経過する時間と風化する思い
気づけばもう十年の時が流れていた。
エルは未だにあの時のまま、壊れてしまったまま。
あの時、母に家に連れて行かれてから、私は用事を済ませてすぐに家を飛び出し、エルの家へと向かった。そこに近づくと笑い声が聞こえたので、少しほっとしたのを覚えている。そしてその後に訪れる絶望も、覚えている。
忘れられるわけがない。
笑い声が聞こえたと言っても、その様子がおかしいということにはすぐに気がついた。何もかもが遅かったのだ。私も、エルも。
母親の頭を抱えて笑い続けている彼を見た時、私はその場に崩れ落ちた。何がなんだか分からなかったけれど、一つだけ思ったことがある。
ああ、この世は理不尽なんだね。
彼のように、彼らのように心優しい人にも、容赦なく苦痛を与えてくる。そうか、無理なんだ。いくら頑張っても、夢を見ても、無理なことはあるんだ。そう思った。
それ以来、エルは剣を振るうのをやめてしまった。あの夕日を自ら見に行くこともなくなり、それどころか会話すらほとんどしなくなった。私の方から話しかけることはあるけれど、彼が何かを話してくるなんてことはない。
ご飯だって食べずにいた時期があった。今でもたまに心配になって家に様子を見に行くことがある。すっかり痩せ細った身体は、見ていて悲しくなるものだ。彼はいつも座っていた椅子に一晩中いて、そこから離れることはなかった。眠るときすらも。
母親の席にはその骨を、弟の席には使っていた棒きれを置いて。そして動かなかった。
弟。
エム。
プリクエム・アフターワード。
私は十年前からその姿を見ていない。
かつてラオブは魔物に攫われてから一年ほどで帰ってきた。別人となり果ててしまった姿を見た時には、恐怖感を抱いたけれど。
もしエムも同じようなことをされたのであれば、ラオブのようになって帰ってくるのではないか。そんなことを考えていた。しかしいつになってもそんなことはなかった。
あれから十年。村の姿は変わることなく存在している。世界の様相も、悪化することこそあれど好転する兆しはない。
エムが帰ってこないことを兄はどう思っているのか分からない、けれど私は安心してしまっていた。正直に言って、エムのそんな姿は見たくなかったのだ。そんな、魔物のような。
そして彼を見たことでエルが元に戻ったとしても、そこにいるのは全てを忘れてしまった化物なのだから、結局は救われない。もしかしたら取り返しのつかないほど壊れてしまうかもしれない。今現在、取り返しがつくかどうかは分からないけれど。
それならばいっそ、会わない方がいいと思う。もうこのままでいいんじゃないか、近頃はそう考えることも少なくない。エルは過去に世界を変えてやるんだと思っていたかもしれない。でもそれはもう叶わないことだ。
それにそんなことは、こんな辺鄙な場所に生まれた私たちがするようなことじゃあないんだ。もっと大きな家に生まれて、才能あふれる人がやるべきなんだ。
大きな家。今、そんなものがあるとは考えにくいが。
私たちは私たちなりに、細々と生きていくのが合っている。うん。
確かに今の生活は厳しい、でもエルがいてくれれば私はそれでいい。もう何も変わらなくていい、次はきっと素晴らしい世界に生まれるはずだ。それまではこの生活を、彼と一緒に送って行こう。
瞳が熱くなるけれど、涙は出てこない。
そんなもの、十年の間に涸れきった。
彼の壊れた姿を見た時、私はとめどなく涙が出てきた。彼はうつろな目をして母親の頭を撫でていた。小さくなった笑い声と共に。
時折その口から出てくるエムと言う単語を聞いて、さらに涙は勢いを増した。
それから私の母が様子を見に来るまでの時間、一人は笑い続け、一人は泣き続けていた。
最初の頃、私は何とかして彼を元の明るい姿に戻せないかと試行錯誤を繰り返していた。毎日のように家に通って、何度も何度も話しかけた。いくら言っても反応を返さない彼だったが、弟の名前を出した時だけは少しこっちを見てくれた。
休みの日に手を無理やり引っ張って夕日を見に行ったこともある。それを見て泣いたのはまた私だった。その何回か目に、夕日を見に行った日の話だが、私がいつものように泣き出してしまった時、彼は突然立ち上がった。それはあの事件があった日に、彼が門のところで立ち上がったように、ぬるりといった感じでだが。
一瞬、この夕日が何かしらの奇跡を起こしてくれたのかと思ったけれど、その立ち方を見て焦りに変わった。ふらふらと歩き出した彼の向かう先は、目の前にある崖。何をするつもりなのかはすぐに検討がついて、後ろから抱きつくようにしてそれを止めた。ちょっとだけ振りほどく仕草をしたけれど、あっという間にそれもやめてしまう。私をちらりと見て、その目の空虚さについ手を離すと、彼はそのまま村の方へと歩いて行ってしまった。
あれ以来、私は彼に夕日を見せることはなくなり、元に戻そうということもしなくなった。相変わらず家には通っているけれど、それでもエムの名を出すことは少ない。もう半分どころかほとんど諦めていたから。
酷い?
