08:8月17日
書く書く!
とにかく書く!
始まりは8月9日の16時8分だった。
突如として膨れ上がった怨念めいた呪に、大島聡子は水を浴びたみたいに全身から冷や汗を吹いた。
同様に呪を感得したのは聡子だけではない。
日本中の、北は北海道から、南は沖縄まで、霊能者どころか、ちょっとした霊感のある者は誰も彼もが波紋のように広がった呪を感じ取ったのだ。
ある者は泡を吹いて卒倒し。
ある者は泣きわめき。
ある者は死を予感してうずくまる。
それほどまでに凶悪な呪だった。
真っ先に動いたのは神社本庁だ。
日本にあまねく広がった呪を祓うためにすぐさま能力者を結集したのだ。
続いて、宮内庁の陰陽師と修験道者がそれぞれ呪を返さんと護摩を焚いた。
「でもね。正直、無理だろうね。だってさ、日本の霊能は大戦のあとで大元の大樹が枯死しちゃってるからね。残ってるのは、枝葉だけ。そんな枝葉じゃあ、とてもじゃないけど日本にかぶさった真っ黒で重ったるい呪は跳ね返せやしないさ」
8月10日になると、目鼻の利く霊能者は続々と日本を脱出した。
今でも日本に残ってるのは、国に命をかけて尽くそうと思ってるような酔狂な連中だけ。
「ん? あたし? あたしはこの国が好きだから外国にまで逃げて生きようとは思わないし、何よりも、これほどの呪の根源を見てみたくなってね」
大島聡子は鼻が利く。
呪の濃淡を嗅ぎ分けて、そうして室賀剛志の許まで辿り着いたのだった。
「とはいえ、ここまでが限界。あんたより先は呪が濃くて、追えなくてさ」
「その話…」
「嘘じゃないよ。テレビのニュースで見なかったかい? 総理や大臣が外遊に出たって」
「それって」
大島さんはニヤニヤと笑った。
「そーいうこと。ついでに言うと、金持ちもね。昔っから金を持ってる連中は、霊能者を相談役に置いてるからね。もっとも、成り金はそうでもないみたいだけど」
で? と大島さんは顎をしゃくって、俺に話すよう促した。
俺は掛け軸に関することを話した。
親父に言われて、爺さんの死んだ村に行ったこと。
土蔵を漁って、2階で箱に仕舞われた掛け軸を見つけてしまったこと。
そして。
その掛け軸が如何にヤバかったかを震えながら語った。
「アレを…あの掛け軸を燃やせば、呪いとやらが晴れるんでしょうか?」
俺は敬語で尋ねた。
大島さんの言っていることは嘘じゃないと思えた。
だって、俺のところまで辿り着いてるじゃないか。
だったら、呪いとやらも本当で。
俺は、この大島さんを頼るほかにどうしようもなかったのだ。
「晴れないだろうね」
果たして、大島さんはサバサバと言った。
「だって、もう呪は放たれてるし」
とはいえ。と大島さんは人を食ったようなあのニヤニヤを浮かべて続けたのだ。
「その掛け軸を見てみたくはあるね。呪はもう抜けてるだろうけど、どういう切っ掛けでもって、そこまでの代物が出来上がったのかは霊視することができるかもだし」
大島さんが立ち上がる。
「案内おしよ」
俺に否応を言う権利はないようだった。
親父のトヨタ・アルファードに乗って、あの村を目指す。
こっちは今年になってディーラーから購入した車なので、カーナビも新型だ。
当然、ナビも更新されていて、育枝さんの教えてくれた通りに、村には新しい道がつながっていた。
村までは約5時間。
大島さんは途中のコンビニで買いこんだ弁当やお菓子やお酒を飲み食いして、今は助手席をスライドさせた寛ぎ空間でグースカ寝こけている。
なんでも呪の残り香にグルグル巻きにされた俺の傍に居ると疲れるらしい。
「食べて飲んで寝ないと、もたないのよ」
ということだ。
車を走らせる。
近づくにつれて、俺は恐怖で震えた。
逃げたくなる。
実際、幾度となくUターンしかけては思い直した。
どうにかこうにか俺を支えているのは育枝さんの存在だった。
迎えに行こう!
そう決心していた。
彼女をあの村から連れ出そうと。
あの笑顔をもう1度見ようと。
それだけが俺を支えていた。
税金の無駄遣いに思えるほど立派に舗装された山道を抜けて、ロータリーに着く。
アルフォードを駐車場に停車させると、むっくり、大島さんが体を起こした。
「ここかい?」
寝ていたとは思えない冴えた顔で、そう訊く。
「なるほどねぇ」
大島さんは車から出ると、何かを嗅ぐみたいに鼻をスンスンとさせた。
「あっちだね?」
車を降りてロックをかけた俺に、確認する。
彼女の指をさしている方向は、間違いなく爺さんの寺のある場所を示していた。
「分かるんですか?」
「分かるというか、感じるというか」
村人に見つかると面倒くさいと思ったものの、時刻は18時をゆうに過ぎているからだろうか、夕焼けの迫って朱く染まった村内には出歩いている人が見えなかった。
育枝さんに会いたいとは思ったものの、班目の屋敷には母親と婆さんもいる。
ともかく、俺は大島さんを寺へと案内した。
「土蔵ってのは、裏だって言ってたね」
「今から行くんですか?」
俺はビックリして訊いた。
大島さんは何でもないように肩を竦めてみせる。
「朝とか、明るいうちのほうが良くないですか?」
「別に、朝でも夜でも丑三つ時でも変わらないよ。前にも言ったけど、もう抜けてるだろうからね」
「だろう、って…」
「恐いなら、そこで待ってればいいさ」
大島さんはさっさと土蔵に向かってしまう。
俺は恐る恐る、大島さんの広やかな背中を追った。
玉砂利のジャリジャリという物音にさえビクビクしてしまう。
不意に大島さんの玉砂利を踏む音が止まった。
俺は緩慢に顔を上げて
「あんた、閉めたって言ったよね」
大島さんが言うのと、土蔵を視界に入れたのが同時だった。
閉めたはずの土蔵の扉が開け放たれていた。
「た、確かに閉めて…」
パ、パパ。
電球が明滅している。明滅するたびに、土蔵が黒々と浮かび上がる。
「なかなかホラーだね」
ニヤニヤと大島さんが笑う。
俺はもう叫ぶのを我慢するので精いっぱいだった。
「さてと。だとしたら、誰が開けたんだってことになるけど」
ハッ! とした。
育枝さんじゃないか?
思った。
思ってしまえば、体が動いた。
走って、土蔵へと駆けこむ。
大島さんが引き止めるような声をかけてきたけれど、関係ない。
「育枝さん!」
2階に駆け上がって
「育枝さん!」
誰もいないことに安堵して
「な、んで…」
丸められて木箱に安置されている掛け軸に、息を呑んだ。
今日中にもう1話いけるかな?