10話 エルダーオーガ戦
一応、グロ注意です。
ミシェルは恩師であるリフィの言葉を思い出した。
この世界は実力主義だ、と
弱肉強食の世界なのだ、と
だからこそ己の、個の力を研鑽し続けない、と。
リルドに英雄譚や悲劇を聞いた。
ドラゴンを単騎で倒した英雄がいる、と
英雄の力を借りずにアザハトを押し留めた騎士がいる、と
英雄や英雄候補生を含めた50万の軍勢を、たった1体で殲滅した魔物がいる、と
ミシェルは眼前の魔物に釘付けだった。
全ての魔物にランクがある。
下位種である、レッサー
基本種である、ノーマル
上位種である、ハイ
そして、最上位種である、エルダー
この上のエンシェントは神話の類とされる。
つまり、ミシェルの目の前にいるのはオーガであってもその最上位、エルダーオーガである。
ミシェルの血が疼く。
転移前より続く彼の悪癖が歓喜する。
いま飛び出せば、周りに止められる事は明らかだ。
ミシェルには門前の兵達をかいくぐる手段が思いつかない。
まだだ、とミシェルは悪癖を抑えつけ、治癒隊への支持を待った。
門前はすぐに惨状と化した。
中級魔法が一切通用せず、鍛え上げられた剣もその皮膚に傷をつけられない。
一方、エルダーオーガの拳は易々と物理結界と頑強な鎧に包まれた兵士に穴を開ける。
中級魔法士数名による上級攻撃魔法は確かにエルダーオーガを傷つけた。
しかしすぐさまエルダーオーガに対し何処からか回復魔法がかけられる。
パトラもいる司令部では、その正体を探ろうとするが、巧妙な隠蔽と対魔法により、隠れた魔物が近くにいる事しか分からない。
そんな状態が続き、1時間もしないうちに前衛の兵たちは全滅した。
撤退に成功した兵たちは、すぐさま職務を放棄し街の中へと消えていった。
ミシェル含む治癒隊はただ眺めている事しか出来なかった。
何せ、1撃必殺である。
無傷か即死の2択における戦いにおいて彼らにできる事はなかった。
十分に支援魔法をかけられた兵達が散っていく、ただそれを眺めている事しかできなかった。
ミシェルはスリットから眺める。
戦う者の居なくなったそこで、エルダーオーガは何をするわけでもなくただ立っていた。
時折起こる上級魔法を行使する城壁上の魔法士に対し、木や石を投げて攻撃していたが、物理結界を超えられないことを悟ると、口を歪め、兵士の死体を投げつけた。
透けた薄黄色に光る結界に赤い模様が付着した。
エルダーオーガがただの八つ当たりでやったのか、意識的にやったのかは不明だが、その後に上級魔法が飛ばない事から、彼にとっては最善手であっただろう。
こう着状態が続いた。
エルダーオーガの狙いは不明。
隠れた魔物も不明。
陽動の可能性もあるとして、全兵力は集められないが、それでも数百の兵士や傭兵が東門へ集まっていた。
「ミシェル君、あまり睨みすぎて不興を買わないでくれよ?」
ミシェルは突然かけられた声に驚き振り返ると、疲れた顔のパトラがいた。
「パトラ副隊長、司令部の方はいいんですか?」
パトラは手をヒラヒラと降った。
「あぁ、あのクソ野郎がここ1時間全く動かないからな…… 近隣に使者を出して、英雄候補生なり上級魔法がなりエリート傭兵なり、数を無視してただ力のある者だけを集めている。だが、恐らく3日はかかるだろう…… それまで奴が馬鹿みたいに突っ立っていてくれりゃいいがな」
パトラは憎々しげにそう言った。
そして、こんな時にリルド隊長がいてくれればな、と悔しそうに付け加えた。
ミシェルはリルドがいた所で何か変わるのかと疑問を抱きつつ、疲れ切った様子のパトラに対し初級治癒魔法を使った。
「気休めですが…… それより、アレが動かない限り現状維持ってことでいいんですかね?」
パトラは治癒に感謝しつつ首肯した。
パトラは代理の兵士に寮まで送らせると提案したが、ミシェルは寮に戻った所で眠れるわけが無い、ならばここで手伝わせてくれと申し出た。
「すまないな…… 本来は未成人の君が作戦に加わっていること自体異例なのだが、状況が状況でな。そう言ってくれると助かる」
疲れが多少抜けた様子のパトラは、ミシェルに感謝しつつ他の兵の元へと歩み寄って行った。
ミシェルは視線をエルダーオーガへ戻した。
