触手接近注意報2
夜の住宅街を、元の道を正確に戻るというのはなかなか大変なことだ。しかし、今回は触手が倒れている方向へ向かえばよいだけなので、迷うことはなかった。
触手使いがいた場所からすぐの丁字路を左へ、そして直線数十メートル。
触手が左方向へ向かっている十字路の目の前に、粘液の水溜りがあった。
だが、予想外の出来事が、サヤノを恐怖へと突き落とす。
「触手が……ない?」
粘液の水溜りを残して、確かに倒したはずの触手の残骸が消えていたのだ。
もしかしたら触手の持ち主が、触手がやられたことに反応して回収したのかもしれない。
幸いなことに、触手が出した粘液の跡は残っている。サヤノは、その粘液の跡を追った。
大きな粘液の水溜りを避けるのには苦労したが、大半は道路の中心に垂れていたため、サヤノは道路の端の方を走った。
「……それにしても、あれだけの声を挙げたのに、誰も出てこないの?」
誰も出てこないことを不思議に思いながら、とにかくサヤノは走り続けた。
住宅街を抜け、夜の公園を、粘液の跡を追っていく。相変わらず公園には誰もいない。助けを呼んでもすぐには誰も来ないだろうが、今は粘液まみれの自分を見られずに済むので好都合だ。
「変な触手振り回して……絶対追いつめてやるんだから!」
サヤノは心の中でつぶやいた。
先ほどの触手の射程は、おそらく数百メートル程度だろう。そう考えるとそんなに遠くないはずなのだが、今回は結構走っている気がする。
公園を抜け、再び住宅街に入った時、先ほどと似たような人影が現れた。
見つけた。きっとあいつが犯人だ。サヤノはぐっと鉄の棒を握りしめる。
「そこの奴っ! これまでだぁっ!」
またもやがらにもない声を挙げると、サヤノは鉄の棒を思いっきり振り上げ、人影の顔面に向かって力いっぱい振り下ろした。
ゴツッ、という鈍い音が響く。手ごたえは十分だ。
念のため、サヤノはすっと人影との距離をとる。倒れるまでは、油断できない。
「はぁ、はぁ、や、やった……?」
しゅるしゅると物理法則を無視した触手を出す音は、一向に止む気配がない。
「え、そんな……」
サヤノは恐ろしくなり、後ずさりを始めた。その瞬間、ガチャッという妙な音が響いた。
よく見ると、人影から伸ばしていた触手が無い。
「ま、まさか!?」
先ほどの触手の伸縮音は、恐らく触手を収納する音なのだろう。
そんなことを考えながら人影の方を見ると、触手を出す手の方向がこちらに向いていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
言うが早いか、先ほど見た触手が、サヤノに襲いかかって来た。
「いやぁぁぁぁ!」
再び開始される、触手との理不尽な鬼ごっこ。とにかくどこかに隠れようと、再び公園を抜け、その先の住宅街に紛れ込む。
触手の射程範囲に限界があるなら、いくつもの十字路が組み合わされた住宅街を、適当に曲がっていけば逃げられる。そう思い、ジグザグに走って逃げる。
しかし、誘導ミサイルのごとく、触手はサヤノを追いかけてくる。
どうしたら逃げられるだろうか。夜の道、十字路の多い住宅街、いままでのことでわかった、触手の動き。今までのことを思い返す。
「そうだ!」
そうつぶやくと、サヤノはまず十字路で左へと曲がった。そして、足元にあった石を手に取り、すかさず反対方向に向けて投げた。
触手は音に反応している。これで反対方向に行ってくれれば、助かるかもしれない。
十字路から少し離れ、サヤノは様子を見る。 すると、触手は思った通り、サヤノとは反対方向へと向かっていった。
「ふぅ、なんとか逃げ切れた……かな」
サヤノは右手で額の汗をぬぐうと、触手が戻ってこないうちに帰ろうとした。
しかし、反対方向に振り向こうとした瞬間、遠くに触手の先端の姿が見えた。
「え、ウソ、何で?」
音に反応するというのは、勘違いだったのだろうか。再びサヤノは触手から逃げ始めた。とにかく逃げる以外にできることは思いつかない。
ふと、サヤノは触手がどのくらいまで伸びるのか疑問を感じた。伸ばせる距離が無限ということはあるまい。このまま逃げ続ければ、そのうち触手も尽きるはず。
いや、もしかしたらその前にこちらの体力が尽きるかもしれない。
「ん、待って、住宅街って……」
ふと何かを思いついたサヤノは、十字路を右に曲がって逃げた。見えた十字路を右へ、さらに見えた十字路を右へ。そして、その道を直進する。
「見えた!」
月明かりだけが頼りの住宅街を走るその先には、右方向へ曲がる触手の姿が見えた。
