第1話
私は、月を見た。
髪や目だけでなく衣服も黒を纏っているが、差し込む日にやわらかく照らされたその姿は、月である。
うす暗い山奥の、古い塔の上で。私は、月を見たのだ。
その出逢いを偶然と呼ぶには惜しく、必然と呼ぶにはつまらない。まして、運命などというありふれた言葉など使いたくはない。
そう、私が迷った先で見た空に、月があったのだ。ただ、月があったのだ。
*
しゃれた店の並ぶ人通りの多い道で後ろから上機嫌に肩を叩かれ振り返る。ひとつに結んだ髪が顔のあとを追ってなびいたのが四月一日凪の視界の端に映る。雲ひとつない空のような色の髪の毛先から紫色がのぼってきて、涼やかなグラデーションを見せる変わった髪色をしていた。
対して肩を叩いた人物は濁りもくすみもない鮮やかな赤一色の髪が眩しい。
「な〜ぎちゃん」
「……スワロ!イタリアからいつ戻ってきたんだ。連絡をくれれば空港まで出迎えのひとつもするのに」
「いいよいいよそういうの、なんか照れちゃうし!それより、こうやって驚かせる方が好きなんだよね〜」
「それならもっと跳び上がるくらいのリアクションを見せるべきだったか。悪いな?」
「ぶっ!そんなキャラじゃないでしょ君は!でも面白そうだから今度やってよ」
「ふっ、覚えていたらな」
赤みがかった大きなサングラスをひょいと持ちあげてスワロ=スカーレットが笑う。ボタンがいくつか開けられた紫のワイシャツに黄色のネクタイを合わせ、白地に細い黒ストライプのジャケットという眩しいファッション。極めつけはじゃらりと音をたてるシルバーと、パステルイエローのショールだ。
派手な服装を好むので、彼は周りからの好奇な視線をよく集めた。けれど本人はさっぱり気にするようすもなく、自らのファッションを思う存分楽しんでいるようだった。
彼のそんなところを凪は少しうらやましいものだと思っているが、胸元とお腹をしっかり見せている彼女も十分目立っている。そしてそれを、さっぱり気にするようすがない。彼女がうらやましがる必要は全く無いように思える。
つ、とわざとらしくスワロの視線が下がったのを見た凪は咳払いをしつつコートの前をしめるふりをして笑った。
「視線があからさますぎる。それでは、誰もナンパにのってくれないぞ」
「げ、分かっちゃう?チラ見のつもりなんだけどなあ」
「がっつり見ておいて何を言うか」
凪にとってスワロはナンパ仲間である。と言うと聞こえが大変悪いので悪友である。扱う武器は違えど同じ魔導騎士であり、戦闘を共にすることもよくあった。こうして街中で会い、おしゃべりをしながら歩くことも、お茶をすることもある。しかし待ち合わせたり呼び出したりはほとんどない。お互いの行動範囲をなんとなく把握しているからという理由もあるが、写真を共有するSNSに上がっている飲み物の写真で今いる店が大体分かるという理由はナンパ仲間である彼らならではといったところだろう。
「それはさておいといて、良い仕事が入ってきたからさ、一緒にどう?」
「ほう?君と仕事をするのも久しぶりだしな、乗った」
「さっすが凪!そうこなくっちゃ」
詳しい話をするために2人は喫茶店に入ることにした。某コーヒー店で新しいフレーバーが出たと聞きつけた彼が試しに一度飲んでみたいという要望を呑み、そこへ移動する。そのフレーバーとは「醤油納豆キャラメルマキアート」などという正気の沙汰かどうか怪しい代物なのだが……まあ、怖いもの見たさ、いや飲みたさなのだろう。キャラメルマキアートへタピオカを沈めるように納豆を沈め、表面をキャラメルソースと醤油が彩る見た目は、一応美味しそうではあるのでもしかするともしかするかもしれない。しかし凪にはそれに挑戦する勇気などなかった。店員に嬉々として注文した勇気あるスワロに心の中で合掌を送るのみだ。
「それで、一体どういう内容なんだ」
醤油納豆キャラメルマキアートの一口目を飲んだ彼の顔を見なかったことにして凪が問うた。
「ああうん……。まず、くはないんじゃないかな。飲む?」
「断る。それの話じゃなくて仕事の話だ」
ああそっちかと話し始めたスワロに耳を傾ける。仕事の内容は対象が魔導騎士の、対人戦闘のある仕事のようだった。例の事件で最近増えてきた野良の召喚獣、野良犬の捕獲だとか討伐だとか人外の相手ばかりしているので凪にはそれがとても意外に感じられた。それを悪くない反応ととったスワロは詳しく話を進めていく。相手は討伐すべき野良犬を捕獲し、魔法王室に所属していない魔法使いなどに売りつけているという。少し前使い魔に人間を食べさせていた外道がとっ捕まっており、無所属にはろくなのがいない。そんな者に売りつけられた野良犬たちがどうなったのかは想像もつかないが、少なくともまともな扱いを受けているとは思えない。
前からこういう魔導騎士はちらほら存在しており今回の対象もその中の一部なのだろう。こういう連中は捕まえても捕まえても後を絶たないものだ。
2人は報酬など細かな話を詰め、店を出たところで別れた。再び街を歩き始めた凪は、これから何かが起こる気がして足を止め、空を見る。ざわざわとしたものを胸に抱えるが、それが不思議と悪いものではないと思える。それならば、身を任せてみるのも悪くない。そう考えた凪は止めた足を再び動かす。その足取りは先ほどよりもずいぶん軽やかだった。