何も変わらない。
ふと、ミシェルはエルダーオーガと目が合った気がした。
ミシェルは惨状を思い出し恐怖するより先に、思ってしまった。
殺しあってみたい、と。
ミシェルは軽く頭を振り、殺し合うどころか一方的にやられるだけだと苦笑した。
ただ、奥の手を使う隙くらいあれば良いな、とか、誰にも見られたくないな、など妄想に耽りそうになったが、それは叶わなかった。
「お、おい! 奴がこっちに来るぞ!」
「結界は大丈夫か!? 城壁から離れろ!」
「結界魔法を張れ! 初級でもいいから早く!!」
ミシェルもスリットから引き剥がされ、すぐに初級結界魔法が張れる事を伝え、配置についた。
エルダーオーガの様子がわからない。
何せ誰も近くに寄れない。
ただ、城壁の上から結界を張れと怒号が飛ぶ。
ミシェルや他の者達が結界を作り終えた瞬間、間近に落雷でも落ちたかのような轟音と共に城壁の一部が崩れた。
高速で飛来する瓦礫がミシェルのすぐ隣にいる兵士に当たる。
ミシェルは咄嗟にスキル、マドを発動し収束を開始した。
次の瞬間、銀色の触手がいくつも伸びてきた。
それらは何人もの兵士を捉え、門の外へと放り出した。
それがエルダーオーガの髪だと気付く頃には、城壁の修復が始まり、脅威は再び街の外へと戻っていった。
場は混乱に包まれた。
数瞬のあいだに十数人の犠牲者は増え、外に追い出された者も数十人に登る。
何故、一度中に入っておきながら外へと戻ったのか、ますます目的がわからないと司令部はパニック状態だった。
再び破られないための対抗策を、いやそれより外へ出された者への支援を、結界の修復を、司令部の各々が叫び合った。
そんな中、司令部を飛び出しパトラは、外に出た者の確認をするように近くの兵へ言い渡した。
更に魔法隊に対し、上級攻撃魔法の発動準備を命じる。
そして己が自身もまた、城壁の上から見下ろした。
意を決して挑む者、門へと近づき撤退を試みる者、逆に街道に向かって逃げていく者。
その瞬間、パトラは目を疑った。
兵士や傭兵ではなく、憲兵の格好をした少年が街道の向こうへと走る後ろ姿を見た。
「……っ! ミシェル君……!」
パトラは願った。
どうか彼に気付くな、と
どうか逃げ切ってやり過ごしてくれ、と
下で蹂躙劇を開始したエルダーオーガはそちらに意識を向けていない。
だが、戦意のない者が多いせいか兵達はの数は瞬く間に減っていく。
ミシェルは遠く離れられただろうかとパトラが視線を戻し、絶句した。
ミシェルはこちらを、正確にはエルダーオーガに向き直っていた。
「何をしているんだ君はっ! くそっ! 魔法隊! 発動はまだか!?」
「精霊量が足りず、初級魔法士を呼び出したため少し遅れています! 残り20秒ほどです!」
見ると魔法隊にはもはやマトモに精霊量を持つ者が少なくなっていた。
パトラは舌打ちしたくなる気持ちを抑え、間に合うかと戦場を見る。
そこで見たものは、ミシェルがエルダーオーガに向けて伸ばす両手の先に、四角に青白く光る何かであった。
パトラはそれがミシェルのスキルだと気付くのに数秒遅れた。
何故なら記憶にあるそれは、それほど強くハッキリと光る事など無かったからだ。
「あれは……ミシェルのマドなのか……?」
最後の断末魔と共に眼下の蹂躙劇が終わる。
そしてエルダーオーガが背後のミシェルへと振り返った。
ミシェルのスキル、マドから火槍が現れる。
パトラの隣では、その初級魔法、ファイアランスを見て無駄だと呟く者がいた。
パトラも同感だった。
そんな魔法しか打てないのならいっそ逃げてくれ、と。
しかし、エルダーオーガがミシェルへ向けて一歩踏み出した時、火槍に変化が起きた。
青白い発光が火槍へと流れていく。
通常であれば、槍の形をした1メートルほどの橙色に燃えるそれが、青白い光に包まれていった。
そうして四角く光っていたマドは柔らかく形を変えて槍先まで青白い光で包みこんだ。
何かを察したエルダーオーガは即座に歩みを止め迎え撃つ態勢をとる。
両者の間は50メートル以上離れている。
誰かが息を飲む。
次の瞬間、火槍だったそれがミシェルの手元を離れエルダーオーガへと向かう。
誰もが思った。
遅すぎると。
