触手接近注意報1
月曜日の朝というものは実に憂鬱なものだ。
これから一週間、がっつりと働かなければならないと考えるだけで、頭が痛くなる。
「むにゅ……朝か……」
サヤノが目を覚まし時計を見ると、午前七時半をさしていた。
春先の朝はまだまだ肌寒い。のそのそと恋しい布団から起き上がり、仕事へ出かける準備をする。
まったく、化粧だの身だしなみだの服装だの、女は大変だ。何でこんな面倒なことをしなければならないのだろう。そう思いながら化粧をしていたサヤノは、ふと今日の予定を思い出した。
「あ、しまった、今日八時半から会議だった!」
時計を見ると、既に八時をまわっていた。
「ヤバい、遅刻する!」
あわててかばんを持ち、玄関に飛び出す。
靴を履いて玄関から出ようとした瞬間、ドアのポストに何か入っているのが見えた。白い一枚の紙切れに、「新規防犯システム夜間始動のお知らせ」と書かれている。
「防犯システム? どうせ工事か何かでしょ」
サヤノは「そんなものを相手にする暇はない」と、玄関から出て鍵を閉め、アパートの廊下を走った。
仕事は夜八時に終わった。しかしその後、サヤノは同僚と食事に行くことになり、家路につく頃には午後十時になっていた。
「ずいぶんと遅くなっちゃったな」
街灯で明るく照らされたオフィス街から五分ほど歩くと、すぐに薄暗い住宅街に入る。 そこから少し進むと、静かな住宅街を抜けて、一度少し大きな公園に入る。平日の夜の公園は、ほとんど人がいない。いくつかの街灯の明かりと、自動販売機の明かりだけが、公園を明るく照らしていた。
この時間に女性一人で歩くのはどうなのだろうと思ったが、仕方がない。住宅街は近いし、いざとなったら、大声を出して助けを求めよう。そう思いながら、公園を抜けようとした。
その時、ピチャリ、と水溜りを踏むような音がした。何だろう、と思って下を向くと、小さな水たまりがあった。
今日は雨など降っていないのだが、一体何の水だろう。アスファルトの道路に目をやると、来た方向とは逆の住宅街へ向かうように濡れている。誰かが通った時に何かで濡らしたのだろうか。
「まあ、いいか。私には関係ないし」
そう思って、サヤノがそのまま帰り道へ向かおうとした瞬間だった。
不気味な気配がして、ふと後ろを振り向く。すると、うねうねした丸太ほどの太さの、長いロープのようなものがこちらに向かってきていた。
危険を察知したサヤノは、とにかく必死に逃げ出した。
水のようなものを滴り落としながら、うねうねしたものはサヤノに迫ってくる。巨大ミミズのようなロープ状の物体を見て、サヤノはイソギンチャクのあのうねうねを思い出した。
「何これ、しょ、触手?」
ポツリポツリとある街灯を頼りに、サヤノは走り続ける。うねうねした物体の周囲には、べとべとした粘液がまとわりついている。先ほどの水は、こいつから出てきたものだろう。
この触手は、一体何なのだろう。どこから生えてきたのだろう。あまりにも突然の出来事に、サヤノは逃げ出すしかなかった。
サヤノは、夜の道を必死に走った。そして、公園を抜け、住宅街に入る。どこで迎え撃つか考えていると、正面からもう一本、同じような触手が飛んできた。
しばらくして、住宅街の十字路に差し掛かった。逃げ道は二か所。そのまま逃げてもよいが、どうせ追いかけてくる。ならば、戦うしかない。
サヤノはかばんからカッターナイフを取り出し、先の刃を一本折った。まさか会議で使ったカッターがこんなところで役に立つとは思わなかった。
叩き斬れば動かなくなるかもしれない。そうしたら、動かなくなった方から逃げよう。いざというときの逃げ道は確保してある。サヤノはカッターを構えた。
住宅街に街灯はないが、満月が雲から現れ、優しくあたりを照らしている。その明かりに反応するように、触手の動きが一瞬鈍った。
その隙を逃さぬよう、サヤノは手に持ったカッターを、サヤノから近い背後の触手に向けて思いっきり振り下ろした。
刃に触れた触手は、触手の動くスピードも手伝ってあっさりと切り裂かれていく。
切り裂いた先から奇妙な音を発する触手の相手をする間もなく、後ろを振り返る。
少し距離はあるが、後方からやってきた触手が徐々に接近してきていた。
大丈夫だ、このカッターなら触手を切り裂ける。サヤノは向かってくる触手の加速度を利用し、カッターの刃を触手に突き立てた。
突き立てた刃は、先ほどの触手とほぼ同じ場所、同じ角度で後方からの触手を捕らえた。 加えて、先ほどよりも早いスピードが、カッターの刃にのしかかる。
