白い紙の中身
伊藤茜、26歳。
東京でデザイナーをやってます。小さい会社の、だけどね。
忙しくバタバタとお仕事に追われて過ごすうちに、気付けば念願だったデザイナーになって今年で4年目になります。
今の夢は、自分のデザインした服で雑誌のページを賑わすこと。
そのためにはもっともっと有名なブランドに勤めなきゃと、日々転職先を探す毎日の最近です。
そんな私に今日、大事件が起きました。
大事件。
発端は、朝出社した時に先輩にかけられたことばでした。
「伊藤さん、あんな格好良いカレが居て羨ましいわ」
一番に乗り込んだエレベーターで、すぐあとに乗り込んで来たひとりの先輩。
ちょっと苦手なその先輩からのトゲトゲしい言い方に困惑するのはいつものことなんですが、あいにく何のことだか分からず素直に首をかしげてしまいました。
「カレ、ですか?何の話ですか?」
先輩はなんだか、どこか面白そうに唇の端を持ち上げて私を見ました。なんでそんなににんまり笑われるのか彼女の意図がまるで分からない私は、呆然と彼女を見るしかありませんでした。
だって私には、カレ、なんて居ない。
誰かと付き合った経験は年齢相応にあるつもり。けどいつも長続きしない。特に同業者はダメ。服飾系に勤める男のひとってみんなオシャレで、なんだか疲れちゃう。
原因は分かってる。
きっと、彼が忘れられないから。
「ふぅーん。あんなに格好良いひとを覚えてないなんて、やっぱりモテる子は手を出す人数が違うのね」
「………」
なんでいつもそんな発想になるのか理解できない。そもそも私モテないし。彼女は私にはいつもこの調子なんだけど、社内では一目置かれてるひとなのでかち合うのは何かと分が悪いの。だから曖昧に苦笑いしてやり過ごすのが私の常套手段です。
それにしても格好良いひと、だって。
最近そんな格好良いひとと一緒に居たかな。この前数合わせで連れてかれた合コン?うーん。昨日は専門学校の女子会だったから男のひとは居なかったし。うーん…。
当の彼女はそれから私のことは一度も見ずにさっさと行ってしまいました。そんな言い方するならもっと詳しく話してくれればいいのに。彼女はいつもそう。
別に良いんだけど。
そんな知り合い居ないんだけどなぁ…と、朝から全くスッキリしないもやもやした気持ちのまま、彼女のあとを追うようにエレベーターを降りた私でした。
けど今日はそれだけでは終わらなくて。
次に声をかけてきたのは、会社の数少ない男性の先輩高井さん。
白いA4無地の紙にくるまれた「なにか」をもらいました。「佐々木さんから渡してって頼まれた」そうです。
佐々木さんは40代の大先輩。女性ばかりで色んなことが起こるまるで大奥みたいな職場で、一番信頼できる礼儀正しい素敵な方。
新人への目が厳しい社内で、入社当時からお世話になってる数少ない優しい先輩。
なんでも「急ぎ」らしく、高井さんは今日お休みの佐々木さんから昨日の夜のうちにその「なにか」を今日私に渡すよう頼まれたんだって。
それを高井さんったら、おもむろにデスクに居た私に近寄ってきてコソコソっと渡して去っていくんだもん。
社内でも人気の高井さんのその挙動不審な行動、他のお局様たちの視線がイタくてイタくて…………明日でもいいから佐々木さんから直接渡してもらいたかったな。また会社の肩身が狭くなっちゃう………。
なぁんて、そんなことさして大したことじゃなかったです。
ふたつ折りされた白い紙の間には、全く見覚えのない業者の封筒が挟まってました。
中から出てきたのは一枚のA4用紙と、その後ろに重ねられた一枚の名刺。
〇〇株式会社 大阪北支店 営業課
萩野 哲平
―――萩野、哲平。
名刺を見た時は何かの間違いかと思った。
というかどうして佐々木さんが哲平の名刺を?
名刺には大阪の住所が書いてあるけど、哲平がここ(東京)まで来たの?
いつ?
昨日?
―――どうして今更?
