触手接近注意報3
倒れこんでふと公園の方を見ると、よく見た顔があった。ヨウコだ。
「さ、サヤノ……?」
「ヨウコ、よかった、無事だったんだね……」
何とか最後の気力を振り絞り、サヤノは起き上がる。
ふとヨウコの方をみると、後ろの方に二人、人影が見えた。よく見ると、それは警察だった。誰かが呼んでくれたのだろう。
これで、本当に終わった。
隣には、ぐちゃぐちゃになった、おそらく死体となった人間がいるが、この際だ。正当防衛と主張しよう。現に、こいつが出した触手のせいでひどい目に遭ったのだ。証拠の触手もあることだし、きっとこれで通用する。
サヤノが立ち上がると、警察はサヤノよりも先に倒れている人間を見て言った。
「えっと、これは君がやったのかね?」
ややぽっちゃりとした警官が、サヤノを見つめる。
「あ、はい。でも、これは正当防衛で……」
「なんてことをしてくれたんだ!」
「え?」
思いがけない警察の言葉に、サヤノはぽかんと口を開けた。
「なんてことって」
サヤノも反論を試みる。
「これがどういうものか、知っていてやったのか?」
ぽっちゃりとした警官が、完全に怒りモードでサヤノに迫ってきた。
「そ、そんなこと知りません! ただ、そこの触手に襲われたから、反撃しただけです!」
サヤノは語気を荒げて警官に言い放つ。
「サヤノ、えっと、この触手、別に襲おうと思ってサヤノに近づいたわけじゃないみたい」
興奮しているサヤノに、ヨウコが近づいて言った。
「あんなに追いかけ回されて、襲われると思うに決まってるない!」
味方だと思っていたヨウコまで何を言うのだ、とサヤノはさらに興奮する。
「……あの、刑事さん、やっぱりこれ、知ってなきゃこうなるんじゃないですか? 私はたまたま、何も手を出さなかったですけど」
ヨウコは、もう一人の細い警察に言った。
「まあ、確かにテスト段階なのだが、それにしてもここまでやる人なんていないと思っていたからね」
ヨウコと警察のやり取りにサヤノは顔をしかめる。
「な、何なんですか一体、この触手男が何だっていうんですか!」
「とりあえず、説明するから、落ち着こうか」
そういうと、ぽっちゃりとした警官は、公園の自動販売機までジュースを買いに行った。
気が付けば、時刻は十一時を超えていた。
パトカー五台に救急車二台が駆けつけ、ぼこぼこにされた触手人間を収容する。同時に、長く伸びた触手も、何人かの警官の手によって回収されていった。
サヤノは、その妙な光景を公園のベンチで見ていた。
「ほれ、これでも飲んで」
ぽっちゃりとした警官が、サヤノに缶コーヒーを手渡す。
どうも、と言ってサヤノがそれを受け取ると、プルタブを開けて一口飲んだ。
「で、あの触手男って、一体何なのですか?」
先ほどよりは興奮が収まった様子だが、まだサヤノの怒りは収まっていないようだ。
「あれはだね、深夜にうろうろしている不審者を捕獲するために、我々が開発した触手クローンなのだよ」
「は? 触手クローン?」
警官の説明に、サヤノは面食らって言葉が出なかった。危うく、缶コーヒーを落としそうになる。
「大丈夫かね?」
警官が、慌ててサヤノの缶コーヒーを抑える。
「最近、深夜に起こる犯罪が多いんだよ。ひったくりや誘拐、強盗や強姦なんかがね。それで、深夜にうろついている人間を、この触手クローンを使って捕獲しようというわけだ」
そういうと、警官は自分の手に持っていた缶コーヒーを開け、一口飲んだ。
「この触手が捕まえた人間を、一旦事情聴取する。もし、仕事や塾の帰りで歩いていただけであれば、そのまま住所を聞いて帰す。そうでなければ、すぐに警察で取り調べをする。そうやって、深夜の犯罪をなくそうというわけだ」
「でも、捕獲する人間って、犯罪者かただ帰ってる人か、わかりませんよね?」
サヤノが反論を試みる。
「それについては、あまり詳しくは言えないのだが」
警官は、一度言葉を切ってコーヒーに口をつけた。
「ただ帰るだけだったり、散歩するだけだったりする人間と、犯罪をしようとしてうろつく人間の足音は、実は違うんだ。その違いを、触手で聞き分けているわけだ」