これなら余裕で切り裂ける。そう思ったが、当てられたカッターの刃は、触手の勢いに負け、そのまま宙へと吹っ飛んで行った。
何故? さっきはいとも簡単に切れたのに。
倒れこむサヤノの前に、仕留め損ねた触手の先がうねうねとうねっている。
それを前にして後ずさりをしていると、道路にチャリン、と音がした。目の前の触手に恐怖しながらも、その音のした方向を見ると、先ほどのカッターの刃が落ちていた。
「え、錆びているじゃない! まさか、さっき触手を切り裂いたときに?」
このうねうねとうねる触手から溢れ出す、怪しい粘液には、金属を腐食させる効果でもあるようだ。
立ち上がって逃げる……それが最善の策だろう。しかし、後ずさりしながら後方へ逃げようとしたサヤノは、足をとられて転んでしまった。
気が付けば、先ほど倒した触手の粘液が、道路一面に広がっていた。立ち上がろうとしても、この粘液で滑って立ち上がれない。
どうしようもない状況で、再びサヤノは粘液にまみれながら、何とか触手から逃れようとする。
こうなったら声を挙げるかない。しかし、どういうわけか、この触手、すぐには襲ってこない。もしかしたら、声がスイッチとなって、急に襲い掛かってくるかもしれない。
絶体絶命、そう思った時だった。
「あれ、サヤノ、どうしたの? こんなところでべたべたに濡れて」
十字路の向こうから、女性の声がした。
声がした方向に目を向けると、そこには紺色のスーツを着た、ロングヘアーのOLが立っていた。
月明かりだけではよくは見えないが、声で誰かは明らかだった。
「ヨウコ、逃げて! そいつ、危険!」
サヤノは自分の状況も忘れ、立っている女性、友人のヨウコに向かって大声で叫んだ。
「え、ちょ、何それ?」
触手の存在に気が付いたのか、ヨウコは後ずさりを始める。
すると、触手の先はサヤノではなく、ヨウコの方に狙いを定めた。
「ひぃ、来ないで!」
思いっきり来た方向と反対に逃げるヨウコを、触手が同等のスピードで追いかけていく。 サヤノはそれを見て、ふと思った。
「この触手、どこに続いているのかしら」
なんとか粘液が無いところまで移動し、ゆっくりと立ち上がると、道の向こうを見つめた。
「きっと、この先に持ち主がいるのね」
サヤノは、触手が向かうのとは逆方向に、粘液を避け、走り出した。
途中、鉄の棒が落ちていたので、それを武器として携帯する。たとえ粘液に触れて錆びようとも、一撃くらいは与えられるだろう。
触手の先はまだ見えない。数十メートル直線を走った途中の丁字路で、右方向に曲がる。その先に人影があり、その両手に触手がつながっていた。
まさか、化け物? こんな都会に、こんなものがいるなんて。
混乱しながらも、サヤノは持ってきた鉄の棒を構え、その人影に向かって走っていく。
「てめぇ、死ねえぇぇ!」
いつもの言葉遣いとは思えない声を思わず出しながら、サヤノは人影に向かって鉄の棒を振り下ろす。
ゴツッ、と鈍い音がしたかと思うと、人影はばたりと倒れ込んだ。
「や、やったの?」
息を切らしながら、倒れた人影に近づく。両手の触手も、微動だにしない。
うつ伏せになっているので顔はよくわからなかった。体格からして、どうやら男性のようだ。
若干雲がかかって、あたりが薄暗い。そのせいで、どんな服装なのかまでははっきりしなかった。しかし、カッターシャツにジャージといった、外出用とは言えない服装だ。おまけに、サンダルを履いている。
家から出てきて、この場所でこんなことを? ということは、近所の人なのだろうか。
サヤノは、次に両手から生えている触手を見つめる。
無尽蔵と言ってもいいほど触手は伸びてきたが、一体、どのようにして触手を伸ばしたのだろうか。
ここでサヤノは、恐ろしいことに気が付いた。
「……! もう一本の触手!」
この人物が放っていた触手は、左右の手で二本ある。しかし、こちらと反対方向から来た触手が、この人物のものと考えるのは非現実的だ。
両手から触手を放っていた、ということは、倒した触手の持ち主も、もう片方の触手を飛ばしていた可能性が高い。
「ヨウコが危ない!」
追いかけられていた触手はやっつけたものの、もう一方の触手にヨウコがやられている可能性は高い。
サヤノは、触手人間を殴った鉄の棒を手に、先ほど触手と戦った場所まで戻ることにした。 本体を殴ったので、鉄の棒は錆びてないようだ。これなら、武器に使える。そう思い、サヤノは夜の住宅街を走った。