速度としては通常のファイアランスと同じだが、距離が離れている分、避けやすかった。
パトラですら避けられる程である。
エルダーオーガが馬鹿正直に迎え撃つ訳がなく、まだ距離が半分もいっていない内に横へ避けた。
その瞬間、突如槍が方向を修正し速度をさらに上げエルダーオーガに迫った。
そのことに気づき、更に横にいこうとエルダーオーガが踏み込むも、その槍が胸を穿つ方が早かった。
魔法耐性に強いはずの肉体を胸から背中へと、その槍は貫いた。
エルダーオーガは膝を折った。
だが、その顔が胸の傷からミシェルへと向き直ったことで、絶命には至らなかったことに、兵達から怨嗟の声が出る。
すぐさま、エルダーオーガに対し治癒魔法がかけられたが、それを見たミシェルは顔をすぐ脇の林へと向け、再びマドを発動しながら走っていった。
「パトラ副隊長! 発動準備整いました!」
パトラはすぐさまエルダーオーガに対する魔法攻撃を指示した。
膝を折り隙だらけのエルダーオーガが巨大な火の柱に包まれた。
幾度となく撃ち込まれ、軽く耐え凌がれていたその攻撃に、初めてエルダーオーガが咆哮を上げた。
効いている。
パトラは魔法隊を集めるよう指示する。
更に傭兵の中でも魔法主体の者も呼びつけるようにと。
次射の用意をさせつつ、それまで再びあの地獄に近接戦をかけられるか悩んでいた。
―――――――――
ミシェルは林の中を駆けている。
その視界には、ボロ切れを纏い逃げる黒い影がいた。
探査魔法から容易く隠れられ、斥候にも見つからなかった魔物だったが、エルダーオーガの思わぬ危機に動揺し、咄嗟に治癒魔法を発動させたせいで、迂闊にもその姿をミシェルに見つかった。
その魔物の纏うローブは、かつて盗賊団から奪った者であった。
名は【不完全な隠者】
かなりレアな魔法具であり、効果は、直接認識されるまで見つからず、中級までの探査魔法をレジストする、というものであった。
そんな最高級品とも言えるそれを纏う魔物の正体を、ミシェルは何となく確信していた。
緑色をした鳥のように細い足、同じく骨ばった手、何よりたまに振り返り見せる醜悪な顔。
(ここまで引っ張っといて、ただの魔法使えるゴブリン? せっかく誰にも見てない林の中だってのに…… まぁいいか、早く終わらせて別の門からしれっと逃げよう……)
ミシェルはエルダーオーガに対し、これまでにない最大効率の収束を十分行い、それだけ溜めたマドならカスリ傷くらい付けられるだろうと思っていた。
結果は想定以上。
莫大な精霊量によって火槍の貫通力と、追従制御のみを上げ、熱量や射速は僅かにしか上げなかった。
そこまで効くとは思っていなかったミシェルは、次弾のためすぐにマドを再発動させていた。
そこへガサガサと黒い影が現れ、逃げるついでに実験しつつ林の中で仕留めようと追いかけ、今に至る。
ちなみに、魔法が使える時点でこのゴブリンはハイゴブリン以上となるが、ミシェルは知識と経験不足からただのゴブリンと勘違いしている。
「くそっ! 意外にっ! 速いなっ!」
ミシェルはゴブリンを捉えきれないでいた。
すでにマドの収束はある程度溜まっている。
あとは解放するだけなのだが、試してみたい欲求のせいで、どうしても近接に持ち込みたかった。
苛立ち始めたミシェルに対し、ゴブリンは振り返り、ファイアボールを放ってきた。
ミシェルはリフィとの実験を思い出しつつ、そのファイアボールをマドで収束、吸収し己が力と変換させようとした。
これはリフィと何度もやった為、慣れた風に射線から外れつつマドで迎え入れた。
何の変哲もなく、当然のように、通常通り、ファイアボールはミシェルのマドを持つ手に当たり、肉を焦がした。
「がぁっ! なんっ……でっ!」
ミシェルは地面に転がりながらも即座に治癒魔法を発動。
一度では治りきらない事を実験中に学んでいるので、合計3回の治癒魔法により、痛みも傷跡も消えた。
(なんで!? 収束限界? いや、まだ余裕があった。……ダメだ、分からない…… あぁくそっ! ゴブリンも逃したかな……)
ミシェルは混乱しつつ、マドを発動、収束開始し、辺りを見渡した。
すると、逃げたと思ったゴブリンがこちらに杖を向け笑っていた。