弱い?
分かってる。
自分がいかに弱くて小さい人間なのかは。もしかしたら、諦めなければ、あと一回でもあの夕日を見させていたら、そうすれば希望はあったのに。
そんな可能性もあるのかもしれない。でももういいんだ。もうそんなことを考えて、毎晩泣くような生活はしたくない。
私は、もう、いいや。
そして十年が過ぎ、すっかり成長した私たちが今ここにいる。今日は二人とも同じ作業場だった。男女が同じところにいるのは珍しいことなのだが、若いうちはそんなこともあるだろう。とはいえ、二人が同じになるのは本当に久しぶりだった。だからと言って何かがあるわけではない。会話も、挨拶すらない。
厳密に言えば、私からはするけれどそれに対する反応がないだけだ。
おはよう、今日も頑張ろうね。
くらいのことは言っている。しかしそれは空気に話しかけているかのように、手ごたえがなかった。でもそれで気を落とすような私でもなかった。それはおかしなことなのかな、そんな感覚も曖昧になっている。
本日の仕事は近くにある森に行って、伐採をし木材を取りに行くこと。なかなかの重労働で、若い身と言えどやっぱり女にはきつい仕事だ。それでも文句を言うことはできない。
その森に行く間も、監視のための魔平兵がついてきていた。今更逃げ出そうなんて思っている人もいないだろうに。
集団で歩いていくけれど、それでも話し声はなかった。別に会話が禁じられているというわけではないのだけれど、それでも口を開く者はいない。
私もみんなと同じように下を向いて歩いている。十年前は長かった髪の毛も短くしてしまった、もうあの頃のような輝きはない。エルは隣にいるが、彼の方を見ようとは思わない。もうこんな世界にいる意味なんてあるのかな。早く生まれ変わりたい。
こんなことならあの時エルを止めなければよかった。そして一緒に海へ飛び込んでしまえばよかったんだ。私もバカなことをした。今度の休みにエルを連れてあそこへ行こう。
あの夕日に向かって行ったら、さぞ気持ちが良いだろうな。うふふ。
なんてことはない。私もこの十年で壊れちゃったんだ。ただそれだけ。もうこの世界は行きつくところまで行ってしまって、これ以上どうにもならないんだ。ここはとっくに完成された世界。
だったら私はイラナイよね。
私たちよりも一回り程歳をとっている男の人たちが木材を運び出している。それを見て、今日も終わったんだなと感じた。でもそれで気分が晴れるとかそういうことはない。仕事終わりの爽快感も、家に帰ることのできる安心感も、何もなかった。
少し離れた場所にいるエルの元へ歩いていく、そうでもしないと彼は一人で勝手に行ってしまうから。
「お疲れさま」
返事はない。なあに、いつものこと。
「帰ろ」
エルの手を取って帰宅を促す。特に抵抗することもなく歩き始めてくれた。ここへ来た時と同じように、村の人と固まって帰路につく。繋いだ手を離すタイミングが分からなくて、そのまま二人で歩いていく。不意にこのままあの場所へ走り出したい衝動に駆られた。
それをグッとこらえてひたすら進む。やがて村の門が見えてきたのだが、あそこを通るのはいつになっても嫌だ。あの時の感覚がフラッシュバックして気持ち悪くなる。
まぁ、忘れたことなどないから、そういう意味ではいつ何時でも気持ち悪いことになるのだけれど。
しかし今回に限って言えば、その門を通ることはなかった。そして私が人としての人生を送るうえで、この忌まわしき門をくぐるのは今朝村を出る時が最後になったのだった。
村の人が次々と入っていくのを横目で見ながら、私とエルだけがその場に立ち尽くす。私は彼の手をぎゅっと握り締めていて、動けないでいた。
何故ならば。
私の目の前にはあの男が立っていたから。
十年前、エムが連れ去られた時もこんな感じだったのかな。