頭がとにかく混乱していました。突然見た懐かしい名前に、もうずっと会っていないひとの名前に、目が、釘付けになりました。
それ以上はあまりの動揺にとても席には座っていられなくて、名刺も手紙らしきA4用紙も封筒もまとめて持ったまま、とにかく急いでトイレに駆け込みました。
哲平は、空気みたいな存在でした。
とっても大切で、ずっとそばに居たくて、そばに居たかったからずっと友だちだったひと。
背が高くて、高校時代バスケ部のキャプテンでエースだった哲平はすごくモテて。
付き合ってる女の子と居るのを見るのが本当に辛かった。
けど付き合ってる女の子が変わるのを見る度に、少し優越感に浸ってる自分も居た。
ただの友だちだった私は、いつでも哲平のそばに居られたから。
ずっと、そばに居られたから。
当時バスケ部のマネージャーだった私は、忙しかったバスケ部の運営で哲平と過ごす時間が誰より長かった。きっと、当時彼が付き合ってたどの彼女よりも。
そばに居るだけで良かった私は周りからはひどくドライな人間だと思われていたようで、当時の彼の彼女からやっかまれることも特になかった。けど私の気持ちは、私が一番よく知ってた。
哲平が、きっと大好きだった。
人望があって、みんなを惹きつけるカリスマがあって。
スピーチがとにかく上手で、先頭に立ってしっかり構える頼もしさが本当に安心できた。
けど細かい計画はニガテで、なにかに失敗するとすっごく落ち込むの。
そんな姿は私にしか見せなかった哲平が、きっと誰よりも愛しかった。
私は色々考えるのがもともと好きで、けど私は人前に出るのは嫌いだった。
お互いのニガテなものはお互いが得意で、部活動を通じてなにかを二人三脚で作り上げる感覚がとっても居心地が良くて。
だから壊したくなかった。
哲平に寄り添っては居なくなっていく女の子たちを見ていると、「友だち」ですらなくなることが本当に怖かった。
だからずっと「友だち」で居たのに。
けど私は、「友だち」で居ることを自分から辞めた。
哲平に、「見損なった」って言われたから。あの夕焼けがとっても綺麗だった帰り道に。
私の名前と同じ、茜色に染まった夕焼けの日に。
あの時私は、哲平の顔を見られなかった。
見損なったのは私。
哲平にそんなことを言われる筋合いなんてない。
私がどれだけ考えて決めた道かも知らないのに。
私のことなんて何も知らないのに。
それから私は、哲平のそばに居ることを辞めた。もともと部活動だけでつながってた関係であって、既に引退してしまってたその頃に彼のそばを離れるのは簡単だった。そうして私は卒業して、とにかく勉強した。
絶対にデザイナーになってやる、って思った。
けど進学して、高校とは全く違った新しい友だちが増えていくにつれて気付いたの。
哲平に私を知ってもらおうとしなかったのは、私。
ずっと友だちで居るって決めた私は、部活動をビジネスライクに過ごすことで自分の気持ちを抑えてた。必死に、哲平を男の子として見ないようにしてた。一定の距離を保つことで、「友だち」で居続けようとしてた。
あの時あんな風に言われたのはいまだに忘れられないけど、でももっと違う歩み寄り方はできたんじゃないかと思う。こんなに離れ離れにならないで済む、別のやり方。
実際その後の学生時代も社会人になってからの今も、時々無性にあの頃みたいに「哲平に」聴いてほしいと思うことがある。
他の誰でもない、自分に足りない視点でいつもなにかを言ってくれた哲平に。
そんな風にまた会いたい、と思っても、けど私にはどうすれば良いか判らなかった。
そんな哲平からの手紙。
私はトイレの洗面台向かいの壁にもたれて、恐る恐るA4用紙を広げました。
キレイな字。
そう思いました。
哲平は高校生の頃から、男らしいその見かけからは想像がつかないほどキレイな字を書いていました。自分の文字がひどくみすぼらしくなるほどに。
一目で、哲平の直筆だと判りました。
そのA4用紙に短く書かれた手紙には、私が彼から離れたキッカケへの謝罪が一番に書かれていました。あと彼が今自分の仕事に悩んでいること、そして、出来れば会って話がしたいって。最後に彼の連絡先。
哲平の、連絡先。
「………!」
短いその手紙を読み終わった私は、泣いていました。
涙が、止まりませんでした。
大好きな哲平だから、空気みたいな彼だったから、あの時認めてもらえなかったのは私の大きな大きなトラウマで。
受け入れられなかったことは何にも代え難い衝撃で。…あぁそっか。
私はただ、哲平に認めてほしかったんだ。
モカ色のジャケットのポケットからハンカチを取り出して、目頭を片方ずつ押さえて涙を吸い取りました。なんでずっと気付かなかったんだろう。
こんなことならポーチをひっつかんで来れば良かったと思ったところで、けどやっぱり涙は止まりませんでした。
どうやら私は自分でも気付かなかったほどに、相当傷付いていたみたいです。
また「友だち」に、戻れるでしょうか。
今日は昨日女子会に行くのに早く帰ったせいで、全く家に帰れる気がしませんでした。
午前中は昼からの生地の業者さんとの打ち合わせの準備に社内調整に追われて、昼からは昼からで業者さんに欲しい生地とその数量の交渉にびっくりするほど時間をとられて。そのあとも後から後からやらなきゃいけないことはなくならなくて、気付いたらいつもの時間(夜の10時)でした。
せっかく哲平に連絡するのに、そんな時間にはできません。
むしろ時間より何より、こんな疲れた頭で考えたくない。…だって何を言えばいいの?今朝から今で、そんなの考える暇なんてなかったもの。
………連絡するって、メール?電話?