(あぁ、確かにあんな適当に放ったファイアボールに当たる奴なんて、弱いと思われるよな……)
ミシェルは普通に走っていれば当たらなかったであろうファイアボールを当たりに行って怪我をしたのだ。
そこに目的があったとはいえ、結果として無様だった事に恥ずかしさと悔しさを感じつつ、ゴブリンに言い訳をする気も起きず、薄く笑った。
ちょうどいいやぁ、というミシェルの呟きを、理解できずとも聞こえたゴブリンは、諦念を感じ取ったのか再びファイアボールを放った。
それに対し、ミシェルは先ほどと同じく、マドをファイアボールに向けた。
そしてそれが、ゴブリンからの視線だと完全に直撃した。
ゴブリンはまた笑いそうになるが、そのファイアボールが消えた後に、青白く光る盾が中空に浮かぶのを見た。
ミシェルが何かを呟くのが聞こえる。
「盾化……3、2、1、剣化」
ゴブリンは突然現れた盾が今度は剣に変わったの見て驚き、ただ突っ立っていた。
ミシェルは中空に浮かぶその剣を手に取り、ゴブリンへと駆け出す。
ゴブリンが慌てて魔法を唱えようとするより先に、ゴブリンの顎下から頭頂部にかけて剣が貫かれた。
貫いた剣は、その光を段々と弱くし、フッと消えた。
「うん、物質化も予想通り出来たし、あらかじめ設定した通り形状変化もした。あとは性能だけど……ゴブリン相手じゃ分かんないよなぁ…… かと言ってあの化け物相手に近接なんてしたくないし……もういいや、帰ろ」
ミシェルはゴブリンが身に付けていた装備を回収し、リュックに詰め、ゴブリンの足を引きずり歩いた。
討伐証明の部位を切り取るだけでいいかと思ったが、探査魔法にかからない特別なゴブリンかも、と思い、そっくり持ち帰る事にした。
東門へは向かわず、巡回ルートで通ったことのある道を探しつつ、比較的魔物の少ない北門へと向かう事にした。
念のため、マドを発動させ収束は控えめにさせつつ、ゴブリンを引きずりながら歩き出した。
10分ほど歩き、いつもの巡回ルートを見つけ、北門まで1時間くらいかと考えていた。
すると、何か、巨大な生物がこちらに迫るような音と地響きを感じた。
「嘘だろ!? 追ってきたか!?」
ミシェルはすぐに態勢を整え、マドの収束を最大効率化。
ずいぶん前から少しずつとはいえ収束させていた為、先ほどエルダーオーガに効いた火槍くらいは発動できるほどに溜まっていた。
しかしながら相手が見えないために、火槍ではなく盾にしようかと考え直した時、ふと音と地響きが止んだ。
え? とミシェルが目を凝らしつつ、疑問を浮かべていると
「ミシェルゥゥゥ!! 避けろぉぉっ!!」
何処からか男の怒声が聞こえた。
そして月明かりが遮られ、それに危険を感じ振り返り上を見ると、隻腕のエルダーオーガが空中からミシェルに迫った。
咄嗟に盾を発動しようとするよりも早く、両手ごとマドに横薙ぎの蹴りが入った。
両腕に引っ張られるようにミシェルも横へと吹き飛び、地面を転がりつつ木にぶつかった。
不味い、追撃が来る! と、ミシェルは仰向けから少し体を起こし、周囲を見渡す。
すると、遠くに走り去るエルダーオーガと、それを追う数人が見えた。
1人が振り返り、こちらに駆けて来ようとするのを見て、ミシェルは、大丈夫です! アイツをお願いします!と叫んだ。
こちらに向かっていた人も、すまん! 東門はもう安全だ! と叫ぶと、エルダーオーガを追っていった。
ミシェルは、やっぱり来てもらってゴブリン運び手伝って貰えば良かった、と思いつつ、逃す可能性を減らす方が大事だよな、と苦笑した。
フラつく頭と体を起こそうと、地面に手をつき起き上がろうとした瞬間、激痛が走った。
再び仰向けになり、横を向き、そして両手の違和感に気づいた。
いや、そんな、まさか、などと思いつつ、両手を見ると……いや、見れなかった。
ミシェルは両手を見ることができなかった。
何故なら両の手首から先には何も無かったからだ。
切断されたと言うよりは完全に引き千切られたかなような不恰好な赤とピンクと白の断面。
骨は断面より少し飛び出し、ピンク色の紐のようなものが肘まで垂れ下がっている。
至る所から脈拍に合わせた赤い噴水が沸き起こっていた。
絶叫
