1話 目が覚めたが夢の中にいるようだ
テンポが掴めない!
「っつ……背中が、首が、肩が……」
明次は半身を起こした状態でそこが見慣れない草原だと気付く。
「ここは…… いや、なんで? どこ?」
彼は土と草が体に付いた不快感に文句を言いたくなるのを堪え、今の状況を把握しようと立ち上がって周囲を見渡した。
「じいちゃんちではないな……
というか、そもそも都内ですら無いんじゃないか? ドッキリとかじゃ……拉致? でも誰もいなし……」
そこは彼が現状を把握するにはあまりに材料の乏しい場所だった。
彼が立つのは背の低い草が生え、色とりどりの花が咲く平原と呼べる場所だった。
歩いて数分の所にはキラキラと湖面が輝き、遠くの地平には山々が連なっているのが見える。
「あー、最近、ライトノベルとかで異世界物見過ぎた影響だな。まぁ妙にリアリティのある夢だと思うけど、そんな夢もあるはずだな。少なくとも本当に異世界に来た可能性よりは夢の方が現実的だ」
夢という時点で現実も何も無いのだが、そのことで彼を責めるものはいない。
そこで彼は自分自身の状況を再確認する。
まず衣服に関しては長袖のTシャツにジーパン、スニーカー、軍手。
左右のポッケにスマホと小銭入れがあり、ここまでは彼が気を失う時までの状態と変わらない。
「スマホは……んー電池はあったはずだけど反応ないな。小銭は覚えてないけど中身はありそうだな。ん? ベルトにこんな袋つけてたっけ?」
彼のベルトには見覚えの無い、金糸の刺繍が入った皮袋が紐でくっついていた。
中身は入っていなさそうなそれをベルトから外し開けてみると、1枚の紙がみえた。
紙を手に取ると、表には模様が、裏には文字が書いてあった。
「魔法陣に手を置き、詠唱を唱えよ。 か、そっかそっか…… これを書いたやつは俺を恥ずかし殺そうって事か。 まぁ、内容はともかくだ。 これ、日本語じゃない……よな?」
彼は確かにその文を読んでいた。
しかしその文字列は彼にとって日本語ではないと断言できるものであった。
「なんで読めるんだ? 日本語でも無いのに……ん? 日本語ってどうやって書くんだ? ……待て、待ってくれ、俺はいま何語で喋ってるんだ? ってか、頭ん中で考えてるこの言葉は何語だ?」
頭痛。
それ以上の思考は危険だと脳が上げる悲鳴。
彼は日本語を忘れてしまっている。いや、忘れたなどという生易しい表現では表せない、完全にひとつの言語を彼は失ったという事実。
彼が思い出す日本の風景、駅や店の文字、地名、その他すべてが彼が唯一持つ彼の知らない言語で評価されていた。
「なんだ、どうなってんだ!? どこかに日本語は……Tシャツのタグ……違う! 文字詰め込みすぎだろ! 読めるけど読めねぇわ! 小銭は……日本の小銭じゃねぇ……」
彼の小銭入れには金、銀、銅の色をした硬貨が入っており、銀と銅に関しては大小2つの異なるサイズがあった。
両面には同じ模様が刻印されていた。
彼はそれがどこの硬貨か考えるのを後にし、大きい銅の硬貨で地面に自分の名前を書いた。
「まぁ、そうだよな」
須田明次と書かれるはずの地面には謎の言語で彼の名前が書かれていた。
「もういい、これ以上の頭痛は勘弁。 紙の方に集中しよ」
深く考えたところで推論しか成り立たないと諦め、彼は再び紙を手に取った。
紙の内容を即座に実行しないのは、それによって何かが起きる可能性は高く、発生した現象が自身にとってプラスとなる保証がないという不安が拭えないからだ。
そうして堂々巡りの思考の末、彼が導いた答えは
「1番高い可能性はこれが全部夢だってことだ。 異世界に来たって考えるのは、そうであって欲しいっていうただの願望だしな。 よし、厨二全開でやってやるか!」
彼は書かれている言葉を覚え、意味はわからないが口の中で繰り返し唱えた。
覚えただろうか、という段階で彼は紙を地面に置き、手のひらで抑えつつ詠唱を唱えた。
「《アミス・レメイェルト・イフォマ》…………っっっっづっ! なんっ……やめっ……きっ……あ゛ぁ゛っ!?」
再びの頭痛。
しかし今度は脳だけに収まらなかった。
