いに気づかなかっただけかもしれない。


(でも、『イサナさんは引っ越した』って…)


 イサナは私の苗字だ。偶然、かけてしまった相手の家に同姓の人が住んでいたのだろうか?

 少し気味悪く思いながら、私は今度こそ間違えず、家の番号を押して受話器を耳に当てた。


「…あ、もしもし、イサナさんのお宅、ですよね?」


 恐る恐る尋ねた私の耳に飛び込んできたのは、同じ老婆のドスの効いた返答だった。


「引っ越したって言っただろうが!!もうお前に家族はいないんだよ根暗女ッ!!独りで怯えて死ね!!」


 老婆はそう叫ぶと、ガチャンと一方的に電話を切ってしまった。

 私は怒鳴られ、しかも酷く罵られたことで体が竦み、震えながら受話器を手放した。持ち手のいなくなった受話器が、ぶらぶらと垂れ下がって揺れた。電話ボックスのガラスにもたれて、私は途方に暮れた。


「どうして…?そんな、急に引っ越しなんてするはずないわ、今朝も家から出勤したのよ!?」


 すると、混乱する私を、さらに追い詰めるかのような声が聞こえた。


「ひひひひひ、逃げても無駄だ、どこにも助けなど届かんぞ」


 それは、私をベッドに押さえつけた男の声だった。


「お前はここから出ることなどできん。さあ、院長が4人目の患者をご所望だ」


 私は声のする方を振り返って呆然とした。男が背後に立っていたことにではない。振り返った景色が、電話ボックスのある山道ではなかったからだ。私がかけていた公衆電話は、病院の玄関にある鏡の隣に設置されたものだった。


「気をしっかり持ちなさい!あなたは、()()()()()()()()()()()()()!」


 男の向こう側に、看護師を抑える少女の姿が見えた。

 私が玄関から出て、山道を下り、電話ボックスに入ったのは、全て夢だったのだろうか?悪霊に幻を見せられていたのだろうか?

 男は私の右腕を、物凄い力で掴んだ。ベッドの上にいた時の私なら、抵抗もせず、身を任せていたかもしれない。しかし、今の私は少女に助けてもらった借りがあるし、何より、もう死にたいなどとは思っていない。


「離しなさいよ…!」


 私は、まだ自由な左手で、咄嗟に少女から貰った般若心経の経本を、男の顔に思いっきり叩きつけた。すると、男は顔を両手で覆って苦しげな叫び声を上げた。

 男が手放した金剛杖が床に転がる。


(そうか、あの時の修行僧…!)


 私は、今まで散々怖がらせられたのがムカムカして、その金剛杖を手に取り、苦しがる男の手を払った。経本は、男の眉間にぴったりとくっついて離れない様子だった。


「そのまま押し込みなさい!」


 少女の指示に従って、私は杖の先端で経本を思いっきり突いた。粘土のような手応えと共に、杖は男の眉間にめり込んだ。


「ウオオオオオオオオオ」


 雄叫びをあげて、男の顔はまるで土が崩れ落ちるようにボロボロと崩れ始めた。次いで指や腕、そして足も土になり、その場に膝を折ったかと思うと、土の塊の山ができた。


「はぁ…はぁ…」


 私は金剛杖を手放して、尻餅をついた。


「何とか退けたみたいね」


 気がつくと、看護師はいなくなり、少女だけが傍に立っていた。


「こっちも何とかなったわ。なかなか勇敢だったわよ、あなた」


 そう言って、少女は初めて微笑んだ。

 しかし、私は微笑みよりも、彼女の左の二の腕から先が千切れかかり、左目が潰れていることに驚愕していた。


「ひどい怪我じゃない…!」

「ああ、これ、大したことないわ、ほら」


 そう言って、少女は突然、右手で左腕を掴んでブチブチと引きちぎった。そして、その傷口を私に見えるように持った。傷口は、血や肉などは出ておらず、木材が折れたようなささくれ立ちがあるだけだった。