なるほど、それで音に敏感だったわけか。
「ただ捕獲するだけなら、べとべとした粘液なんて、いらなかったのに」
「それは捕獲しやすくするためさ。我々が開発した特殊な粘液でね。ほら、もう乾いているだろ?」
「え? あ、本当だ」
気が付けば、先ほどまでべとべとした服が、既に乾いている。
「でも、金属を錆びさせるって、危ない薬品使っているんじゃないですか?」
「金属? ああ、多分、薬品中に金属を腐食させる成分が含まれていたのだろう。金属は避けて通るようにしていたからね。まあ、人体には影響ないから、安心しなさい」
安心しなさい、と言われてもあまり納得はしていない。サヤノは、コーヒーを飲みながらもふくれっ面をしていた。
「そういうわけで、今回は触手クローンを使った実験を、この区域で行ったわけだよ。ほら、こういうチラシが入ってなかったかい?」
そういうと、警官は一枚のチラシを広げた。
「これは……あっ」
サヤノは、それを見ながら今朝のことを思い出した。いつも玄関のポストはチェックするが、その多くは不要な案内やダイレクトメールだし、どうせ家にいないからと無視して放置する癖があった。
「新規防犯システム夜間使用のお知らせ」と書かれたチラシ。今日の朝、確かにポストから取り出して、玄関に置いたものだった。そこには、「防犯システム作動中、ぬめぬめした触手が通りますので、ご注意ください」と書かれていた。
そうか、住宅街の住人は、これで知っていたのか。どうりで、騒いでも誰も出てこないはずだ。サヤノは、チラシを持ったままはぁ、とため息をついた。
「さて、君への処分だが」
ぽっちゃりした警官は一気に缶コーヒーを飲み干すと、近くのくずかごに入れて立ち上がった。
「あの触手クローンは、現在日本に三体しかない貴重なものなのだ。それを、そのうち二体も破壊してくれたのだから、かなり長い期間刑務所に入ってもらうことになるかな」
「へ?」
サヤノの顔がぽかんとなる。
「だって、私、知らずにあんなことを……」
「確かに、こちらがまったく情報を与えていなかったのなら、こちらに非があるのだろうが、今回はチラシでの注意、放送での注意、さらに会社にも報告をしているのだよ?」
「え、そんな、会社?」
「昼休みに、そういうお知らせは来なかったのかね? オフィス街に勤務しているなら、連絡があったはずだが?」
「その時間なら、寝ていましたよ!」
「どちらにせよ、これだけの注意をしたにも関わらず、大変なものを壊してしまったのだから、言い逃れはできないね」
そういうと、警察は手錠を手にした。
「と、言うわけで、あなたを器物損壊の現行犯で逮捕します」
そういうと、警察はサヤノの手を取り、手錠をかけた。
「え、そんな、ヨウコ、ヨウコも何か言ってよ!」
両手に手錠をかけられ、サヤノは二人の警察に連行される。
「サヤノ、ごめん。私には何もできない」
「そんな、あれは正当防衛なの! ヨウコ、助けてよ!」
サヤノの叫びが、深夜の公園に広がるが、その声は誰一人として心には響かない。
静かな風が吹くと、サヤノが落とした汗の一粒を吹き飛ばしていった。
翌日、実験中止のチラシが、ヨウコたちの住む区域で投函された。触手クローンが破壊されたためである。
「サヤノ、大丈夫かな」
そのチラシを見ながら、ヨウコは帰りの道を歩いていた。
幾重にも十字路が繰り返される住宅街、その迷路のような道路を、ヨウコは暗い夜道を一人歩く。
春の初めにしては生ぬるい風が吹き抜け、ヨウコは少しだけ身震いをした。
コツコツという足音が響く。しかし、ヨウコは途中、その足音が二つになったことに気が付いた。
街灯が少ない住宅街は、ほぼ月明かりしか頼りがない、闇の世界だ。
振り返ってはいけない。そう思いながらも、ヨウコはその足音の正体を探るために、後ろへ振り向いてしまった。
そこには、見ず知らずの黒ずくめの男、そして、片手にはきらりと光る刃物が握られていた。 男がそれを振り上げた瞬間、ヨウコは目をつぶって思った。
こんな時に、あの触手が助けに来てくれればいいのに。
<触手接近注意報 おわり>