痛みは脳より下へ伝播した。
目は太陽を直視するより鋭く彼の両眼を刺し
耳はどんな音よりも高く大きく彼の鼓膜を響かせ
鼻は匂いではなく酸を流し込まれたかの様に沁み
口は歯が砕け舌がヤスリで擦られたと感じ
喉は燃え
肺は真空に押し潰され
腹は爆散し
四肢は全てねじ切られ
皮膚は幾重にも剥がされ
全ての感覚が彼に牙を剥いた
当然、あまりの苦痛に意識を手放すかと彼は期待したが、その痛みは彼を逃がしはしなかった。
5秒、たったそれだけの時間で彼は廃人になりかけた。
彼自身には数分にも数時間にも感じられたであろう長く短い時間
彼は地面にうつ伏せになり、痛みのない幸福な世界に浸った。
土と草の匂い、小石が皮膚を押し上げる地面、手の甲を渡る小さな虫。
少し前まで不快に感じたこれらの何と幸せなことか。
30分ほどそのままでいた彼は不意に立ち上がり、フラフラと近くの湖まで歩いて土のついた手と顔を洗い流した。
「落ち着いた……かな。いや、遅効魔法のお陰で痛くなくなってからすぐに頭は冷静だったんだけどな。それでも即行動開始は無理だろ……」
彼は手で水をすくい、喉を潤しながら、先ほどの魔法陣と詠唱によって既に知っていることとされた情報を整理する。
「まず、夢じゃなく本当に異世界に来たって事でおめでとう、かな? この世界は精霊を用いて魔法を行使するってのは、ゲームで言うとMPが精霊って感じでいいか……時代背景は術者の時代と年代がかなり違うかも知れないから不明、魔物は多分いるから気をつけた方がいい……って随分曖昧な情報ばっかだな」
その他にもこの世界の仕組みの様な様々な事を彼は知る事となったが、実際に見て感じて理解した知識ではなく、伝聞に近い知っているだけの知識では実感というものがわかなかった。
そもそもあの紙の持ち主も、全てを教えられるほどの情報を与えることは不可能だった。
それならばと、ある程度の知識を与え、持ち主の元へ来て欲しいという魔法であった。
「この魔法使いの目的がわからん。 でもこうして会いたがるってことは当然、異世界転移者なんてこの世界にそうそういるもんじゃないってことか。 願わくばこの魔法使いがまだ生きていて、早々に会えればいいんだけどな」
とりあえずの目標を定めた彼は、魔法陣が消えた紙と革袋をベルトにかけ、村や町が近くにある事を願いつつ、湖沿いを歩き出した。
しばらく異世界というより海外の牧歌的風景を楽しんでいると、湾曲した湖の向こう岸に、木の家が並んだ村のようなものがあることに気がついた。
「異世界人との初交流か……不安だ。不安と期待と空腹しかない……」
彼の1番の不安は、彼の身元が彼自身ですら不明だという事だった。
「ベタな気もするが、記憶喪失って事にするか? 異世界から来ましたー! よりは遥かにマシだろ。と言か、道に出て分かったけど湖側だけ木の家だけど他は全部石とかレンガじゃないか? 少なくとも街って言えるレベルかな」
街から何処かへ続いているだろう街道を見つけ、街の入り口と思われる門の方へ歩いていると、3人の男たちが街道の脇で話をしていた。
「どうだった、南端の森は?」
「直接目で見るこたぁ出来なかったが、たぶん、ナルツァ峡谷まで完全に喰われた様子だったな」
「今回はエルフ狙いか……しばらく南の方は荒れるな」
「街の誰もやられてねぇみたいだし、良かったっちゃあ良かったのか」
「アクエスから警報が来てたからな、たぶんエルフたちも逃げきれてるとは思うさ」
「警告に間に合うって事はアザハト本体じゃねぇ、魔人と魔物だけだったって事だろうな」
明次は盗み聞きがバレない程度にゆっくりと横を過ぎたが、これ以上は怪しまれるとその場を離れた。
「エルフ、魔人、魔物は存在するのか。それとアザハトとかいうヤバそうな奴。で、アクエスからって事は
この街がアクエスではないってことくらいか……記憶喪失方針に変わりないな……」
彼は街規模なら役所や警察の様な困った人を助ける場所があるはずだと願いながら開かれた門をくぐった。
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