「昔、色々あって、痛みを感じない身体になったのよ。まあ、そういう訳だから、多少の無茶もできる。でも、今度こそ外に出ましょう」


 少女は残った右腕で私の脇を抱え、外まで連れ出してくれた。病院の外は、白い月の光に照らされた、ごく普通の山道だった。

 少女は外に出ると、病院の玄関扉の隙間全部にお札のようなものを入念に貼った。


「これですぐに出てくることはできないはずよ。さ、あなたはもう戻らなきゃ。警察を呼ぶから、保護してもらいなさい」


 少女は右の脇に左腕を抱えて、携帯電話を取り出した。私は、まだ少女に聞きたいことが沢山あったので、番号を押す手を止めて言った。


「ま、待って!あなたはどうするの?」

「私は、まだ仕事が残ってるから」

「そんな怪我じゃダメよ!私も手伝うわ!」


 私は、会ってまだ間もないこの少女に、何かしてあげたい、力になりたいという気持ちになっていた。

 しかし、少女は私の手をそっと下ろさせて、右手を私の額に当てた。脇に抱えていた左腕は、どさりと地面に落ちた。


「ダメよ、あなたはここでお別れ。もうこっちの世界に関わっちゃいけないわ。せっかく助かった命、大事にしてね」


 少女は優しい声で何かの言葉を唱えた。

 すると、私は急に眠気に襲われ、少女に言葉をかける暇もなく、あっという間に意識が途切れた。






 数時間後、私は平坂病院から山道を下ったところにある、バス停のベンチに寝ているところを警察に保護された。

 悪夢は終わったのだが、今回の恐怖体験は私だけでなく、世の中でもちょっとした騒ぎになっていた。

 なんと、私は地元の病院の待合室で消息を絶ってから、4日間も行方不明だったそうだ。病院から数キロ離れた平坂病院の近くで見つかったということ、そして首や腕に強く圧迫された痣があったことから、誘拐事件の被害者として私は事情聴取を受けた。

 私は平坂病院で体験したことを正直に話した。てっきり一笑に付されると予想していたが、私の話を聞いたベテランの刑事は青ざめた顔で


「お嬢さん、悪いことは言わないから、その話はここだけにしておきなさい。あの病院でのことは公にしちゃならん、そういう暗黙の了解があるんだ」


 刑事は、私が少女から聞いたことと大体同じ話を聞かせてくれた。

 曰く、カルト宗教に嵌った院長が、勤務している看護師、入院している患者、果ては自分の娘まで怪しげな儀式のために殺害したという噂があった。実際に3人の患者の他殺体が出たことで事件になり、直後に院長は失踪した。事件が迷宮入りした後も、近所では「病院から明かりが漏れている」「何か動物の鳴き声のような音が聞こえる」などの噂が絶えなかったそうだ。

 しかし、私が少女から聞いた「閉鎖後も失踪事件があった」という話は出てこなかったので、私も黙っていた。






 結局、私は誘拐されたが運良く助かった、犯人は捜索中、ということで納得してくれと懇願された。私も、別に誰かに話すことでもないからと他言無用にすることを約束した。

 職場に復帰した時、若い新人や外国の研修生達は、随分と心配して話しかけてくれた。根本の感性が違うのは相変わらずだが、案外優しい子達だということがわかって、私のストレスはちょっぴり減った気がした。

 だが、私は今でもあの病院での出来事を夢に見る。

 恐ろしい看護師や修行僧、そして私を助けてくれた名前も知らない少女。


 “せっかく助かった命、大事にしてね”


 恐怖の体験ではあったが、前向きに捉えれば、私は以前よりも自分の身を案じるようになったと思う。その理由は、少女の言葉が頭に残っているというのもあるし、何より、二度と悪いモノに呼び寄せられたくないからだ。

 悪霊は、心の弱った人間を狙うという。私が無理をして心身ともに弱った時、またあの下駄と金剛杖の音が聞こえてくるかもしれない。そうならない為に、逃げられることからは逃げようと決めた。あの少女が、次も助けてくれるとは限らないのだから。



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