サヤノは、さらに触手が進んでいる右側の道へと走っていく。ここは、先ほどサヤノが石を投げた場所だ。
さらに触手が向かう右方向へ。粘液が垂れていて走りにくいが、何とか粘液が落ちていない場所を、触手を避けて走る。
右折を繰り返すと、触手が二重になっている姿が見えた。そこをさらに右へ。二重の触手はさすがに避けづらいが、なんとか飛び越えて走る。
ぐるぐると住宅の周りをまわり続ければ、いつか触手が絡まり、動けなくなるはず。
三重、四重と増えていく触手は、まだ一向にスピードを落とす気配がない。
「この触手、限度っていうのがないの? それとも、なんか途中で切れたりするの?」
文句を発しながら、壁をぬめぬめと動く触手を避け、サヤノは走り続ける。内側だけを這ってくれているおかげで、外側は粘液が垂れずに済む。
もう少し、もう少しで絡まって動けなくなるはず。そう思って、六周目に入った時だった。
「きゃっ!」
今まで避けていた場所まで粘液が広がり、それに足を取られてサヤノは転んでしまった。
同時に、手に持っていた鉄の棒を手放してしまう。
なんとか鉄の棒まで手を伸ばし、立ち上がろうとして後ろを振り向いた瞬間、目の前に触手の先端が見えた。
「え、ウソ、せっかくここまで頑張ったのに!」
迫ってくる触手の先端から逃げようと何度ももがくが、粘液で滑ってうまく動けない。
もうこれまでだ。このぬめぬめした触手にからめられたら、きっとめちゃくちゃにされてしまう。自分の人生は終わった。サヤノは観念したように、ゆっくりと目を閉じた。
数秒、数十秒と過ぎていくが、何も起こらない。
そして一分が経っただろうか。サヤノはゆっくりと目を開けた。
目の前には触手の先端がある。それは変わらない。だが、触手は近寄ってくる気配がない。動こうとしても動けない。そんな感じである。
「え、もしかして……」
サヤノはゆっくりと移動し、粘液のない場所までたどり着くと、滑らないように立ち上がった。やはり、触手は襲ってこない。鉄の棒を手に取ったところで、サヤノは確信した。
作戦は、成功したのだ。
「や、やった……の?」
まともに見ることができなかった触手の先端をよく見ると、やはり苦しそうに細くなったり太くなったりしている。
壁に這っている五重の触手も、まったく動けないといった様子だ。
ざまあみろ、と思いながら、サヤノは触手とは反対方向へと走っていった。
やっと帰れると思ったが、その前にやることがある。
触手の持ち主の退治。これだけは忘れてはならない。怒り心頭に、走る足に力が入る。
「こんなにべとべとにしやがって。この服、高かったんだぞ!」
サヤノは怒りを爆発させながら、住宅街を抜けていく。
公園には、やはり誰もいない。先ほど動きを封じた触手の続きだけが、公園の道を邪魔していた。
怒りに任せて無抵抗の触手を殴りたかったが、粘液で鉄の棒が錆びてしまうと困る。すでに、持っている部分は錆びかけていた。
そして、触手が向かう先を追うと、まだ人影が残っていた。
あれだけきつく巻かれているのならば、回収することも不可能だろう。人影はかなり焦っているようで、何度も左手をうねうねと動かしていた。そのたびに触手が動いて驚くが、なんということはない。もはや、触手など敵ではないのだ。
人影に向かって、全力で駆け出し、サヤノは鉄の棒を振り上げた。
「こぉんのくっそやろうがぁぁぁ!」
今までなかった最高の汚い言葉を浴びせながら、サヤノは人影の頭めがけて鉄の棒を思いっきり振り下ろした。
何度か聞いたゴツッ、という鈍い音も、心地よく聞こえる。だがそんなことは構わず、何度も何度も殴りつける。
「許さない! べとべとにしたこと、あの世で後悔しなさい!」
サヤノを止める者は誰もいない。気の済むまで殴り続ける。警察が来るなら、それもよい。むしろ、警察が来て、早く止めてくらいだ。
理性などとっくに崩壊している。今サヤノにあるのは、破壊衝動のみ。顔面、脇腹、足、そして触手を出す手。そのすべてを、所かまわず殴る。
殴り続けて数分、いや十分以上が過ぎただろうか。さすがに殴り疲れて、サヤノは手にしていた鉄の棒を落とした。
目の前には顔面がぐちゃぐちゃで、原型が無くなったのではないかと思うほどの人間の体があった。誰もが吐き気を催す光景が広がり、動く気配はない。
終わった。すべて終わったのだ。
「これで、これでやっと帰れるんだ……」
長かった、触手との戦闘。サヤノは、後ろに一歩後ずさったあと、その場に崩れるように倒れた。