ミシェルの声にならない絶叫が辺りに響く。
自分が声を出してるのか、息を吐いているだけなのかも分からない。
目は、これ以上の惨劇を受け入れられないと固く閉ざされた。
肺の中の空気がカラになる頃、胃が押し上がり、口から中身をぶちまけた。
(あぁーーーくそっ! いてぇ! 確かに死にたがるって悪癖はあるけどさぁーー! 痛いのとか苦しいのはやなんだよ! ピンピンコロリ死にたいのよ! こんなんで死ぬとか違うじゃん! 自殺と同じじゃん!? 自殺はやだよぉぉ……)
ミシェルの思考はめちゃくちゃだった。
頭の中にいる沢山のミシェルが好き勝手喋っているようだった。
ふとその中のミシェルが、上級治癒士ディカナンなら部位欠損も治るのかと疑問を投げかけた。
するとまた別のミシェルが、そういえばリフィちゃん可愛かったな、とボヤいた。
そして全員のミシェルが、もう一度会いたいと唸った。
ミシェルの思考が凪いでいく。
相変わらず痛いが、エンドルフィンだかセルトニンだかセルロースだかが良い仕事をしているようで、痛いという感情とは別に思考はクリアだった。
(初級じゃ治癒魔法も意味がねぇし、あ、マドで治癒効果を上げるか? いや、あぁ、そうか)
結論を導き出したミシェルは即座にマドを発動、最大収束を開始する。
すると、今までにない感覚、自身の精霊量が加速度的に減少しているのがわかった。
その異変に、ミシェルがマドを見ると、相変わらずグロい手に引っかかるようにぶら下がるマドに対し、両手の断面から青白い光の粒子がマドに吸い込まれていく光景が見えた。
ミシェルは、今までに味わったことのない脱力感、腹の底から何かが抜けていく感覚に、話に聞いただけで知る、精霊量枯渇に陥りそうだと直感した。
マドはすでに今までに見たことのない強さで青白く光り、それどころかパチッパチッと何かが弾ける音を出し始めていた。
たぶん、いける。 これだけあれば、足りる。
完全にミシェルの勘であるが、これ以上は待てないだろうと、マドの発動を開始した。
リフィと共に考え辿り着いた、奥の手。
彼女はミシェルに言った。
これは、マドは、収束した精霊をあらゆる魔法や現象や物質に変換することが出来ると。
それは既成の魔法が使えるどころか、どういうものか知ってさえいればスキルさえ再現出来るはずだと。
ミシェルが望み、起こしたい事を収束した精霊に応じて叶えてくれるのよ、と、彼女は笑った。
それがどれほどすごい事なのか、彼女は自慢げにミシェルに解説してくれていたが、殆ど頭に入らなかった。
ミシェルにはその時、スキルの事などどうでも良かった。
ただ、誰か他人が、自分に対し、深く関心を寄せ、自分の何でも良い何かを深く考えてくれた。
その、転移前を含めても味わったことのない感覚に、彼はただ、彼女に惹かれる事でしか応えられなかった。
その時の感情を思い出し、危機的状況に似合わぬ微笑を浮かべつつ、ミシェルはマドに溜まった精霊の変換を命じる。
とにかく、両手の復元を。
感覚や見た目など完全に再現し、血管や神経、組成の全てを半永続的に再現しろ。
死んでも手だけが残るとか不気味すぎるから、他のとこと同じように成長し、朽ちろ。
もし精霊が余るようなら、マド、俺の頭ん中みて、勝手にしてくれ。
ミシェルのマドは、本人やリフィも気付いていないが、精霊を変換し事象を起こす上で生じる、論理的矛盾やあらゆる法則、不等号を、無理やり押し通すことが出来る。
そんな規格外に対し、勝手にしてくれ、など、マドの本質を知っていれば到底言えないセリフであった。
そんな事はつゆ知らず、マドはその膨大すぎる精霊を、たかが部位欠損の回復、という事象に対し解放した。
フッと光が消え、ミシェルは両手を確認する。
そこには、何の変哲も無い、ただの手があった。
握って、開いて、叩いて、つねって。
動かす上で違和感もないし、石を拾って握ってみても、石を粉々に出来るわけもなく、少し尖った部分が手のひらに刺さり、痛いと感じる。
成功だ。
ミシェルは何とか精霊が足りたようで良かったと思い、意識を手放した。
完全なる精霊量枯渇であった。
チートですね、完全に。
ただ、向かう所敵なしみたいな無双は恐らくしないし、出来ないと思います。