だめだめだめ。考えらんない。
手紙には週末まで居るって書いてあったから。
明日考えられるように、今晩明日の分もお仕事頑張る。そうだ、明日、フレックスで早く帰れるようにしよう。
そこまで考えが至った私は、大きく息を吐き出して伸びをしました。次の瞬間にはふんっ、と短く息を付いて、残りの作業に取りかかったのでした。
その翌日、12月12日の金曜日、夕方5時過ぎ。
私は職場からすぐのタワーオフィスビルの展望フロアに居ました。
眼下には、東京の夜の街並みが広がっています。色んな色で煌めくネオンはとにかく綺麗で、けど同時に、人工的なその綺麗さにひどく悲しくもなります。
私はそんな夜景をひとりで眺めるのが好きですが、同じくらい嫌いだったりします。
職場近くという立地で、私はここの年間パスポートを持ってます。このパスは今居る展望フロアの他に、更に上の階の屋上フロア、下の階にある美術館が対象とあってかなりの頻度で使ってます。特に美術館は、仕事で行き詰まった時の良い息抜きの場です。
私は夜景に向かって転々と配置されてる一人掛けソファーのひとつに腰を下ろしました。
金曜日の夜は普段カップルが多いので、一人掛けならいつも座れるんです。とはいえ今日はまだ時間が早いせいか、いつもよりひとはまばらに思えました。
「ふぅー………」
腰を深く沈めてお気に入りの鞄を抱きしめます。
真冬の空はすっかり暗くて、なんだかとても胸がざわざわしています。ざわざわ、ドキドキ。
まだそんなに遅い時間じゃないのに、早く連絡しなきゃ、と気持ちだけが焦っています。運良く何も予定がないこの週末に哲平に会えるのかと思うと、胸が痛いくらいドキドキして止まりません。
手紙を取り出して、末尾に書かれたアドレスと番号を交互に見比べてみました。
メールか、電話か、メールか、電話か………携帯を取り出して、メールの作成画面を開きます。
けど何を書いたらいいのかやっぱり分からなくて、なんだか途方に暮れてしまいました。
もっとひとが沢山居れば良いのに。
今居るこの空間はなんだか静か過ぎて、自分の息遣いすら際立って聞こえてしまって。だからなんだか、余計に息苦しい。
………ひとりぼっちは嫌いじゃないのに。
けどひとりで立ち止まるのはイヤ。
こっち(東京)に出てきてから、こんなに悩むことなんてなかった。
いつもいつも忙しさが私の時間を運んでくれて、悩む時間なんてほんの少しもなかった。今まで立ち止まることなんてなかった。立ち止まるのが怖かった。
私はきっとあの時から、ずっとひとりぼっちだったから。
ひとりぼっちになることを選んだから。
あなただけを頼ってきた私は、あなたから離れることを選んだから。
「………」
ねえ、茜。
あなたは一体彼に、何を伝えたいの………?
「………」
一体どれだけうずくまっていたのか、顔を上げるのと同時に私の世界にオトが戻りました。
いつの間にか周囲にはざわざわとひとの声が溢れていて、静かだと思っていたのは自分の思い込みだったと気付きました。無意識に両手を強く握り締めていたようで、せっかくの哲平からの手紙は手の中でぐしゃぐしゃになってしまっていました。
「………電話に、しよかな」
ぐしゃぐしゃの紙の上では、アドレスのローマ字はなんだかよく判らなくなってしまったから。
メールの方が色々推敲できるけど、この興奮は上手に伝えられる自信がないし。とはいえ、電話は上手に話せる自信がないんだけど…。
…だから、今の哲平の手紙に決めてもらっちゃった。
「………よしっ」
意を決してダイヤルプッシュに挑みます。指先が少し震えている気がするのは、きっと気のせいじゃありませんでした。
コール音が一回、二回……無意識に四回数えたその時。
『もしもし』
男のひとの声。
あの頃より少し低い声に聞こえた気がして、突然不安になってしまいました。
「………哲平?」
違うひとだったらどうしよう。あんなにドキドキしたのに…。
『茜?』
………哲平。
「久しぶり」
久しぶりに呼ばれた自分の名前の響きにびっくりしすぎて、なんてことないことばが突いて出て来ちゃった。
鼻の奥が、ツンとする。
『びっくりした。もう連絡ないかと思ってた』
気のせいかな。
やっぱり鼻の奥がツンとする。
「ごめんね、おそくなって。………」
やっぱり、痛い。
『…泣いてるん?』
泣いてる?
「…やっぱりメールにすれば良かった」
そうだよ、メールにすれば良かった。
そしたらこんなところで泣かずに済んだのに。
やっと絞り出した声は、哲平に対してというよりも自分へのことばだったと思います。
『………今どこ』
そう、この力強い声が好きなの。
私が迷った時に悩む間を与えずに導いてくれる声。
私はやっぱり、哲平が大好きみたいでした。
本当に「友達に」戻れる?
………「友達」で、いいの?




